第6話 別れるためのデート
大学の近くの河川敷は、車を停める場所から少し歩いた。
学生の頃は駅から歩いてきたから、反対側の道を通るのは初めてだった。
「こっちから入れるんだな」
圭吾が言った。
私は頷いた。
土手には犬を連れた人がいて、遠くで小学生がボールを蹴っていた。下流の橋を、トラックが渡っていった。
六年前も、こういう場所だった。
大学を出て、一緒に駅へ向かう途中だった。圭吾が遠回りしていいか聞いて、私はいいよと答えた。
ただ並んで歩いて、何度も足を止めた。
ベンチが見えたところで、圭吾が私の名前を呼んだ。
今日、同じベンチには誰も座っていなかった。
塗装が剥がれ、背もたれの端が白くなっていた。
「座る?」
圭吾に聞かれ、私は首を振った。
「もう少し歩きたい」
「うん」
芝生から落ち葉が道に転がってきた。
圭吾の靴の先に当たり、脇へ飛んだ。
私はその先を見ながら、手袋を外した。
今朝、もう一度部屋を見た。
問い合わせた物件は、まだ載っていた。
部屋に一人で帰ることを考えると、胃のあたりが冷たくなった。圭吾が洗濯物を干す音はしない。疲れた日の炒め物もない。
それでも、自分で決めた家賃を払い、自分の帰る部屋を持つ方がいいのかもしれないと思った。
毎日隣にいるのに、一人でこの先を心配するのは、もうやめたかった。
今までどおりに暮らすだけなら、別れよう。その気持ちは、一週間経っても変わらなかった。
「圭吾」
彼が足を止めた。
私は向き直った。
「別れよう」
「嫌だ」
即答だった。
用意していた続きの言葉が、出なくなった。
「……私と結婚したい?」
今度は、答えが来なかった。
圭吾は私を見たまま、唇を動かした。
私は手袋を握りしめた。
「ほら」
言った瞬間、自分でも嫌な声だと思った。
圭吾の顔が歪んだ。
「ちょっと待って。いま答えるから」
私は唇を噛んだ。
彼は息を吸い直した。
「したい。琴葉と結婚したい」
握っていた手が、少し緩んだ。
「なら、なんでいつも、急がなくていいって言うの」
「ちゃんとしてから、って思ってた」
「ちゃんとって、何?」
圭吾は目を伏せた。
「貯金?」
「いや……足りないわけじゃない」
「仕事?」
「結婚できないほど不安定じゃない」
「じゃあ、何を待ってたの」
風が吹いた。
圭吾は上着のポケットに入れていた手を出した。
「自分でも、決めてなかった」
私は彼を見た。
「なんか、もうちょっと仕事に余裕ができたらとか、ちゃんと先のこと分かるようになったらとか。子供できても大丈夫か、とかも」
「子供の話、したことないよ」
「うん」
「私がどうしたいかも、聞いてない」
圭吾は頷いた。
「一人で、まだだって思ってた」
土手の方で、犬が吠えた。
私はそちらを見て、すぐに圭吾へ目を戻した。
「私は、全部大丈夫になってから結婚したいわけじゃない。分からないことを、一緒に話したかった」
「……うん」
「話してみたら、今はやめようってなることもあると思う。でも、聞くたびにそのうちって言われると、もう聞いちゃいけない気がする」
圭吾は口を開き、また閉じた。
「この前、琴葉が今すぐじゃなくていいって言ったから、安心した」
「あれは、私が逃げた」
「でも、その前に俺が、急がなくていいって言ったもんな」
私は頷いた。
圭吾は肩を落とした。
「あれ、話を終わらせたかったんだと思う」
胸が痛くなった。
否定してほしい言葉だった。でも、それを否定しないで言った圭吾から、目を逸らしたくなかった。
「決める話になると、何て言えばいいか分からないから。今はうまくいってるし、まだいいだろって」
「私は、うまくいってると思えなくなってたよ」
「うん。そこ、分かってなかった」
圭吾がベンチに目を向けた。
「俺、朝起きれば琴葉がいて、帰ればまたいるの、普通になってた。来年も、その先もそうだと思ってた」
「私も、そうなったらいいと思ってた」
「結婚しなくても、もう一緒だしって、どっかで思ってたんだよ」
彼が言い終わってから、私は少し待った。
聞いてすぐに、そんなの勝手だ、と返しそうになったからだった。
「私は、いつまで隣にいるつもりなのか分からない人に、自分の予定を合わせ続けるのが怖かった」
圭吾の顔が上がった。
「ずっといるつもりだった」
「それ、今日まで知らなかった」
声が震えた。
圭吾が一歩こちらへ来て、途中で足を止めた。
