第11話【目標2へ向かう】――『力』が欲しいか
北関東の小さな街の、駅に近いカフェ。
二人の打合せは、最初の大きな区切りを超え、達成感と高揚感が入り混じった不思議な感覚で続けられていた。
「さて。第1の目標だった菊花賞を獲って、順調に計画を進行させたわけだけど」
「はい。先生のおかげです!」
青年はハーブティを飲みながら、嬉しそうに、そして安心した様子で答える。それもそのはずだ。愛馬がG1ホースに、それも伝統のクラシックホースになったのだ。
何かデザートでも、とメニューを開き、カスタードを焦がした苺のパフェを指さす青年に、調教師はうむ、といった様子で頷いた。
「で、次の目標に向かうにあたって、まず菊花賞の振り返りをしておく必要がある」
「ですね」
初のG1挑戦は1着という最高の結果で終わったが、レース内容については必ずしも最高だったとは言えないだろう。
「で、レースの内容について、どう思った?」
調教師が青年に問いかけた。
テーブルに訪れた店員にデザートを注文したあと、メニューを置いて青年は答える。
「勝てたのはもちろんよかったです。ただ……」
青年はためらいがちに言った。
「私が理想とする走りのイメージとは、少し違ったかな、と」
この打ち合わせの冒頭、青年が調教師に示した理想の走り、エンプレス杯のホクトベガは、4コーナーを先頭で回ったあと、直線も後続を全く寄せ付けない力走だった。
青年は続ける。
「最後はセイフティリードを生かして押し切る、という意味では、確かにうまくいったとは言えるんですけど……」
猛追をクビ差凌いだという内容に、青年は引っ掛かるものがあるようだ。
お茶を飲みながら青年の話を聞いていた調教師は、カップを置くと顔を上げて言った。
「君が理想とする、その走りのイメージの中で――」
「……」
「ゴールまで後続を寄せ付けない走り、という部分は、要求されるパワーのレベルが格段に高くて、実現に向けた強化が難しいところなんだ」
「そうだったんですか――」
しかし、と青年は続ける。
「北海道シリーズでは、かなりできていたように思いますが」
「それは、北海道シリーズが条件戦で、かつ3歳馬は斤量が優遇されていたからだ」
「……なるほど」
8馬身差をつけての勝利だった阿寒湖特別は、3歳馬と古馬で3キロの斤量差があるレースだった。
「そこで、菊花賞では――」
調教師は続ける。
「ここは勝ち筋に集中して、スタートから中盤、そして4コーナーまでで体力的な優位と大きなリードを築き上げ、これを生かして、現時点の持てるパワーでゴールまでを凌ぎ切る、そういう戦い方としたわけだ」
「……なるほど。最後は総合力で、と言っていたのは、そういう意味だったんですね」
調教師はそうだ、と頷いた。
◇◇◇
少しの思案のあと、青年が尋ねた。
「デビューからここまで、『パワー強化』みたいな育成メニューは、なかったですよね?」
「うん。そこがこれからの課題に繋がるので、少し説明するんだが――」
調教師はお茶を一口飲んで、続けた。
「まず、ここでいうパワーとは、いい脚を長く使うために必要とされる力で、一定の負荷を、定常的に繰り返すことで強化される」
「一定の負荷の繰り返し、ですか?」
「そうだ。つまりパワーは、それ専用の強化メニューを打つというより、日々のトレーニングの、その積み重ねの中で同時に強化されていくもの、ということだ」
「……積み重ね、ですか」
「デビュー前からじっくり育成してきたこの馬のパワーは、周りと比べればそれなりに高度なレベルにあるが、君の理想の走りという意味だと、まだ積み重ねが足りていない」
「なるほど……」
この馬の現在地が、徐々に見えてきたようだ。
「そこでここだ」
調教師が身を乗り出す。
「ここで、君の立てた目標、そこにある『ジャパンカップも有馬記念も外す』という方針が、とても効いてくるわけだ」
話が突如、打合せ冒頭のテーマに戻った。
青年は一瞬え?と戸惑ったが、すぐに思い至ったようだ。
「そうか……次の目標は春の天皇賞で、そこまでえ~と……半年くらいの期間がある、ということですか」
調教師が頷く。
「菊花賞から春の天皇賞まで6ヵ月以上、前哨戦とする予定の阪神大賞典までとしても5ヵ月以上という、大きな準備期間がある」
「……確かに。デビュー以来なかった長さですね」
「うん。この期間で最後のピース、『最後の直線をゴールまで力強く踏み抜くパワー』を、トレーニングの入念な積み重ねで達成する、というのが、ここからの強化テーマになるわけだ」
おお……と青年が唸る。
「『王道ステイヤー・Ver.菊』から、さらにバージョンアップするんですね!」
「そうだ。クラシックを獲ったVer.菊もそれなりに完成度が高いが、長距離戦に長けた歴戦の古馬相手には、もう通用しないバージョン、と考えた方がいいだろう」
ステップアップすれば、敵も強くなるものだ。
「なるほど。ステイヤーとしての本格化はこれから、というわけですね」
青年がむしろ嬉しそうに答えた。
