第5話 一人暮らしの部屋
日曜日の午前、洗濯機が止まるのと一緒にスマホが鳴った。
圭吾はベランダに出て、前日に干したタオルを取り込んでいた。
画面には知らない番号が出ていた。昨夜届いたメールに書かれていた、不動産会社の番号だった。
「はい、小野寺です」
私はキッチンから離れ、寝室へ向かった。
相手が会社名を名乗り、昨日問い合わせた部屋の空き状況について説明した。まだ募集しているらしい。
「はい……内見ですか?」
寝室の手前で、足が止まった。
背後から、ベランダの扉が閉まる音がした。
相手は、次の土曜の午後なら案内できると言った。
私は、予定を確認してから折り返します、と答えた。
通話が終わった。
「内見?」
圭吾がタオルを持ったまま立っていた。
私はスマホを握り直した。
「何の?」
首の後ろが熱くなった。
寝室まで入ってしまえばよかった、と思った自分が嫌だった。
「部屋」
「引っ越すの?」
私は黙った。
圭吾が、畳んでいないタオルを椅子に置いた。
「一人で?」
頷くのに、時間がかかった。
圭吾は私の手元を見てから、顔を上げた。
「いつから探してた?」
「……美穂の結婚式の日」
彼の口が少し開いた。
今朝は、普通に二人でパンを食べた。賞味期限の短い方のヨーグルトを、私が食べた。
圭吾はそんな朝を過ごしたあとで、私が別の部屋を探していると知った。
「何もないって言ってたじゃん」
私は下を向いた。
「ごめん」
「昨日も聞いたよな」
「うん」
「あの店行って、俺だけ普通に飯食ってたの?」
喉が詰まった。
「普通に、楽しかった。楽しいところもあった」
「じゃあ、なんで」
圭吾の声が少し大きくなった。
洗濯機が、取り出しを知らせる音を鳴らした。圭吾はそちらを見ず、私も動かなかった。
「……一緒にいるのが嫌なんじゃない」
「じゃあ、部屋借りる必要ないじゃん」
「あるの」
自分の声まで大きくなった。
私は息を吸い、キッチンの椅子を引いた。
「座っていい?」
圭吾は頷いた。タオルを別の椅子に移して、向かいに座った。
「今のまま、ずっと住むのが怖くなった」
「怖いって、何が?」
「来年も再来年も、同じ話をしてる気がして」
彼が眉を寄せた。
「結婚のこと?」
「それも。家のことも、その先のことも」
「結婚はするって言っただろ」
「するんじゃない、って言った」
圭吾は黙った。
細かい言葉を責めたいわけではなかった。けれど、私が聞いたものと、彼が言ったつもりのものは違った。
「いつの話をしても、そのうちで終わるから。何を待ってるのかも分からないし」
「だからって、いきなり引っ越すの?」
「いきなりじゃないよ、私は……」
そこまで言って、口を閉じた。
圭吾には、いきなりだった。
「私は半年くらい考えてた。でも、圭吾に全部言ってない。だから、分からなかったと思う」
「そりゃ分からないよ」
圭吾は手で額を押さえた。
怒っていた。その下に、ひどく困った顔があった。
「俺、結婚しないって言ったことないじゃん」
「うん」
「一緒に住んでるし、毎日……」
彼は言葉を切った。
テーブルには、朝使ったジャムの瓶が残っていた。
「毎日、普通に暮らしてたじゃん」
私は瓶を見た。
買う前に、圭吾がこの味でいいか聞いてくれた。
「それは好きだよ。圭吾と暮らすの」
「じゃあ」
「でも、これからどうしたいか、圭吾が何考えてるか、聞けなくなってる」
圭吾は手を下ろした。
「聞いてくれれば」
私は顔を上げた。
彼が、一度目を伏せた。
「……聞いてたな」
私は、頷いた。
しばらく話さなかった。
このあと、結婚するから部屋はやめて、と言われたら、どう答えるのか考えた。
圭吾がここから私を出さないために、急いで約束するところは見たくなかった。
けれど、何も言わない圭吾を見るのも辛かった。
「いつ出ていくつもり?」
「まだ決めてない。契約もしてない」
「内見は?」
「日程を聞かれただけ」
圭吾がスマホを見た。
自分で何かを調べるためではなく、私の返事の続きがそこにあると思ったような目だった。
「琴葉、俺と別れたい?」
私は膝の上で手を握った。
「別れようと思ってた」
言ったあとで、耳が熱くなった。
圭吾の指が、テーブルの端で止まった。
「思ってたって、今は?」
「分からない」
「俺は別れたくない」
その言葉に、すぐ頷きたくなった。
やっぱりやめよう、と言ってしまえば、洗濯物を干し、昨日の肉を解凍し、いつもの日曜日に戻れる。
私は手をほどいた。
「分からないまま、なかったことにしたくない」
圭吾は椅子の背にもたれた。
「じゃあ、どうすればいい?」
私は、彼の顔を見た。
何をしてほしいのか。自分の口で言わないといけない。
「これからの話をしたい。今日、引っ越すなって言って終わりにしないでほしい」
「終わりにしない」
「私も、何もないって言うのはやめる」
圭吾は少し頷いた。
それでも顔は固いままだった。
「最初のファミレスも、そのためだった?」
「別れる前に、もう一回行きたかった」
彼の視線が落ちた。
「そのつもりで誘ったの?」
「うん」
言い訳をつけないで答えた。
圭吾は長く黙ってから、楽しかったのに、と言った。
「私も楽しかった。だから、まだ分からなくなった」
「……そっか」
圭吾は立ち、洗濯機を開けた。
私も立って、タオルを畳もうとした。
「それ、もう畳んである」
見ると、彼が椅子に移したときに畳んでいたらしかった。
私は手を引っ込めた。
圭吾は洗濯籠を持ち上げ、ベランダへ行った。
その夜、不動産会社には、内見の日程をいったん保留にしてほしいとメールした。
部屋を借りないと決めたわけではなかった。圭吾と話す前に、出ていく日を決めたくなくなった。
月曜日、私は仕事から帰る前に圭吾へ連絡した。
今日も少し話したい、と送った。
帰ってきた返事は、分かった、だった。
夕飯のあと、二人でダイニングに座った。
私は、今日契約はしていない、と伝えた。
圭吾は、週末までは会社の仕事が詰まっている、と言ってから、話をしたくないってことじゃない、と付け足した。
「分かってる。私も月末で忙しい」
私たちは、毎晩遅くまで話し込めるほど暇ではなかった。
それでも、話さずに日曜日の続きを過ごすのとは違った。
火曜日は、私が先に寝た。水曜日は、圭吾が帰ってくるまで起きていた。
圭吾は、考えてるけど、うまく説明できない、と言った。
私は、私もうまく言えなかった、と答えた。
木曜の夜、圭吾が洗った皿を拭いていた。
「次の休み、空けて」
言うと、圭吾が水を止めた。
「土曜?」
「うん。昼から」
「どこ行くの?」
私は皿を棚に戻した。
「最後の場所」
圭吾が私を見た。
「河川敷。大学の近くの」
彼は頷いた。
あそこで圭吾が私に付き合ってほしいと言ったことは、説明しなくても分かった。
でも、今の話は説明しようと思った。
「楽しかったね、だけで帰るのはやめたい。私もちゃんと言うから」
圭吾はしばらく私を見ていた。
「分かった」
蛇口をひねり、残りの皿を洗った。
私はその隣で、布巾を広げた。




