3. 騎士の記憶
まだ七つか八つの頃。
貧乏男爵家に生まれたリドル・フェインは、数ヶ月後に全寮制の学校に入学することが決まっていた。立派な騎士になって食い扶持を稼ぐためだ。
騎士になることは憧れていたけれど寮に入りたくなくて、よく両親と喧嘩になり家を飛び出していた。
一人の使用人で事足りる屋敷に比べて庭だけはやたらと広い。ひときわ大きな木の近くの茂みの中に、リドルの一番の友達が住んでいた。
「お前と離れ離れになるのは嫌だな、ルゥ」
まだ巣立ちしたばかりの茶色いうさぎ。リドルの膝の上に乗って、前足で長い垂れ耳を挟み込み一生懸命毛繕いをしている。背中を撫でると気持ちよさそうに目を閉じて、ふこふこ鼻を動かす。やわらかい毛の感触と温かい体温。臆病で警戒心も強いのに、なぜかリドルにだけはよく懐いていた。
その日も屋敷を飛び出してルゥに会いに行くと、いつもいる茂みに彼の姿がなかった。
「ルゥ? どこに行ったの?」
別の茂み、木の洞の中、どこを探してもいない。
なぜだか胸騒ぎがして森の中を探していると、少し開けた場所に何か小さなものが転がっていた。
慌てて駆け寄ると、満身創痍で虫の息になっているルゥだった。所々に血が滲み、毛はボロボロでぐったりしている。
「鳥に襲われたんだ……どうしよう、ルゥが死んじゃう、どうしよう」
じわ、と涙が滲む。泣いてもどうしようもないのに。
下手に触れて何かあったらと思うと、うかつに抱き上げることもできない。しゃがみ込んで背中に手を当てるとまだ温かく、かすかに震えている。
家に連れて帰っても何もできない。両親が傷薬を動物に使わせてくれるはずもない。でもこのままだと、きっとこの小さな命は潰えてしまう。
「……そうだ」
ふと、とある噂を思い出す。
街外れの小さな小屋に魔女が棲み着いて、薬屋を始めたらしいという噂。
魔女はそれはそれは恐ろしい姿をしていて、行った者は取って食われるから絶対に近づくなと言われている。でももう、それに賭けるしかない。
袖口で目をごしごし擦ってから慎重にルゥを抱き上げ、一目散に駆け出した。
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小高い丘の上の、いつからあるのか分からない木でできた小屋。朽ち果てて荒れ放題になっていたはずなのに、いつの間に直したのか綺麗に整えられている。
リドルは肩で息をしながら扉を見上げた。
勢いでここまで来てしまったけど、本当に食べられてしまったらどうしよう。
魔女ってどんな人なんだろう。大人たちは目つきが鋭くて牙の生えた恐ろしいお婆さんだと言っていたけれど。
扉の前を右往左往していると、腕の中から「ぴぃ」と鼻を鳴らすような音がした。ルゥが苦しんでいる。迷っている暇はない。
リドルは覚悟を決めて、木の扉を叩いた。
待つこと十数秒。
「はあい」と高い声がして扉が開き、声の主がひょこっと顔を出す。
黒いローブを着てストロベリーブロンドをふわりと揺らす、自分よりも五歳くらい年上に見える少女。
てっきり怪物のような老婆が出てくるとドキドキしていたリドルは呆気に取られ、ぽかんと口を開けたまま固まった。少女は首を傾げてリドルに声を掛けた。
「……もしかして、お客さん?」
「あっ……あの、魔女の人ですか? ルゥを助けてください!」
少女――魔女は一瞬ぱっと顔を明るくしたが、リドルが抱えているうさぎに気がつくと眉をひそめた。
「オレの友達なんです。オレはどうなっても構いません。ルゥを助けて、お願いします!」
魔女は顎に手を当てて少し考えてから、「本当は今おばあちゃんがいないからだめなんだけど……」と呟く。そして、
「分かった。私に任せて。中へどうぞ」
ルゥをひと撫でして、木の扉を大きく開けた。
小屋の中は真っ暗で、大鍋には怪しい色の液体が煮込まれていて、棚には何かの目玉が詰まった瓶だとかコウモリや虫の入ったカゴが並べられている……などということはなく。
室内は意外と広く、埃一つ落ちていなかった。壁と同じ焦げ茶色の木材でできた棚には、それぞれ違う形の葉っぱが入った瓶がいくつも並んでいる。
大きな窓からは陽の光が差し込み、室内を明るく照らしていた。窓際のテーブルにはマグカップが置かれていて、まだ湯気が立ち上っている。
魔女はカップをカウンターの上に退かし、店の奥から取っ手のないバスケットを持ってきてテーブルに置いた。そこにクッションを敷くと「ここに寝かせて」とリドルに指示を飛ばす。