◇◇◇
テーブルに運ばれてきた、焦がしカスタードと苺のパフェ。濃厚な甘みと苺のさわやかな酸味が、二人の頭脳をリフレッシュさせる。
「そういうわけで――」
苺が酸っぱいのか、調教師は目を細めながら話す。
「菊花賞が終わったところで、馬はいったん関東の外厩に戻してレースの疲労を抜き、落ち着き次第、北海道に輸送する」
「育成牧場へ行くんですね」
「うん。1年の疲れをここで一気に抜くことから始める」
「そうか。この馬の3歳シーズンは終わったんですね」
青年が感慨深そうに言う。
「1月のデビュー戦からここまで7戦。年間のレース数としては、まあ標準的だったというところだろう」
そう評価して、調教師は続ける。
「育成牧場では、11月を完全休養に充てて、馬体とメンタルのリフレッシュに専念する。1年分の蓄積疲労をここで抜き切りたいので、放牧や温泉など、牧場スタッフには手を尽くしてもらおう」
「なるほど。……そして12月から調教開始、ですか?」
「リフレッシュが順調であれば、そうなる。12月は軽い運動から始めて、徐々にペースアップして1月からビッシリいけるような、そんな目途感で進めてもらう」
「トレーニング内容は、今回はどんな感じになりますか?」
「基本的には育成牧場のノウハウに任せるんだけど、今回はパワー強化という大きな目的があるので、できるだけ長い期間、定常的に一定の負荷をかけていきたい」
青年はじっと聞いている。
「負荷と効果のバランスを考えると、これには坂路が効率がいい。最初は軽めでいいから、坂路については12月の早い段階から、継続的にかつ重点的に取り組んでもらうことになるだろう」
「なるほど。坂路ですか……確かに、特別なものじゃなく、一般的なメニューなのが、無駄がなくていい感じです」
「うん。負荷が調整しやすいのもいい」
青年は納得したように、何度か深く頷く。
「……長い期間、という話でしたけど、このトレーニングはどのくらいやれますか?」
「次走は前哨戦として3月4週の『阪神大賞典』を使うので、そこから逆算して育成牧場でのトレーニングは2月3週までになる」
「なるほど。すると、12月から始めたとして……3ヵ月弱、ですか」
「どう? 結構『じっくり』でしょ」
「はい! デビュー以来、週刻みのスケジュールが続いてたんで、ここはかなり『じっくり』を感じますね。場所も慣れた育成牧場ですし、大きな成果がありそうです」
青年は満足そうだ。
調教師は頷いて続ける。
「ここで一区切りして、2月4週に北海道から関東の外厩に輸送する。芝3000メートルに合わせた仕上げは、外厩にやってもらう」
この辺りの流れはもう熟知したのだろう。青年は自然に、むしろ心地よさそうに聞いている。
「次は前哨戦ですよね。仕上げは余裕を残して、という感じになるんでしょうか?」
前哨戦は本番に備えて、無理なく実戦感覚を戻すことが目的であり、勝利は最優先ではない。
「いや、ここは一杯の仕上げで臨む。本番の天皇賞までは中5週あるので、ここで一杯に仕上げても、本番にもう一度ピークに持っていく余裕がある」
青年がおお……と唸る。
前哨戦とは言っても阪神大賞典は伝統の長距離戦、ステイヤーとしてはぜひ勝ちたいレースだ。
調教師が続けて言う。
「ここは、この冬の成果を確認するレースでもある。しっかり仕上げて、走りを確認する。阪神競馬場はゴール前に急坂があるので、パワー強化の成果を確認するのに最適だろう」
「……なるほど。重要なレースですね」
調教師は頷いて続ける。
「で、3月中旬過ぎにトレセンに入れて最終調整する。レース週は軽めに追っておいて、前日に阪神競馬場へ入れる、という段取りだ」
外厩で仕上げて、トレセンは軽め。
「いつも通りですね」
青年は信頼感いっぱいの口調でそう言ったあと、
「ひと冬越して、どんな成長を見せてくれるか楽しみです」
笑顔でそう言って、パフェの苺を口に運んだ。心から楽しみにしているようだ。調教師はそんな青年を見て、こちらも満足そうにカスタードを味わっている。
「どう? いい準備期間が過ごせたでしょ」
「はい! 何といっても、期間が十分あるのがいいですね」
「それもこれも、君の当初プランと、そして何より、計画通りに菊花賞を勝てたことが大きいわけだ」
「確かにそうですね」
ここで調教師がグッと身を乗り出す。
「でだ。ここで少し話を戻して、菊花賞に出られなかった、あるいは勝てなかった場合に、この冬をどう過ごして春の天皇賞へ向かうのか、これをシミュレーションしてみる」
ここで、青年の眼光が黒光りする。
「……それは『Bコース』の話ですね?」
「そうだ」
「はい! それはぜひお願いします!」
なぜかノリが更に上昇する調教師。
そしてなぜか熱量が更に増す青年。
ここにきて、二人の時間はリカバリープラン、禁断の並行世界へと突入するようだ。
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