悪党退治を始めますか?
同時に俺の脳内にも昼間の事がフラッシュバックする。草の匂い、乾いた土埃、風に流された血のきな臭さ。あの瞬間の温度や湿度までもが、まるで今ここで上書きされるみたいに鮮明に蘇る。
確かに教習中にすれ違った指名手配犯だ。ネクロ・ド・ネイトと言ってたっけか。
草原では温和で人畜無害な冒険者といった顔つきだったのに、ここで見ると眼光鋭く、殺しも厭わないというな表情になっている。瞼の開き方、頬の筋肉の張り、唇の乾き方…そのすべてが別人だ。
変装もせずにここまで相貌が変わるのかと素直に脱帽した。いや、感心してる場合じゃないが。
「待ってたぜ。確かこれだったな、確実に持っていけよ」
そう言って皮袋をテーブルの上に投げるように置いた。
ぺしゃり、と柔らかな重みが木の机に沈み、鈍い音が室内の空気をわずかに震わせる。油の染みた古い袋は長年の闇取引をそのまま吸い込んできた色をしている。中身を見るのが怖いな。
「あと…もう一ついいかな?」
自分の声が予想より高く出て、喉が乾いていることを知る。言葉の尾を整えるために、唇の裏側をそっと噛んだ。
「何だ、追加か?」
「いや、そうじゃない。ウチの……ボ、ボスが気にしてることがあって。もし情報を知ってたら教えてほしい」
ボスと口にした瞬間、室内の二、三の視線がぴくりと動いた。余計な汗が背中を伝う。棒読みにならないよう、息の量で誤魔化す。
「ふーん? 何を知りたいんだ?」
「何て事はない、一人の女の情報だ」
「女?」
「ああ、最近になってボスの周りを嗅ぎ回っている女がいるらしくてな。中々敏い奴で、噂じゃここの隠れ家も気が付いているかもしれないってタレコミが」
俺が口から出任せを言うと、にわかにざわめきが起こった。椅子の脚が床をきしませ、思わず舌打ちを飲み込む男、カップの縁に指をとんとん当てる癖。小さな波紋が同時多発的に広がる。嘘は真実よりも、時に整って聞こえる。それが怖い。
「…もしかすると昼間の警備隊を寄越したのはその女じゃ?」
「ない話じゃねえな。計画のためとは言え、少々外に出過ぎたか…」
ネクロは実に面白くなさそうな顔をして頭を掻いた。掻く指先の荒れ具合が、彼の生活の荒さを物語る。
取り巻きと二言三言の言葉を交わした後、眉間に皺を寄せたまま答えた。
「悪いがその女に関することは聞いちゃいない。こっちでも気に掛けておくと伝えておけ」
その返事で俺は確信を持った。胸の奥で固く結ばれていた重荷の結び目がほどけてずり落ちる音がした気がする。
万が一、連中がモマさんと接触していたならこのタイミングで捕まえたなり、目撃したなりの情報を言ってくるはず。それがないということは、ここにモマさんはいない。
俺は一気に安心感を得た。だが決して気を抜いたわけじゃない。変に安堵しきってしまうと余計な詮索をされるかもしれないからな。
間もなくカリアトスが呼んだ応援が駆け付けてくれるはず。夜に奔走してくれた彼らの仕事を少しでも減らしておこう。
ただ待つのは性に合わない。できる準備は全部やる。
そっと流れるように俺は剣の柄に手を伸ばした。手の平に革巻きの感触が吸い付く。
久しぶりの重さが背骨の真ん中にまっすぐ芯を通す。
俺はそも当然という流れで刀身を抜いた。
◇
◆
◇
草原は夜とは思えないほどの光と喧騒に包まれていた。月光は薄い雲に磨かれて白く広がり街道を照らす。
夜の道が明るいのは月のせいばかりではない。無数の松明が点々と灯って、揺らぐ炎の輪郭が人影を伸ばしたり縮めたりしている。湿った土の匂いと獣脂の匂い、焚き木の煙が風に運ばれて鼻の奥に苦さを残す。
鎧の軋む音、武具の打ち合う音、馬の嘶き、翼竜の羽ばたく音。
そして何より、百人近い人間が一堂に会するざわめき。
命の熱が集まると、空気は重くなる。修道院騎士団に王室直属の近衛兵隊、更にはギルド・トゥールビヨンの冒険者たちまでが顔を揃え、辺りは即席の戦場さながらの緊張感に包まれていた。列は素早く組み替わり、声は短く、動きに無駄がない。誰もが有事に備えた顔をしている。
盗賊の捕り物にしては大袈裟も大袈裟。しかし相手はただの盗賊ではない。
情報が正しく、真に指名手配犯のネクロ・ド・ネイトが絡んでいるとなると、このくらいの準備はあって然るべきだった。むしろ足りないかもしれない、と誰かが吐き捨てる。
大半の者の心の内はネクロの確保にあったが、中にはそれよりも何よりもレギオンの安否を気に掛ける者も多くいた。
特に叔父の後ろに付き従って歩くカリアトスは、胸の奥に重しを抱えていた。脇腹で紐をきゅっと結び直す仕草ひとつに、心のざわめきが滲む。
『レギオン先生を実力に見合った地位を用意したい』