クッションに寝かせても、ルゥは身を縮めて丸くなったままほとんど動かなかった。
腕の中に残っていたルゥの体温がどんどん消えていく。
無性に不安になって、唇を噛みながら魔女を見上げた。
「ええと動物用の傷薬は……これとこれと、……これだっけ?」
魔女は首を捻りながら棚からいくつか瓶を取り出して両手に抱え、「すぐ作ってくるから座って待ってて」と言って店の奥へ引っ込んだ。
木でできた簡素な椅子にちまりと座ったリドルは、ルゥの怪我をしていない部分にそっと手を当てた。
「あれ? これ違う……?」
かすかにルゥの背中が上下していることに気がつき、ほっと胸を撫で下ろす。まだ懸命に生きようとしている。
「痛っ」
祈ることしかできない自分が情けなくてもどかしい。もし大人だったら、きっともっと何かできたはずなのに。
「あ、嘘、きゃあっ」
……さっきからちょいちょい不穏な声が聞こえてくるが大丈夫だろうか。ボンッと何かが爆発するような音がして、ゲホゲホ咳き込んでいるのが聞こえる。リドルは気になって様子を見に行こうかと立ち上がったが、ルゥの側から離れたくなくて大人しく座り直した。勝手に動いていいかも分からないし。
それからあまり間を置かずに、手のひらサイズの容器を持った魔女が戻ってきた。容器には濃い緑色のペーストが入っていて、魔女はそれを指で少量すくうとルゥの傷口に塗り込んでいった。刺激があるのか、指が触れるたびにルゥがビクッと体を震わせる。
それが痛々しくて見ていられなくて、リドルは両手で目を覆った。それでもやっぱり心配で、指の隙間から二人の様子を見守る。
「やだね、痛いね。でもこれ塗らないと、君治らないから……」
彼女の指は細かい切り傷や擦り傷がついていて、ローブや髪の毛の一部が少しだけ焦げていた。きっとさっき聞こえた音のせいだろう。それを全く気に留めることなく、魔女は心配そうにルゥだけを見つめている。
どうしてだか目が離せなくて、リドルはじっと彼女を見上げていた。
薬を塗り終える頃にはルゥの震えはすっかり治まっていて、心なしか毛艶まで良くなっているようだった。
魔女が口元に錠剤を持っていくと、ルゥはふんふん匂いを嗅いでから口に入れた。ポリポリと薬を噛み砕いている。「いい子だね」と魔女が頭を撫でると、大人しく目を閉じた。
「ルゥ……? もう大丈夫なの?」
リドルの声に反応してルゥが顔を上げた。
そのままバスケットからテーブルに降りてリドルに飛びつく。ついさっきまであんなにぐったりしていたのが嘘みたいにしっかりした足取りだった。
「ルゥ! 良かった……!」
ぎゅっと抱き締めると、いつものお日様と干し草のような匂いがした。
それを嗅いだ途端、それまで堪えていた涙が溢れ出て止まらなくなった。次から次へとぼたぼた流しながら、それでもなんとか声だけは上げないように耐える。魔女にこれ以上子供っぽいと思われたくなくて。
「はあ、効いてよかった……。そうだ、まだ完全に治ったわけじゃないから二、三日は様子見て塗ってあげてね」
魔女が差し出した薬を片手で受け取り、落とさないようにズボンのポケットにしっかりとしまう。そのときリドルはハッとして顔を上げた。
「あの、ルゥを助けてくれてありがとうございました。それで、えっと……に、煮るなり焼くなり好きにしてください!」
「え?」
「魔女は人を食べるって聞きました、だからオレを……。ルゥを助けてくれたお礼です。……ひと口でお願いしますっ」
「……私は食べないわ。人を食べるのはおばあちゃんよ」
「ひぃ……」
ガクガク震えて何も言えなくなったリドルに、魔女はぷっと吹き出した。
「嘘。魔女は人間なんて食べないわ」
ルゥを強く抱き締めていたリドルはほっとして、しかしそうなると何と言えばいいか分からず目を伏せた。それでもなんとか言葉を探して口を開く。
「お金、今ちょっとしか持ってなくて……。でもお小遣い貯めて絶対払います!」
「お金はいいから、その代わりにこれも持っていって」
ぽいっと渡されたそれは、ルゥ用の薬が入ったものよりも一回り小さい容器だった。
「これは……?」
「人間用の傷薬。ちょっとした怪我なら治せるから、街の人に使ってあげて。どうしたのか聞かれたら、うちの薬だって広めてくれる? 良く効くんだって」
「! はいっ」
魔女は猫のようににまりと微笑んだ。
彼女の琥珀色の瞳が、宝石みたいに綺麗だった。




