使い魔にトドメをさしますか?
その日の教習を終えたノワールは、修道院の敷地にある質素な自室へと戻っていた。白亜の壁に囲まれた小部屋は、清貧を旨とする修道院らしく余計な装飾は一切なく、机と椅子の他は簡素なベッドがあるだけ。
けれど窓から差し込む夕陽の光が柔らかに室内を染めると、その質素ささえも荘厳に見える。
ノワールは椅子に腰を下ろし、両手を胸の前で組み合わせ祈りを捧げた。目を閉じれば、昼間の教習で浴びた風の魔力の感触がまだ体に残っている気がした。レギオンの言葉ひとつひとつが心の奥に沈殿し、祈りと共に思い出されては胸をざわつかせた。
――わたくしは、キチンと学べているのでしょうか。
心細さが胸の奥でさざめく。それでも今日、自分の魔法が少しだけ前進した手応えがあったことも確かだった。
祈りを終え、続いて雑務をこなそうと机の上に積まれた羊皮紙に手を伸ばしたとき、不意に視線が脇に積まれた小さな冊子に止まった。革紐で綴じられた、子供の頃から書き溜めてきた自分の日記だった。
花に誘われる蝶のように手が伸びる。
久しく開いていなかったそれを、何気なく手に取りページをめくった。拙い文字で綴られた稚拙な文章の中に、幼い日の自分が必死に書き残した夢や祈り、そして夢中になって聞いていた「伝説の剣士」の話が記されていた。
《北の森を裂き、獣を退けた光の刃》
《暴走する魔導馬車を素手で止めた英雄》
どの話も当時、神父や修道女たちから聞かされては半ば童話のように信じていた物語だ。幼い自分はそれを空想だとおぼろげながら理解しつつも、胸を高鳴らせて書き残していたのを思い出す。
ページをめくる指がふと止まる。そこに記された稚拙な文字が今の彼女の記憶と鮮やかに結びついたからだ。
昼間、レギオンが示したあの剣の速さ。
あの落ち着きと力強さ。
背中から溢れる安心感。
まるで日記の英雄譚そのままではないか。
「……え?」
呟いた声は小さく震えた。もしも、もしもこの日記に書いた物語がすべて現実であり、その当人がレギオンだとしたら。
ノワールは日記を胸に抱きしめ、目を伏せた。胸の奥に熱が灯って祈りにも似た感情が膨らんでいく。
そのとき。
――ドン、ドンッ!
重い衝撃音が扉を揺らし、室内に物々しい響きが広がった。ノワールは日記を慌てて机に戻して胸元を押さえながら跳ね上がる心臓の鼓動を感じた。
「ノワール様、いらっしゃいますか!?」
声の主はテンポラだった。兵団長としてノワールも信頼を寄せており、彼女の部屋に直接来訪することが許されている数少ない人物でもある。普段は柔和な中にしっかりと芯の入った態度を一貫しているのに、扉の向こうの声色に切迫した色が混じっていることでノワールの血の気はすうっと引いた。
どう捉えても吉報を運んできた様子ではない。
「テンポラ様…? 一体どうなさったのです?」
「よかった、ご在室で! 恐れ入りますが、すぐに訓練場へお越し下さい!」
「訓練場に? な、何かありましたの?」
問いかける声がわずかに震える。胸の奥に広がるのは、言葉にならない嫌な予感だった。
テンポラは短く息を吸い込むと、眉を険しく寄せて答えた。
「それが……カパタピが手当たり次第に暴れているのです」
「……暴れている? カパタピが?」
ノワールは思わず立ち上がった。愛すべき使い魔の名と「暴れる」という言葉が結び付かず、思考が一瞬空白になる。けれど胸を刺すような不安が、彼女を否応なく行動へと駆り立てた。
「はい。とにかく急ぎお越しください!」
促されるままノワールは裾を翻し、テンポラと並んで廊下を駆け出す。石畳の床を踏み鳴らす音が響き、壁にかけられた燭台の炎が揺れた。訓練場へ近づくにつれ、耳に飛び込んできたのは金属が弾ける音、怒声、そして地を揺らすような衝撃音。