「ごめん」
私は首を横に振りかけ、やめた。
謝らなくていい、ではなかった。
「私も、ごめん。何もないって言ったこと」
圭吾が頷いた。
「あれは、嫌だった」
「うん」
「聞き方が悪かったかもしれないけど、俺が勘違いしてるのかなって思った」
「違う。分かってたのに、答えなかった」
ポケットからティッシュを出した。
鼻が出ただけなのか、泣きそうなのか、もう区別がつかなかった。
「最初のファミレス、私、本当は最後にしようと思ってた」
「……うん」
「でも楽しくて。映画も水族館も、また行きたくなった。昔に戻れたら大丈夫になるかもって、少し思った」
圭吾が、私の手の中のティッシュを見た。
「昔の方がよかった?」
私は考えた。
六年前の私は、パフェさえ頼めなかった。
映画の感想を合わせた。ネックレスが嬉しいと伝えるのにも、時間がかかった。
「戻りたいわけじゃなかった」
手袋を持ち替えた。
「昔の私、圭吾の前でお腹いっぱい食べられなかったし」
圭吾が少し笑った。
すぐに真顔に戻った。
「それ、知らなかった」
「知られないようにしてたから」
「いまは知ってる。いっぱい食べるの」
「そこだけ覚えないで」
声が少し出しやすくなった。
私はベンチに向かい、端に座った。圭吾が少し離れた隣に座った。
「いまの方が、好きなところもあるよ」
川を見ながら言った。
「疲れてるとき、しゃべらなくても平気なのとか。私が違うこと言っても、普通に聞いてくれるのとか」
「さっきまで、普通に聞けなかったけど」
「それは、私も」
圭吾の手が、二人の間のベンチに置かれた。
「でも、普段のことは聞いてくれるのに、将来のことになると、私も同じ考えだって思ってたでしょ」
「……思ってた」
「一緒にいるからって、そこまで同じとは限らないよ」
「うん」
食べたいものなら、その場で言い直せる。
将来のことでも、そんなふうに聞いて、違ったら話してほしかった。
「私も、圭吾がどうせ話してくれないって決めてた。怖くて聞けないうちに、そう思う方が楽になってた」
彼が頷いた。
「聞いたら、ちゃんと考えて答えてほしい。すぐに決まらなくてもいいから、また話してほしい」
「分かった」
圭吾はそう言ってから、言い直した。
「……って言って終わりにしてたんだよな。いつも」
私は隣を見た。
「琴葉は、いつ結婚したい?」
聞かれると、少し怖かった。
私にも、答える番が来た。
「来年。ずっと先じゃなくて、来年には、圭吾と結婚したい」
最後まで言った。
圭吾は私を見たまま、頷いた。
「俺も来年がいい。もう、来年までに何が完璧になるとかじゃなくて」
「うん」
「両親には、ちゃんと二人で話しに行きたい。部屋は、いまのままでいいか、また考えたい」
私は鼻を拭いた。
「子供は、私、ほしいと思ってる。でも、仕事も続けたい」
「俺もほしい。でも……どのくらいお金かかるか、全然分かってない」
「私も全部は分からないよ」
「調べる。琴葉だけに任せない」
圭吾が、少し乱れた前髪を押さえた。
「全部今日決めるのは、無理だな」
「無理だね」
私は、初めてその答えでほっとした。
無理と言われても、話の続きがある。
「帰ったら、まず予定見よう。来月、挨拶に行ける日。二人の親の予定も聞いて」
圭吾が言った。
「それから、結婚する時期を決める。何月とか、日付とか。二人で」
「……圭吾、私が出ていくって言ったから、決めようとしてる?」
最後に、聞かなければいけないと思った。
彼はすぐには否定しなかった。
「それで、初めて怖くなったのは本当」
私は黙って聞いた。
「でも、結婚したくないのに言ってるんじゃない。ずっと一緒にいたいと思ってたのに、そのために何もしてなかった」
圭吾は私の手袋を見た。
「もう一回、俺と暮らすこと考えてほしい」
私は、彼の隣に座り直した。
間に置かれていた手に、自分の手を重ねた。
「別の部屋、契約するのはやめる」
圭吾が息を吐いた。
私も、長く息を吐いた。
「でも、帰ったら話そうね」
「話す」
手を握られた。
指先は、二人とも冷たかった。
「あと、さっきの、ほら、って言い方。ごめん」
「答えるの遅かったから」
「遅いって、私が決めたんだよ」
圭吾は私の手を少し強く握った。
「琴葉と結婚したい」
今度は、迷わず言った。
「うん。私も」
私はその手を握り返した。
隣の顔を見られるまで、しばらくかかった。




