第4話 二十八歳
パスタの店には、予約が必要だった。
六年前は平日の夜で、私は圭吾が予約していたとも知らずについていった。今度は土曜日だからか、ネットで調べると早い時間しか空いていなかった。
「五時半だって」
「いいよ。昼、軽くすれば」
圭吾は冷蔵庫の扉を開けたまま言った。
私は店の予約画面に、二名、と入れた。
利用目的の欄に、誕生日、記念日、その他、と選択肢があった。
その他を選んだ。
「誕生日でもないのに、ちょっと贅沢だね」
「たまにはいいんじゃない」
圭吾が先週の私と同じことを言って、卵を二つ出した。
冷蔵庫の下の棚には、私が買ってきた小さなヨーグルトが二個残っていた。
圭吾は、何かがおかしいと思っている。
水族館から帰った日も、火曜日の夕飯のときも、私の顔を少し長く見た。
それでも、問い詰めることはしなかった。
私が疲れている日は、話しかけずにいてくれる人だ。その加減を好きになったのに、今はそのおかげで話さずに済んでいた。
土曜日、店へ向かう前に、クローゼットの前で立ち止まった。
六年前に着たワンピースはもうない。圭吾が初めて誕生日を祝ってくれた日に、かなり考えて選んだ服だった。
あの日の私は二十二歳になった。
交際を始めたのは九月の初めで、私の誕生日はその二週間後。圭吾の誕生日は八月だから、先に祝ってもらったのは私の方だった。
今は十月で、二十八歳になってから、まだ一か月ほどしか経っていない。
「これ、変じゃない?」
ニットとスカートを着て、リビングに出た。
圭吾が振り返った。
「いいと思う」
「思うだけ?」
「似合ってる」
私が聞き返した分だけ、圭吾の答えは具体的になった。
「圭吾も、上着それにする?」
「だめ?」
「だめじゃないけど、もう一枚の方が好き」
彼は袖を通しかけた上着を脱いだ。
私は、それでいいんだ、と思った。
どの上着が好きかは簡単に言える。違うものを選ばれても、私のことを好きじゃないとは思わない。
店の中には、炒めたにんにくの匂いがしていた。
テーブルの配置は少し変わっていたけれど、奥の壁に飾られた風景画は同じだった。窓に面した席に、店員が案内してくれた。
「ここだったっけ?」
圭吾が小さな声で聞いた。
「あっち。壁際」
「よく覚えてるな」
「写真あるから」
六年前の私は、運ばれてきた料理を一皿ずつ撮った。
圭吾からもらった細いネックレスも、テーブルに箱を置いて撮った。
いまも、仕事につけていくことがある。
「あのとき、デザートに字書いてもらったよな」
「名前がひらがなだった」
「漢字、電話で伝えるの難しくて」
「予約してたんだ」
「誕生日だから」
圭吾がメニューに目を落とした。
昔の自分の話をするとき、彼は少し照れた顔になる。
「今日は、どうする?」
「単品で頼もう。魚の前菜、食べたい」
「俺、肉」
「両方頼んで分けよう」
パスタを二種類頼んで、デザートはあとで考えることにした。
店員が去ると、圭吾がこちらを見た。
「そういえば俺ら、ここで二十八歳の話したよな」
パンの籠に伸ばしかけた手を、膝に戻した。
「覚えてるんだ」
「なんとなく。卒業して働いたらどうなってるだろって」
あのとき私は、二十八ってすごく大人だね、と言った。
圭吾は、もう会社で偉くなってるかも、と言った。私は笑い、自分は毎朝ちゃんと起きられるかな、と答えた。
そのあと、結婚してたりして、と口にした。
圭吾が、誰と、と聞いた。
私は、さあ、とすまして、圭吾が笑うのを見た。
本当は、そこで名前を呼んでほしかった。
「圭吾、偉くなった?」
「ならない。先輩にも得意先にも怒られる」
「私は朝起きられてる」
「平日はな」
「休日は関係ないでしょ」
前菜が運ばれてきた。
圭吾は皿の端にある緑のソースを、何これ、と聞いた。私は店員の説明を聞き直した。
六年前なら、分からなくても聞けなかったと思う。
「二十八って、もっと何でも分かってると思ってた」
私が言うと、圭吾はパンでソースをすくった。
「全然だよな」
「そうだね」
パンを小さくちぎった。
結婚していないことが、昔の想像と違うだけなら、笑えた。
今の仕事も、住んでいる町も、二十二歳の私には思いつかなかった。違っていても困っていない。
向かいに座る人は想像どおりなのに、この先の話になると、私たちは何も決められなかった。
「……琴葉?」
「なに?」
圭吾がパンを置いた。
「最近さ、何かある?」
「別に」
考える前に、口から出た。
圭吾の眉が寄った。
「ほんと?」
「うん」
彼は私の顔を見たまま、黙った。
私はグラスを持ち、ひと口飲んだ。
「ならいいけど」
圭吾が視線を下げた。
その言い方に、聞かれたくないんだろ、と言われたような気がした。
私は頷かなかった。
パスタを取り分けるとき、フォークが皿の縁に当たった。
その音だけが大きく聞こえた。
仕事の話を振れば、圭吾は答えてくれた。彼の会社で、若い後輩が入ってきたらしい。私はうちの職場の話もした。
いつも話している内容だった。
いつもより、言葉の切れ目が分かった。
「来月の連休、どっか行きたい?」
デザートのメニューを開いた圭吾が聞いた。
「まだ早くない?」
「遠出するなら、早めに決めないと」
「……近場でいいよ」
「うん。だから、何か希望ある?」
来月も、こうして二人で出かけるつもりでいる。
それが嬉しくて、困った。
その頃、私は別の部屋にいるかもしれない。
「ちょっと考える」
「分かった」
圭吾はデザートのページを私の方へ向けた。
「今日は?」
「ティラミス」
「じゃ、俺はアイス」
私は笑いかけて、うまくできなかった。
ファミレスでは、一口をねだる圭吾に、普通に笑えたのに。
「一口いる?」
運ばれてきた皿を、圭吾が少し近づけた。
「うん」
スプーンを伸ばした。
昔なら、その一口だけで、友達に話したいことが増えた。
いまは、圭吾の差し出した皿を両手で受け取れる。彼にしかできないことが、私にもたくさんある。
なのに、聞かれたことには答えられない。
帰り道、車はいつものスーパーの前を通った。
「明日の分、買ってく?」
「冷凍してあるお肉、使いたい」
「じゃあ直帰でいいか」
圭吾がウインカーを出した。
私はバッグの持ち手を握った。
六年前、同じ店を出た私たちは、別々のアパートに帰った。着いたら連絡して、と言われて、帰ってすぐ、着いたよ、と送った。
いまは同じ鍵を持っている。
家に着き、圭吾が食器洗い機の中身をしまっている間に、スマホを開いた。
保存した物件の一つが、掲載終了になっていた。
胸が一瞬ざわついた。
困ったのか、ほっとしたのか、分からなかった。
別の物件を開いた。
駅から十分。築十二年。写真の部屋には、もちろん何も置かれていなかった。
問い合わせの欄に、内見を希望します、と入れた。
名前と連絡先を入力して、送信した。
「琴葉、明日何時に起きる?」
キッチンから圭吾の声がした。
「八時くらい」
「了解」
私は届いた受付メールを閉じた。
明日の話なら、こんなに簡単にできた。




