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第6話【昇級戦に挑む】――8分の1の神話


 北関東の、小さいがつくばエクスプレスが止まる街の駅近のカフェ。

 二人の男の打ち合わせはますます絶好調だ。

 

 食後のコーヒーを口にしながら、青年が言う。

 

 「未勝利シリーズは意識が飛びそうになるほどの衝撃でしたけど――」

 

 不安そうな表情を調教師に向ける。

 

 「――落ち着いて振り返ってみると、馬の体が心配です」

 

 オーナー(代理)としては当然だろう。初陣で、中3週で3度の出走。この代償は少なくはない筈だ。

 

 「うん。分かってる」

 

 言われるまでもないだろう。調教師だ。

 

 「しかし見返りの大きさとリスク許容度を天秤にかけて、ギリギリのバランスをとった選択だ。中3週で3戦は3歳春には一般的には過酷と言えるが、それが負荷・休息・調整のサイクルで計画されたものであることを前提にし、さらに足元への負担が軽いダート戦であること、ここまでフィジカルを十分作ってきていること、クロスが極めて薄い頑強な血統であること、ブライアンズタイム12.5%は故障知らずの都市伝説まで考慮するなら、アリかナシかで言うと、アリだ」

 

 歯切れが悪い上にやたら早口だ。内容不明で妙に語呂が悪い都市伝説まで考慮に含められている。要するに、やや負担を強いたという自覚はあるのだろう。

 

 「だといいんですが……」

 

 聞き取れなかったか、都市伝説はスルーして青年は言った。

 調教師は気を取り直して言う。

 

 「ここで馬体にかなりの負荷がかかることを織り込んだ上で、この先の充填期間を設定している」

 

 これを聞いて青年も吹っ切れた表情を見せる。

 

 「分かりました。ここは先生を信じるということで、前を向いて行きましょう」

 

 

 

  ◇◇◇

 

 

 

 よし、とひとつ頷いて、調教師が言う。

 

 「3月3週の未勝利戦を勝ち上がったところで、すぐ北海道へ行く」

 

 本人もプランも、切り替えが早い。

 

 「すぐ、ということは、いつもの育成牧場ですか? まだ夏競馬は始まってないですよね」

 

 夏どころか、北海道は春になったかどうかさえまだ微妙な時期だ。

 

 「そうだ。それも含めて、ここからしばらくは北海道に滞在することになる」

 

 青年が頷くのを見て、調教師は続ける

 

 「まずは育成牧場だ。函館開催が始まる6月までの10週間、ここに滞在する」

 

 「10週間ですか。それだけあれば久しぶりの育成牧場で、かなりのんびりできますね」

 

 「……まあ……そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 

 「え? 違うんですか?」

 

 単なる休養ではないようだ。

 

 「まず、君の不安を払拭するため、というわけではないが、すぐ4週間の完全休養を入れる」

 

 4週間。換算すれば28日。

 

 「……安心しました。4週間あれば、大丈夫そうに思えます」

 

 4週間の長さを確認した青年は、安心した表情を見せる。

 

 「広々した牧草地で、ただお日様の光を浴び、風に吹かれて、自由に過ごすんだ。激戦の疲れも、心身ともに一掃できるだろう」

 

 「ホントに完全な休養なんですね」

 

 生き馬の目を抜く勝負の世界からは離れた、ほのぼのした光景が目に浮かぶ。


 広い牧草地に佇んで

 馬はのんびり草をはむ。

 緑の上を

 清々しい風が柔らかに通り過ぎてゆき、

 草ぐさがたおやかに、

 波のように凪いでいく。

 あ丶 僕を育てた広大な大地よ――

 

 「しかしここで一つだけ、絶対に外せない仕事がある」

 

 やはりそんなに甘くはないようだ。

 

 「仕事?」

 

 「うん。もりもり食べて、太ってもらうんだ。目標はプラス30キロ。自然に増えるようなら、もっといってもいい」

 

 大きな変動に、青年はおお……と唸って言う。

 

 「しかし4週間でプラス30キロって、かなりですね。休ませつつ馬体の成長を促す、ということですか?」

 

 「まあ、そう思っていい」

 

