4. 魔女の動揺
なんだ今の。
なん……は? 何かものすごく美化された光景を見た気がする。
あの後――
子うさぎはその後すっかり元気を取り戻したようで、野原を元気に駆け回っていた。
リドルはその後も何度かこっそりここを訪れていたようだ。
もっとも直接話し掛けるようなことはなく、遠くからクラリッサの顔を眺めているだけだったが。
その後は予定通り進学し、順調に成長していった。
しかし心の片隅にはいつも、あの時の可憐な少女の微笑みがあった。猫のように笑う美しい彼女が、心の支えになっていた――
という記憶が、リドルの宝石を握りしめた瞬間頭の中に流れ込んできた。キラキラとハートのエフェクト付きで。
クラリッサはぞわぞわと鳥肌が立つのを感じながら、それ以上記憶を視ないようにして手の中の宝石に目をやった。
ずっしりと重い恋心のかたまり。矢印が自分へと向いた、見たこともないほど純度の高い宝石。
たしかに昔、怪我をしたうさぎを抱えた子供が一人でここを訪ねてきたことがあった。
あの頃、この店は閑古鳥が大合唱するほどに鳴いていて。気まぐれに助けてやれば、巡り巡って少しは客足も増えるかもと思ったのだ。
ぎぎぎ、とぎこちなく首を動かして目の前の青年を見る。
先ほどの問いには、ここは薬屋で自分は店主たる魔女であり、あなたは私の作る魔女の秘薬を求めてやってきたのだと説明したのだが。リドルはいまいち腑に落ちないという顔をして、怪訝そうにこちらの様子を窺っていた。
記憶を抜く前と後とで別人のように変わってしまっている。
つまり、媚薬の誘惑を断ち切った意志も。ほんの一瞬見せた寂しげな笑みの理由も。こちらを射貫くほど強い眼差しの根源も。
全てはこの宝石の中に詰まっているのだ。
それでもう限界だった。
クラリッサは無心で指を鳴らして魔法陣を描き直し超高速で呪文を逆から唱えた。手の中の宝石はみるみるうちに輪郭を失い光の粒に形を変える。状況を飲み込めていない様子のリドルの額に吸い込まれるようにして全てが戻っていく。ここまでわずか一分足らずの出来事だった。
「え、あれ?」
光の粒が全て消えた途端、リドルの体が大きく跳ねてよろめいた。しかし倒れることはなく、彼はぱちぱちと瞬きを繰り返してこめかみを押さえた。
クラリッサはふいっと顔を背ける。
「クラリッサさん、あの、記憶が消えてないような気がするんですが……まさか他の記憶が消えてるのか!? 両親……は覚えてるし、騎士団のことも覚えてる。あとは……」
「消えてない」
「え?」
「抜いたけど、戻した」
記憶の有無をひとつひとつ確かめだしたリドルに向かって簡潔に伝える。
まだ手の中に重みが残っているような気がする。
あんなもの、どうしたって扱いきれない。
「こ……困ります、それが無理なら万能薬だけでも」
「記憶の宝石がないと無理、あっても無理、作れない、あなたのは無理!」
「急にどうして……あ」
見たんですか、とリドルがほとんど声を出さずに言った。
顔を見ないようにして、こくりと頷く。
一拍の間を置いて、リドルはガッと顔を赤くした。気まずそうに目を伏せて唇を噛み、やがて観念したように口を開いた。
「……バレてしまっては仕方ありません。クラリッサさん」
「聞かない」
「聞いてください」
「何も聞こえない」
「子供の頃からずっと貴女のことが好――もご」
かぽ、と両手でリドルの口を塞ぐ。そんなことをしても何の意味もないけれど。
だって、その先を聞いてしまったら。
「もごご」
「それ以上言うと口を縫いつけるから……っ」
リドルは困ったなという顔をして、そっとクラリッサの両手首を握って口から外した。そのままずいっと顔を近づけ、
「貴女のことが好きです。やっぱり俺、諦められません」
熱が戻った瞳でクラリッサを見つめながら言った。
手を掴まれたままのクラリッサは、ひいい、とみっともない声が出そうになるのをなんとか堪える。何だこの状況は。一人前の魔女ともあろう者が情けない。避けようと体を捩るが、そのまま後ろのカウンターに背中が当たった。逃げ場がない。近い。仕方なく、腹をくくって至近距離のリドルを見上げる。近い。
「ざ……残念だけど諦めて」
「嫌です、もう決めました。絶対諦めません」
「人違いだから」
「何言ってるんですか」
「十年前と今の私なんて別人じゃない。今日で分かったでしょ? あの頃はまだ未熟で青臭くて――」
「正直驚きました。想像していたよりもとても……強かで美しくなっていたので」
はにかみながらキラキラしい笑顔を浮かべるリドルに、背中がゾッと粟立った。「離して」と無理やり腕を振り払い、リドルの背中をぐいぐい押して店から追い出す。
「俺、両親と話し合います。見合いはどうにかして断ります」
「ああそう頑張ってね、私には関係ないけど」
「また会いに来ますね」
この店に入ってきたときの落ち着かない様子はどこへやら、リドルはすっきりした面持ちに変わっていた。「もう来なくていいから!」と叫びながら扉を閉めると、店の中は一気に静かになった。
深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸を整える。顔が熱い。こんなの自分じゃない。……今まで、あんなことを言い出す物好きなんて一人もいなかったのだ。クラリッサは耳まで真っ赤に染めながら、ばくばく脈打つ心臓が落ち着くのを待った。
「ぷ」
騒ぎを聞きつけて店の奥から出てきたのか、丸っこい何かがクラリッサの足元にまとわりつく。
小さな体を抱き上げて、そのふわふわの茶色い毛皮にぽふっと顔を埋めた。
「ああ、あなたにも会わせてやればよかったね。――ルゥ」
ある時から、毎日店の前にやって来るようになった。雨の日も風の日も関係なく、毎日。今考えると、おそらくリドルが進学したころと同時期だったのだろう。何度森へ戻してもその度戻ってきてしまうので根負けして中に入れてやったら、椅子に敷いていたクッションの上に陣取り、百年前からここに住んでいますという顔になった。
それ以来このうさぎはずっとここで暮らしている。
栄養剤を作るついでに色々与えていたらやたらと寿命が延びてしまったようで、もはや使い魔のような存在になっている。魔力があるわけではないただただ長生きなだけのうさぎなので、何をしてくれるわけでもないが。
あの少年のことは覚えていた。リドルとは結びつかなかったが、ずっと覚えていた。自分だけの力で誰かを助けたのは、あれが初めてだったから。
「……また来るってさ」
ルゥはきょとんとして首を傾げた。
惚れた腫れたの色恋沙汰に巻き込まれるのはごめんだが、昔の友達に会わせるくらいなら協力してやってもいい。
リドルもまさかルゥがここにいるとは思いもしないだろう。次に来たとき、どういう反応を見せるだろうか。
あの顔が驚きに染まるところを想像すると、――ほんの少しだけ、楽しみだと思えるのだった。




