第9話【目標1へ向けて】――序破Q
北関東、つくばエクスプレスが止まる小さな街の、駅に近いカフェ。
二人の打ち合わせは最初の山場を迎えていた。
少しやさしいお茶が飲みたい、という調教師のオーダーに沿って、二人の前にはバラ果のハーブティー。さわやかな酸味とほのかな甘みが、心を落ち着かせる。
「いよいよ菊花賞ですね」
はやる心をハーブティーで落ち着かせつつ、青年が言う。
「来たな。とうとう」
調教師も若干高揚しているようだ。
「プラン通り、『阿寒湖特別』勝利からの直行ですから、見通しは明るいと言っていいですか?」
青年が確認する。
調教師は即答せず、ハーブティーを口に運ぶと、ひとつ息をついて、間を置く。
「馬の方はよくやってくれた。……で、ここからは我々ががんばる番だ」
「我々の番、ですか」
調教師は頷いて続ける。
「今のこの馬の状態を、春の実績馬たちと比べてみれば分かる。彼らは順調なら、6月からリフレッシュに入り、このタイミングではとうにリフレッシュも明けて菊花賞に向けての強化が佳境、というとこだろう」
「それは……そうでしょうね」
「それに対してこっちの馬は、北海道シリーズの激戦を終えた直後で、余力がゼロに近い状態だと思っていい」
「……確かに」
北海道では、3ヵ月の間に2600メートル戦を3回走っている。
「なのでここから本番までの9週間、馬の心身を立て直して、さらにレースに向けてピークまでもっていく作業を、確実に進めていかなくてはならない」
「しっかり休息もさせたいですが……G1ですからね。ここはピークで臨みたいです」
大きな勝負処なだけに、青年も攻めの姿勢を示す。
調教師はここでお茶を一口飲んだ。
◇◇◇
「そのためのプランはある。名付けるなら『4.0+3.5+1.5計画』とでもしておこうか」
「……」
全く気持ちが上がってこないプラン名だ。語呂もいい悪いという次元ですらない。
しかし調教師は気にもせず続ける。
「この数字は週を表している。4週間、3.5週間、1.5週間、という3つの期間を表す」
「そういうことですか」
当たり前だが、内容はしっかりしたもののようだ。青年は、では、といってタブレットを引き寄せて手に取った。
「……え~と、それぞれ簡単に教えてください。最初の4週から」
タブレットを操作しながら青年が尋ねる。
「さっくり言うと、最初の4週が育成牧場でリフレッシュ。次の3.5週が外厩で仕上げ。最後の1.5週がトレセンで最終調整だ」
それぞれの期間はともかく、これまで繰り返してきたルーティンにかなり近い。青年は頷きながら聞き、慣れた様子で入力していく。
やがてテーブルにタブレットをコトリと置き、調教師の側へクルリと回す。
「こういうことですね」
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<4.0+3.5+1.5計画>
4.0(0.0~4.0週) 休養(育成牧場)
3.5(4.0~7.5週) 仕上げ(外厩)
1.5(7.5~9.0週) 最終調整 (トレセン)
9.0週の日曜日 菊花賞(京都競馬場)
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調教師は表示された内容をサッと見て
「うん。あってる」
と答えた。
しかし青年の方が画面を見て、ん?と唸る。
「この外厩とトレセンは、いつものですか? 関東の」
「そうだよ」
「じゃあ京都へは、直前輸送ということ?」
「そうだ。レース前日の土曜日に、こっちのトレセンから京都競馬場入りする」
「そうすると、北海道から関東へ輸送して、そのあと関東から京都競馬場へまた輸送することになりますよね」
青年は、画面上の輸送となる箇所を指さしながら尋ねた。
「うん。そうなる」
「それなら北海道から直接、京都へ送れないんですか?」
確かにそうした方が、長距離輸送は1回で済む。青年は長距離輸送の負担が気になるようだ。
調教師はこれを聞いて、そうか、と説明を始めた。
「まず、あまり知られてないかもしれないけど、レースに出る馬は、レースの10日前までに競馬場かトレセンに入厩しなければいけないルールになっている」
「え~と……10日前まで、は知りませんでした」
詳しいルールは初耳のようだ。
「うん。それは覚えてもらうとして、そうすると、直接京都に送った場合、最短でもレース前の10日間を、馬は慣れない京都の環境で過ごすことになってしまう」
「……確かに」
「長期滞在して環境に慣らすなら別だけど、8月・9月という季節に、リフレッシュのための滞在が北海道か関西かといわれたら、絶対に北海道だから、これはない」
「……それも確かに」
「だから慣れない京都滞在は一瞬、ただレースを走りに行くだけ、ということにして、そのかわり慣れた関東のトレセンに10日前までに入れて、ルールをクリアする、という作戦になるわけだ」
「なるほど……」
