第10話【目標1へ挑む】――天と地と
つくばエクスプレスが止まる、北関東の小さな街。駅にほど近いカフェ。
大きな目標を前に、二人の打ち合わせはほどよい緊張感の中で進められていた。
「菊花賞が行われる、京都の3000メートルだが――」
調教師によるコース案内が始まる。
「ざっくり言うと、一周2000メートルのトラックを、一周半回るコースだ」
「なるほど。それで3000メートル、ですか」
分かりやすい計算だ。
調教師は頷いて続ける。
「向こう正面のスタート地点を出るとすぐ山になっていて、これを上って下る第3コーナー、そこから右に緩やかにカーブしながら第4コーナーまで、緩やかな下り坂が長く続く」
「いきなり上って、下るんですね」
「第4コーナーを回って平坦になり、一周目のメインスタンド前。観客からの大歓声を浴びながら直線を進み、そのまま観衆の前を駆け抜けていく。ここまでが前半の1000メートルだ」
「なんだか聞いてるだけで緊張してきます……」
まだ先が長いというプレッシャーが生む、静かな圧迫感と緊迫感。長距離戦・序盤の独特の空気だ。
「さて、この前半のポイントだが」
「はい」
「多頭数での位置取り争い、行き足がつきやすい下り坂、そしていきなりの大観衆、大歓声。この悪条件の中を、いかに力まずに、リラックスして走れるか、それがレース後半の余力に大きく影響する」
「……なるほど」
緊張のせいか、青年の声は震え気味で、顔色も青い。
「でもそれなら――」
青年がためらいがちに続ける。
「デビュー前から取り組んだ、折り合いつけた走りの訓練が、生きますね?」
休むことなく、先を行く馬を我慢強くじっと追いかけ続けた、あの夏の育成の日々。
「そうだ」
調教師が頷いて答える。
「常に鞍上の指示に従う走り。騎手が必死に抑え込む馬、暴走気味に行ってしまう馬、周囲がバタバタしている中、涼しい顔でマイペース、そんな大人の走りが期待できるだろう」
ヨシッ、の声とともに、青年が右拳を胸の位置に引き付ける。
そんな青年の仕草に、調教師は深く頷いて、続ける。
「レースは中盤に入る。1コーナーから2コーナーを緩やかに右にカーブして、向こう正面、バックストレートを進む。ここでトラックを1周、2000メートル走ったことになる」
「もう1周したんですね……」
「で、この中盤のポイントだが」
「はい」
「ここで各馬は落ち着き、終盤に脚を温存するためにラップが落ちる。逆にここで緩めずに、早いラップを刻み続ければ、無理なく自然に好位置を取って、レースの主導権を握ることができる」
「なるほど。勝負処ですね……」
青年の緊張感が再び高まる。
「長距離の訓練と経験が、最も問われるところだろう」
「でも、それなら――」
青年は光明を見出した様子で言う。
「春の長目の走り込みと、北海道シリーズの豊富な実戦経験が、生きますね?」
芝コースでの長いキャンターの繰り返し、そして気力・体力を振り絞って走り抜いた3度の2600メートルの昇級戦。
「その通りだ」
調教師は頷いて答える。
「馬なりのまま緩みのない走り。各馬がペースを落ち着かせる中、一頭だけ違うレースを走っているような、伸びやかな行き足が期待できるだろう」
青年は再び右拳をグッと握り締め、ヨシッと1回小さく振る。
「そして――」
と、調教師は続ける。強い目力だ。
「この舞台を軽やかに駆け抜けた父親が強く受け継ぐ、サンデーサイレンスの持続力あるスピードが、この走りを支える」
おお……と青年が唸る。
そうだろう、と。
血統図を見たときから感じずにはいられなかった、どこまでも軽やかな走り。
調教師は深く、2回頷いて、続ける。
「ここからレースは終盤だ。3コーナー手前の2度目の山越え。上って下りて、そして3コーナーをゆっくり右へカーブ、緩い坂を下りながら4コーナーへ向かう」
「本当の勝負処ですね……」
調教師が頷いて続ける。
「ここでのポイントは、あと1000メートルの地点にある2度目の山越えだ。上り坂を力走すると、体力が削られて足が最後まで持たなくなるのが怖いし――」
「……」
「逆に体力を残そうと楽に登ると、続く下り坂でのペースアップ合戦に乗り遅れて、巻き返せなくなる恐れがある」
「……なるほど。難しいですね……」
一瞬の駆け引きが勝負を分けそうだ。
「でもそういうことなら――」
青年がスッと顔を上げて続ける。
「この山越えも、デビュー前から磨いてきた、心肺機能の強さがあれば怖くない、ですか?」
飽くことなく、坂路コースの霞む稜線を見上げては駆け上った、あの夏の育成の日々。
「そう。まさしくそれだ」
調教師は頷いて答える。
「スタミナ切れなど恐れない心肺機能。各馬がタイミングを測る中、観衆がどよめくような力強い脚色で、果敢に山を駆け上がっていく走りが期待できる」
青年は今度は両拳を握り締め、ヨーシッと軽く天を仰ぐ。
「そして――」
と調教師は続ける。鋭い眼光。
「史上最強といっていい超・長距離王、母の母方に脈打つパーソロンの血。その無尽蔵のスタミナと自在の脚が、この走りを支えるだろう」
おお……と青年が再び唸る。
やはりここだ。
