旧友の誘いを断りますか?
ビリビリと空気が震える。
平和と安寧のはずのダイニングが下手な戦場よりも物々しい雰囲気に包まれた。
壁に掛けた時計の針が止まったように音を失い、わずかな光に煌めく室内の埃の数まで数えられる気がした。
トゥールビヨンの中でも実力者と言う本人の謳い文句は、誇大広告じゃないらしい。
この空気の張り詰め方は鍛錬場でもそうそう見られない。
流石に部屋の中で切りかかりはしないだろうと思っているグレーターでさえ、冷や汗を一筋垂らしていた。
その巨体から滲む緊迫感が場の緊張をより際立たせる。
木製のテーブルが二人の呼吸に合わせて軋むような錯覚を覚えた。
同時に二人とも妙な期待をしていることが伝わって来た。
けれどもその期待に応えるつもりは毛頭ない。
あるいは昔の俺なら少しは血が騒いだかもしれない。だが今の俺は若さを代償に得た狡猾さがあるのだ。
俺はセラマーの気を抜くためにも、できるだけ拍子抜けするように言った。
「悪いけど断るよ」
唐突な中断にセラマーの眉がぴくりと動く。
彼の黒曜石のような瞳が瞬間、冷たく光った。
「……他に俺たちを納得させる方法でもあるんですか?」
「いや、戦うつもりがないってのもそうだけどさ…」
俺はグレーターに目をやり、努めて冷静さを保ちながら言った。
息を吸うたびに、埃と古い木の匂いが肺の奥をくすぐる。
見慣れたはずの俺の家の台所なのに、今だけは尋問室みたいだ。
「グレーター。申し訳ないけど、この話は受けられない」
「どうしてだ? こいつの態度が気に入らないなら、俺が謝る」
「いやいや、セラマー君の言うことは尤もだ」
苦笑して首を振る。
今のは本心だ。
俺が彼の立場だったら、外野に引っ掻き回されるのは面白いとは思わない。
自分の縄張りに古株の元冒険者がのこのこ顔を出してきたら、そりゃあ鬱陶しいだろう。
声を掛けてもらえたのは嬉しいけれどセラマーの反応を見る限り、必ず反感は買うだろう。そんなことでグレーターの立場と信頼を揺るがしたりはしたくない。
「そうじゃなくて、単純に今の仕事を投げ出せないんだ。お前が副業なんて耳障りよく言ってくれたのは分かるけど、カバルを相手に動くってことは流石に仕事を続けられない。そんな生半可な相手じゃないだろ」
素直にそう告げるとセラマーの覇気に陰りが見えた。
肩がほんのわずかに下がり、眼差しが揺れる。
単に納得してくれたのか、拍子抜けを食らったのかは知らないが、二、三日経った風船みたいに、次第に毒気が薄れていった。
しばしの沈黙のあと、グレーターは苦そうなため息を吐く。
「……まあ、ゆくゆくはそうなってくれればと思ってたのは認めるよ」
「だろ? でも今は辞められないんだ」
俺はふっと笑って続けた。
「大事な生徒と、《《特に》》大事な生徒がいるからね」
ふと、リーヴェ、ノワール、カリアトスの顔とこれまでの魔導者学校の思い出が頭にちらついた。
教室の静寂、フィールドの喧騒、緊張する生徒の顔――そのどれもが急に愛おしく思える。
生徒に線引きはしないようにしてきたが、流石にあの三人は事情が違う。
中途半端にしては責任問題に発展し、クオーツ魔導者学校に迷惑をかけてしまうかもしれない。
それに、あの三人は俺が初めて推薦した生徒たちだ。
身内と呼ぶには恐れ多いが、それでもやはり贔屓目は出てしまう。せめて彼女らが笑って卒業できるまでは、続けなくては申し訳が立たない。
俺が誰のことを言っているのかは安易に察しがついたようで、グレーターは頬を掻きながら笑う。
「なら、カリアトス達が卒業してからでもいい。本当に腕のある奴は何人だっていてほしいんだ。それに…」
彼の前では言い難かったのか、セラマーをちらっと気にした。
それでも、そう簡単に二の足を踏む男じゃないことは知っている。
「俺は嫌なんだよ、お前がくすぶってるのが。こいつを始め、良い顔していない連中がいるのは知ってるよ。でも今の俺があるのは半分くらいはお前のお陰だと思ってる。今のトゥルービヨンの前身を作れたのは、お前が前衛を張ってくれたからだ…少なくとも俺はお前と仕事がしたい」
「……」
グレーターの言葉につい胸が詰まって、返事に困ってしまう。
冗談混じりに返そうとしても、喉がうまく動かなかった。
その時の沈黙が妙に長く感じられて――その後の記憶は、どうにも曖昧だ。
◇
ふと、向かいの家の窓に反射した光が俺の目を眩ませる。
気が付けば既に二人は家を出ており、一人きりで椅子に腰かけていた。
テーブルの上には万が一のためにと連絡先の記された名刺が一枚置かれている。
無機質な紙が、やけに存在感を放って見えた。
体の奥の方に昔に負った火傷のような痛みと疼きが広がる。
握った右手が勝手に小さく震えていた。
俺は家族の為に当然の選択をした。剣を置いたことは人として正しかったはずだ――そう何度も自分に言い聞かせてきた。
だが、連日の様子はどうだ。
ようやく「夢の諦め方」や「諦めとの付き合い方」が分かってきたというのに、強制的に過去の栄光や爽快感を想起させられる。
せっかく眠っている赤ん坊を意味もなく起こされて、あまつさえ泣き止むまで抱きかかえている気分だ。
しかもそれを喜ばしく思う自分と、鬱陶しく思う自分が同居しているのが相当に質が悪い。
せっかく昨日はノワールのお陰で多少は立ち直れたというのに、再び土台が揺らぐのを感じた。
過去
不安
変化
未来
結婚
将来
名誉
現実
栄光
安定
仲間
仕事
羨望
達観
選択肢がひび割れたガラスみたいに複雑に交錯して、考えるだけで脳が焼ける。
胸の中にうっすらとした焦げ跡のような虚しさが残る。
「全く……四十過ぎのおっさんにくれるにしては、選択肢が眩し過ぎるよ」
独り言を呟きながら、重い腰を上げる。
椅子の脚が床を擦って乾いた音を立てた。
外から入ってくる風がカーテンを揺らしている。
俺は無意識に、いそいそと墓参りの準備をしていた。
正直、そんなことをしている場合じゃないのだけれど、衝動が止められない。
それは試験の前日に部屋の掃除をしてしまう感覚に似ていた。
あるいは、亡霊に会いに行くような――そんな予感すらしていた。
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