 いったんそう切って、調教師はコーヒーに口を付けた。

 デビュー以来の出走記録が表示されている、タブレットの画面をじっと見詰める。そして、うんうんと何度か頷いたあと、

 

 「よし、いいだろう」

 

 忘れ物がないことを確認でもしたように、ポツリと言った。

 青年は黙って聞いている。あと6週間残っている。何かありそうだ。

 

 「北海道シリーズの開幕戦に向けて、この馬を、芝・長距離の実戦用に作り変える。最終強化フェーズだ」

 

 まだフェージングは終わっていなかったようだ。

 最終、という変わることのない正義のワードに、青年はおお……と唸ると、興奮気味に言った。

 

 「つまり、いよいよステイヤーとして完成、ということですね!」

 

 「うん。そうなるね」

 

 調教師は頷いて続ける。

 

 「去年の春夏の強化育成と、未勝利シリーズの実戦での成長で、もうピースは揃ってる」

 

 「はい」

 

 「そして今、完全リフレッシュされた心身と、大きく増やした馬体で、態勢も整った」

 

 「……確かに」

 

 「あとはこれを、芝の、特に北海道特有の『洋芝』と同じ調教コースを持つ育成牧場という環境で、実行に移すというわけだ」

 

 函館・札幌の両競馬場の芝コースには、寒さに強い『洋芝』と呼ばれる品種の芝が使われている。

 

 「なるほど……芝ですか」

 

 青年が感心した様子で言う。

 

 「いつにも増して、準備万端、という感じがします」

 

 「そりゃそうだよ。この馬にとって、北海道シリーズこそが真のデビュー戦なわけだから」

 

 青年の反応に、当然だといった表情で調教師は続ける。

 

 「完全休養明けから再始動したら、まずは増えた馬体をビルドアップしていく」

 

 「脂肪を筋肉に変えていく、ということですね」

 

 「そうだ。ある程度絞れたところで、芝コースも使って、芝の長距離戦に向けたトレーニングメニューにシフトしていく。このあたりは育成牧場のノウハウに任せれば大丈夫だ」

 

 「はい。去年この馬をここで強化育成してもらってるし、安心して任せられます」

 

 「一度緩めた効果で、ビルドアップ後はひと回り逞しい馬体になることだろう。あと芝コースでのキャンターと追い切りを重ねることで、スピードに乗った軽い走りに順応させていく。今後はずっと芝で走るわけだから」

 

 ようやくステイヤーのイメージに直結するトレーニングとなって、青年の目も輝いている。

 

 「最後の1週、つまり10週目を目途に、次走の芝2600メートルに合わせた仕上げまで育成牧場で済ませて、この最終強化フェーズは完了だ」

 

 「……」

 

 「そして、1歳から取り組んできた、いわゆる王道ステイヤーの育成も、ここで基本の部分は完了だ。おそらく未勝利シリーズとは見違えるような馬になってると思うよ」

 

 「すごく楽しみです!」

 

 青年は本当に楽しみにしている様子だ。正真正銘のステイヤーを育成したいという夢に対し、その実体がついにここ北の大地に出現するのだ。

 その感動もよそに、調教師の説明は続く。

 

 「6月初週を目途に、育成牧場から函館競馬場に輸送して、ここからはそこで待つ我々が引き継ぐ」

 

 「いよいよ函館ですか」

 

 「うん。初戦に向けて最終チェックだ。函館のウッドコース使って、1週前にビッシリ、レース週は軽めに追って、あとはレースを待つだけになる」

 

 あっという間に、菊に向けての勝負処、北海道シリーズ函館開催の初戦がやってきた。

 

 

 

  ◇◇◇

 

 

 

 「え~と初戦は、1勝クラスの『駒ヶ岳特別』ですね」

 

 「そうだ。あと夏競馬からは、条件戦は出走条件が『3歳以上』になるので、ここは古馬との混合になる」

 

 「言われてみれば……古馬も出るんですよね」

 

 4歳以上の馬は一括して『古馬』と呼ばれる。まだ未勝利を勝っただけの3歳馬から見ると、歴戦の古馬は格上感がハンパない、そんな心中がモロに出ている青年の表情を見て取ったか、調教師が言う。