血統図から否応なく滲み出る、そのスタミナ、その馬力。
調教師はまた深く、2度頷いて続ける。
「最終盤、4コーナーを回って最後の直線だ。もう上りも下りもない。平坦な400メートル、スタンド前を駆け抜けた先が栄光のゴールだ」
「ついにですね……」
「ここまで既に走破距離2600メートル。ポイントは、極限状態の中、確かなグリップでコーナーを回り、直線を最後まで力強く踏み込む走りができるかどうかだ」
「つまり最後は、パワーと根性ですね……」
ここまでくれば戦術も理屈もない。
「でも、パワーというなら――」
青年が思い出したように続ける。
「ダートで戦った未勝利戦、あのときの準備と、3度の実戦が、きっとここで生きますね?」
繰り返した砂でのダッシュ。そして中3週で3戦を戦ったダート実戦。
「それもある」
調教師は頷いて答える。
「そしてそれも含め、もうここは総合力で、コーナーからゴールまでを力強く走り抜けることを期待しよう」
青年は分かった、というようにゆっくり頷く。
「そして――」
と調教師は続ける。その目が爛々と光る。
「地方・中央を股にかけて、タフにゴール前を競り続けたダート王、母の父方に流れるそのブライアンズタイムの頑強さが、走りを支えてくれるだろう」
おお……と青年が三たび唸る。
ここでくるか、と。
血統図の中に確かな存在感を示す、タフで頑強な血。
ここでまで話したところで、調教師はハーブティーを一口飲む。
そしてふーっと息をついて、続けた。
「ここまでが、京都の3000メートルの概要と、攻略ポイントだ」
「……」
調教師の声に、青年は改めて、これまでを振り返る。過ごしてきた育成の日々、走ってきた実戦、そして穴が開くほど眺めた血統図。すべてがこの現在に収束した。
当初の目標を、心の中で再確認する。
勝算、あり――
◇◇◇
青年の様子を見た調教師が尋ねる。
「……で、心の準備はいいかな?」
青年は恐る恐る頷く。
それを見て、調教師が続けた。
「北海道シリーズの2連続の圧勝がマスコミに評価され、当日は差のない2番人気。相手はダービー最先着馬で、トライアル1着でここに乗り込んできた、と仮定しておく」
「……相当の強敵ですね」
調教師が頷いて続ける。
「では、10月4週、菊花賞。京都3000メートル、馬場状態は良だ」
「はい!」
ここで調教師の表情が、優しいものに変わった。
「……で、おめでとう。1着。優勝だ」
「……」
一瞬の沈黙。
ああ……と緊張から解放された声を出して、青年がドサッと、椅子に深く背を預けた。
大きく息を吐いて、目を閉じる。
やがて目を開いて、体を起こしながら言った。
「なんか……安心しました。……また『計画上は悪い方に……』とか言われるんじゃないかと……」
調教師が一瞬笑って、続ける。
「バラバラとしたスタートになり、今回は無理せず中団に位置取ると、先頭集団を見ながらリラックスした走りでメインスタンド前を通過。1・2コーナーから徐々に進出を開始、向こう正面では先頭を行く馬のすぐ後ろ、3コーナー手前でペースアップすると一気に先頭に躍り出る。坂の下りでさらに加速、4から5馬身リードで4コーナーを回って直線を力走。が、ここで後続の1頭が、溜めた脚を爆発させて外から猛追、ぐんぐん差が詰まり、馬体が重なったところがゴール――」
「……」
「――最後はクビ差凌いで1着、というところだろう」
おお、と青年が唸る。
「まずは勝てて良かったです! ……でも、最後は際どかったですね」
盤石、というわけではなく、歓喜の中にも課題はありそうだ。
「うん。君も何となく察したと思うけど、こうなる必然性はあったんだ」
「……はい」
青年も感じるところはありそうだ。
「でも、それも想定内だ。その上でのG1制覇、菊花賞に関する限り、結果も内容も計画通りの、文句なしの目標達成だ」
「はい!」
青年はタブレットを引き寄せ、軽やかな手際で何やら操作する。そしてテーブルに置くと、調教師の側へクルリと回した。
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1月3週 中山 未勝利/ダ1800 5着
2月3週 東京 未勝利/ダ1800 2着
3月3週 中山 未勝利/ダ1800 1着
6月3週 函館 駒ヶ岳特別①/芝2600 3着
7月3週 函館 1勝クラス①/芝2600 1着
8月3週 札幌 阿寒湖特別②/芝2600 1着
10月4週 京都 菊花賞G1/芝3000 1着
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「こうなりました!」
嬉しそうな青年の声がカフェの中に響き、反応した店員がカウンター越しに、一瞬こちらへ視線を向けた。
最初の目標、まずは上々の達成だ。
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次話「『力』が欲しいか」は5/17(日)の23:30までに投稿予定です。
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