――まさか、本当に。
胸の中で繰り返すたびに、不安は大きく膨れ上がっていく。
◇
訓練場へ駆け込むと、その光景は言葉通り修羅場だった。
広い土の舞台の中央で、カパタピが巨体へと姿を変え、八本の脚を豪快に振るっていた。漆黒の甲殻は光を吸い込み、嵐のような脚さばきで修道院の精鋭たちを次々と薙ぎ払っている。蜘蛛糸が無数の罠となって辺りを覆い、兵士たちはその粘着力に苦しめられながら必死に剣を振るうが全く歯が立っていなかった。
「おらああ! 次だぁ! 掛かってこい!!」
カパタピの声は猛々しく、空気を震わせる。
その様子にノワールは胸を締めつけられた。普段は皮肉屋でお調子者なだけの相棒が、まるで暴君のように牙を剥いている。けれど……どこかおかしい。目の奥に理性が残っている。暴走というよりは、無理に吠え立てているような。
「あらあら……」
小さく息を吐き、ノワールは兵士たちへ視線を向ける。テンポラは青ざめながら頭を下げ、必死の声で訴えた。
「ノワール様、どうか……カパタピを!」
「ええ、分かりましたわ」
ノワールは一歩前に進み、訓練場に澄んだ声を響かせる。
「カパタピ!」
ただその一声で暴れ狂っていた巨体の動きがはっきりと鈍った。蜘蛛糸を吐き出す勢いも止まって八本の脚が震える。
「お嬢……」
カパタピの声が途端にしぼみ、哀れなほど弱々しいものになる。
「こんなに暴れて、どうしたというのです?」
「そ、それは……」
巨体が小刻みに震える。言い訳を探しているのは明らかだった。ノワールは視線を外さず、沈黙を許さない。
やがて気まずそうに口を閉ざしたカパタピを見てノワールはため息をひとつ吐く。次に兵士たちへと向き直り、落ち着いた声音で言葉を紡いだ。
「それに皆様も、私を呼ばずとも抵抗してよろしいのですよ? カパタピだって、そこまで脆くはありません」
だが兵士たちは互いに顔を見合わせ、困惑の表情を浮かべる。やがてテンポラが答えた。
「いえ……ノワール様。カパタピの希少さで手荒なことがし難いのはもちろんですが……そもそも、ここまで強力なクリーチャーを抑えるのは至難の業でございます」
「え…?」
ノワールの瞳をパチパチと動かす。彼らが手加減をしているのではなく、全力を尽くしてなお押さえ込めていなかった…?
疑問を持ったが、テンポラのの真偽は訓練場の床に倒れ込む兵士たちの姿が雄弁に物語っている。
そしてノワールは昼間の記憶を思い出す。レギオンはこのカパタピの攻撃を受け流し、さらにそれを授業の題材に利用してみせた。その落ち着きと技量。あれがどれほど異常なことだったのか今さらになって全身で理解する。
テンポラはそれを聞き取り、引きつった笑みを浮かべた。
「流石は先輩……」
ノワールは胸の高鳴りを隠して毅然とカパタピへ向き直る。
「カパタピ。あなたがこんなに暴れたのは、もしかして――」
一拍置いて、はっきりと言い切った。
「レギオン先生に、手も足も出なかったからですか?」
「っ!? ……ぬぅああぁぁ!!」
図星を突かれた瞬間、カパタピは耳をつんざく雄叫びを上げた。八本の脚をばたつかせ、煙幕のように糸を散らしながら一気に縮小していく。そして掌サイズに戻るや否や、恥ずかしさを誤魔化すように天井へと飛び上がり、闇の中へ姿を消した。
唖然とする兵士たち。糸に絡め取られたままの者、地面に座り込んで息を荒げる者。その混乱を余所にノワールはほんのわずか唇の端を上げた。
「……ふふ」
その笑みは日差しのように柔らかで、けれどどこか誇らしげでもあった。
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