モマ先輩から昼間の教習で持ちかけられた言葉を思い出し、同時に考えなしにその計画の片棒を担いだことに後悔を感じていた。
あまりにも軽率だったかもしれない。安易な気持ちが人を危険に連れ出すことがあるのを今さら思い知る。
(先生……無事でいてくれよ)
夜の草原をきょろきょろと見渡す。視線は焦って先へ先へと走るが、広がるのはただの闇と風に揺れる草ばかり。人の影はない。あの時、路地裏で見たレギオン先生の背中が最後になるのではと不安が胸を締めつける。
喉がひゅっと細くなる。唾が飲み込めない。
すると両サイドにいた旧友たちが励ましの言葉を投げかけてきた。
「大丈夫ですよ、カリアトス」
「ええ。先生はお強いですから」
「悔しいけど姫さんの言う通りだぜ。そんな顔すんなって」
「…うん」
みんながいてくれて良かったとカリアトスは素直に思った。
そうでないなら、この感情に身を任せて草原を走り出していたに違いなかった。
と、その時の事だ。
「前方に誰かいます……!」
騎士団の一人が声を出した。一気に緊張が走る。鎧の間で筋肉が固まる音が聞こえそうだ。
しかし松明をゆらゆらと振る姿から敵意は感じられない。炎の揺れ方、歩調の均一さ、肩の落ち具合――敵意のある者の行動ではなくい、こちらに居場所を伝えようとしていた。
そしてカリアトスはすぐに松明の持ち主がモマである事に気が付いた。胸の紐がほどける。すると彼女は飛び出すように駆け出していたのだ。
「モマ先輩……! 無事だったんだな」
「ええ、私は大丈夫です」
兵士や騎士の間に、「どうして大富豪の令嬢がこんなところにいるのか」という疑問が伝播する。ひそひそ声が背後で泡立ち、数秒で消える。
しかし月光に照らされた彼女の瞳は強い覇気を宿しており、その程度の疑問はすぐに霧散してしまう。目が「今はそれどころではない」と告げているのだ。そして周囲のざわめきが収まるのを待ってから静かに告げる。
声量は抑えめ、しかし一語一語に芯があった。
「この一帯には高度な擬態魔法が張られています。それとネクロー・ド・ネイトとレギオン先生が中にいるのは確認済みです」
モマの言葉に兵士や冒険者たちが一斉にざわつく。甲冑の金具が微かに触れ合い、小さな鈴の群れのような音が広がる。
言い切ったモマはゆっくりと草原の一角を指差した。
本当に何かあるのかと疑いたくなるほど、草原の景色に変わりはない。均一な影、等間隔の草の揺れ。だが、これだけの人数に見られた事で認識阻害の魔力の波長がぶれ風景が陽炎のように揺らめいた。
「!」
モマの言葉が真実だったことを理解した面々は、今一度、気を引き締め直して次の行動を考える。輪が狭まり、声がさらに短くなる。
するとその時の事だ。
空気と景色がカーテンのように揺らめいて擬態魔法が崩壊し始めたのだ。最初は糸一本分の裂け目。それが風を吸って、音もなく裂け目を広げていく。
海辺に作った砂の城が海風に削られていくように、擬態に使っていた魔力が粒子のように崩れては夜空に拐われていく。光の粉塵が星明かりに混じり、空へ溶けていくと 後には目を見張るほど大きな幕屋が残されるばかりだった。
黒い布地は月光を吸い、縁にだけ銀の縫い取りが鈍く光る。獣皮の継ぎ目、金具の留め、入口のたわみ。
幕屋の布がはためき、手招きする死神のにも思えた。
「大問題だぞ、王の膝元にこんなモノを作られては…」
馬に跨がったままメサクが恨めしそうに呟く。吐息が白く、馬の耳がわずかに後ろへ倒れる。それを聞いていたリーヴェはすかさず返事をした。
「今はそれどころではありません。中に先生……民間人がいるのです。人命を最優先にして行動しなさい」
「そ、そうだぜ! 早く先生を助けないと」
騎士団、修道院兵団、そして冒険者ギルドの面々は、まるで打ち合わせでもしていたかのようにスムーズな動きで幕屋を囲んだ。輪は二重に重なり、矢の角度、槍の高さが揃う。しかし中の様子は伺い知れない。布の向こうの空気は、別の温度を持っているようだった。
偵察に誰かを使わそうとしたところで、出入口に人影を見つけ、全員が武器を構えて警戒を露にする。空気が一枚、きりりと締まる。
その時、やはりいち早く人影の正体に気が付いたカリアトスが声をあげた。
「先生…!」
「うぇ!? カリアトス? それにグレーターか、ビックリした……って、うわ。何か凄いことになってるな…」
こちらの緊張感とはまるで正反対に気の抜けた様子のレギオンを見て一同は力が抜けるのを感じていた。安堵と呆れが同時に胸に落ちる。緊張の糸がぷつ、と心地よく切れる音がした。
松明の炎が呼応するように少しだけ大きくなった気がした。
◇