「さらにトレセンに入れる前、仕上げを北海道ではなく関東の外厩にしておくことで、2度の長距離輸送を、ある程度の間隔をあけて行うようにしている、ということだ」
「これもなるほどです……」
おそらく業界内では普通のことなのだろうが、輸送計画だけでも色々とテクニックがあるようだ。
「よくわかりました。すいませんでした。話が逸れてしまって。疲労からの立て直しと仕上げの話でしたね」
『4.0+3.5+1.5計画』の本題に戻るようだ。
◇◇◇
「順を追って話すと、まず最初の、4.0週のところは、北海道の育成牧場でリフレッシュだ」
「……ということは、札幌で阿寒湖特別を走ったあと、すぐ育成牧場へ、ということですね」
「そうだ。そして広々した牧場施設で4週間、集中してリフレッシュさせる」
「春にもやったやつですね」
青年は、同じく4週間だった未勝利シリーズ後のリフレッシュを思い出しながら言った。
調教師は頷いて続ける。
「放牧と温泉を中心にして、減った馬体の回復と心身のケア。あとはタイミングを見てプール運動を加えて、緩めながら健康面も整えていく、ということになるだろう」
「なるほど。とても充実したリフレッシュになりそうです」
「この4週間は、騎乗でのトレーニングは一切なしで、馬体はもちろん、メンタル面のリフレッシュ、つまり走りたくてしょうがない、という状態に馬のメンタルを持っていくことも大きな狙いだ」
「分かりました。……ただ――」
青年はやや心配そうに続ける。
「かなり緩めるんですね。レースまでもうあと1ヵ月くらいですが……」
青年には大一番・菊花賞の日程の影がチラついてきたようだ
「ここで怖がってはダメだ。時間が限られた中なのでなおさら、オンオフのメリハリを付けて、計画的に進めるんだ」
「計画的に、ですか」
調教師は頷く。
「何事も計画なんだ。ただ単に休ませていると不安になって、中途半端にトレーニングを始めたくなってしまうけど、この先にビッシリ仕上げる計画がちゃんとある、と分かっていれば、今すべきはしっかり休ませること、と迷わず判断できるわけだ」
そういえばここまで、調教師の口から「計画的に」というワードをよく聞いた気がする。
「わかりました。……激戦の後ですし、休息で完全回復すれば、地力が一回りアップしている気もします」
「もちろんだ。一回りと言わず、二回りも三回りも強くなっていることを期待したいところだ」
休養について、二人の認識は一致したようだ。
青年が話を進める。
「で、この後が3.5週の仕上げです」
「仕上げにしては比較的長めに、3.5週を置いて、完全にリフレッシュした状態から菊花賞を勝てる姿にまで再強化していく」
「ついにですか……」
菊花賞に勝つ、というワードを具体的には初めて聞いて、青年も身が引き締まったようだ。
「3.5週間ありますが、外厩には何か特別な指示はするんでしょうか?」
「……」
調教師はここで少し考えたあと、
「……ここまでくれば特別な指示はもうないかな。淀の3000メートルを楽々と走り抜ける状態に、目一杯に仕上げてくれというだけだろう」
「いつも通り、外厩の仕上げのノウハウに任せるわけですね」
「そうだな……うん。ベストを言えば、もうひとつ――」
「……」
「――いや。まだいいか。今は」
「……」
ここにきて調教師は歯切れがイマイチだ。
何かありそうだが、今はまだいい、ということなので、とりあえず青年も突っ込まないことにする。
「9週間ではありますが、この馬のひと夏越した姿が楽しみです」
「しっかり休みを入れた効果で、ここは目一杯の強化と仕上げができるはずだ。北海道シリーズからさらにレベルアップした威容を見せてくれることだろう」
おお……と青年が唸る。
「で、いよいよ最後が、1.5週のところ、トレセンで最終調整ですね」
「外厩で実質の追い切りは済ませてくるんで、ここではコンディションに気を付けながら、木曜に軽めに追っておいて、戦闘準備完了だ」
「それはつまり……」
「うん。『王道ステイヤー・Ver.菊』の完成だ」
「おお……来ましたね!」
そうか、Ver.菊か、などとうれしそうに呟く青年の様子を見て、調教師も満足そうに微笑む。『Ver.菊』のワードが青年の心にクリティカルヒットすることを、もう調教師はお見通しのようだ。
ここで二人は示し合わせたように、ハーブティーで一息入れた。
「ついに準備も終わりましたか……」
「そうだな……」
しばしの沈黙。
最初の大きな目標を前に、その準備がようやく完了した到達感。それぞれに、ここまでのプロセスを振り返っているのだろう。
「……さて。ここで菊花賞、淀の3000メートルのコースについて、少し説明しておこうか」
ショートブレイクも一段落したところで、調教師が会話を再開した。
「はい、お願いします」
ほのかなバラの香りに包まれながら、大きな目標に向けて、二人の最終チェックは続く。
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