 

 「そこは心配ないよ。3歳馬は斤量が4キロも優遇されるので、むしろ狙い目とさえ言える」

 

 逆に言うと、古馬と3歳馬の間には、経験も含めてそれだけの能力差があるということでもあるので、油断はできない。

 

 「それよりもここで危惧すべきなのは、レースが極端なスローペースになって、ラストの追い比べだけの勝負になってしまうことだ」

 

 「そうですね。この馬のスタミナが活きないです」

 

 「だからここでは楽なペースに絶対させないように、先手を取るつもりで行っておいて、それでも絶対自分が行く、という馬が他にいればこっちは控えて、という柔軟な立ち回りが理想になる」

 

 『先手を取る』とは、スタートから逃げを打つことを指す。

 

 「すごく高度に思えますが……」

 

 なにせ相手は歴戦の古馬が中心だ。

 

 「まあ、そこは相手関係次第だ。出走馬を確認した上で騎手と事前に十分認識を合わせて、あとは任せるだけだ」

 

 「分かりました。最後は騎手の方を信じましょう」

 

 心の準備はできたようだ。

 

 「よし、では北海道シリーズ初戦だ。1勝クラス『駒ヶ岳特別』、函館の芝2600メートルだ」

 

 「はい!」

 

 「で、当然ここは勝ちを計算するところだが、計画上は悪い方に倒して、3着敗退、と見込んでおく」

 

 「えー!」

 

 青年は不満そうだ。ここまで準備してきたのだから、その気持ちは分かる。

 

 「いや、ここは負けておいて、このあとのローテーションをシミュレートしておきたいんだよ」

 

 「勝てるんですよね? 本当は勝ちなんですよね?」

 

 いつになく青年はしつこい。

 

 「……今回は2番手に控える競馬になり、ゆったりした流れを折り合い良く進んで道中の手応えもよし。スローな流れからラスト1000で仕掛け、他馬を引き連れる格好で4角を回って、直線は力強い走りでゴール板を通過したが、鋭く差し込んできた2頭との写真判定になり――」

 

 「……」

 

 「アタマ、ハナでやられた、というところだろう」

 

 青年はああ……と天を仰ぐ。

 

 「写真かぁ……逃げておけばよかったのでは」

 

 青年はよほど悔しいようだ。しかし勝負の世界にタラレバは禁物だ。

 

 「それは結果論だ。それに見ろ、初めての芝・長距離なのに、4コーナーで決着をつけにいく、君が理想とする走りがちゃんと形になってる。ジョッキーもこれでこの馬の特性を手の内に入れただろうし、むしろ大収穫だ」

 

 「……なるほど。それは確かに大きいかも」

 

 少し気持ちを立て直したらしい青年は、タブレットを手に取って操作したあと、トンと調教師の前に置いて言った。

 

 「まずはこうなりました」

 

-----------------------

6月3週 函館 駒ヶ岳特別① 3着


-----------------------

 

 「うん。想定内だ」

 

 調教師は頷いて言った。

 

 「しかし、1敗しかできない北海道シリーズで、大事な初戦を落としてしまいました」

 

 青年は一般論的な、先行きへの不安を語る。

 しかし調教師は澄ました顔で言った。

 

 「大事な初戦、というのは俗説に過ぎない。決着がつくまで、一戦一戦すべてが大事だ」

 

 客観的な真理だ。

 

 「それは……まあ」

 

 「それに、『3番勝負は、第2戦を取ったものが勝つ』がプロ間では定説になっている」

 

 しばしの沈黙。

 

 「……苦しくなったら都市伝説、分かっちゃうんですけど……」

 

 冒頭の語呂が悪い都市伝説?も、聞こえていてスルーしていたようだ。

 

 

 開始からもう数時間を経過した二人の打合せは、終わる気配はもちろん見通しもまだない。

 

 

 

  ※※※

 

 

 


お読み頂きありがとうございました。


「8分の1の神話」いかがでしたでしょうか。

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どのような感想を持たれたかのコメントもお待ちしています。


次話「遠雷」も、よろしければぜひお読みください。

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