第3話 撮らなくなった二人の写真
「間に合ってる?」
「二十分ある」
「平日の時間じゃない?」
「土曜日。十時四十分。予約もした」
圭吾はスマホの予約画面を、私の目の前に差し出した。
私は笑って、それを押し戻した。
映画館は、六年前と同じ商業施設にあった。
入り口に置いてある宣伝のパネルだけが新しくなっていて、床の模様まで覚えていた。あの日、圭吾の隣を歩きながら、下ばかり向いていたせいだと思う。
「ポップコーン、塩?」
「今日はキャラメル」
「塩じゃないの」
「今日は、って言った」
圭吾が列の先頭へ進んだ。
私は後ろから、半分ずつにできる、とメニューを指さした。
「それ、量多くない?」
「食べられるよ」
「昼前だぞ」
結局、大きな容器を抱えて上映室に入った。
席に座ると、圭吾は肘掛けのドリンクホルダーに飲み物を置いた。私は空いた方を使った。
六年前は、ここで手が触れた。
小さな容器からポップコーンを取ろうとして、同じところに指を伸ばした。たったそれだけで、主人公が何を言っていたのか分からなくなった。
終わってから、面白かったね、と言った。
実際には、圭吾が隣に座っていたことばかり覚えていた。
今日の私は、予告編の途中で圭吾の袖を引いた。
「もう半分ない」
「だから多いって言ったんじゃん」
「それ逆じゃない?」
本編が始まったので、圭吾は返事の代わりに容器を真ん中に置いた。
二時間後、私たちは施設のフードコートにいた。
圭吾はうどん、私はサンドイッチ。映画の最後の場面について、意見が分かれた。
「あの手紙、渡してもよかったと思う」
私が言うと、圭吾が首を振った。
「あそこで渡すと、返事しなきゃいけなくなるじゃん。相手はもう別の町行くのに」
「でも、受け取るかどうかは相手が決めればよくない?」
「手紙渡されたら、気にするだろ」
「気にしてほしかったんじゃないの」
圭吾は箸を止めた。
「琴葉、最後ちょっと泣いてたよな」
「隣見てたの?」
「音」
「鼻かんだだけ」
「はいはい」
紙ナプキンを丸めて、圭吾のトレーの端に投げた。
圭吾はそれを取り、自分の使ったものと一緒に寄せた。
付き合ったばかりの頃は、映画の感想にも正解がある気がしていた。
圭吾が退屈だったと言った映画を、実は好きだった。言えずに、ちょっと長かったよね、と答えた。
そんな私を、圭吾は知らない。
「私、あの終わり方は嫌だった」
「俺はあれでよかった」
今は、嫌だったとまで言える。
圭吾は私を面倒だとも思わず、うどんをすすった。
「来週、琴葉が選んだの見ればいいんじゃない。家で」
「また意見割れるかも」
「それはそれで」
圭吾がトレーを持って立った。私のトレーも持とうとしたので、まだ食べてる、と止めた。
彼は席に座り直した。
映画館を出る前に、二人で宣伝パネルの前を通った。
恋愛映画のポスターがあった。圭吾は、これさっき予告やってたな、と言った。
私は、うん、と答えた。
続きの言葉が喉まで来たけれど、口に出さないまま飲み込んだ。
翌日の水族館は、家族連れで混んでいた。
海沿いにあり、家から車で四十分ほどかかる。着く頃には小雨が降っていた。
圭吾が助手席の下から折り畳み傘を出した。
「持ってたんだ」
「前、琴葉が雨降るって言って積んだやつ」
「ああ」
私が忘れていた傘に、二人で入った。
駐車場から入り口まで、歩幅が少し小さくなった。
大きな水槽の前で、私はスマホを出した。
六年前にも見たはずの、銀色の魚の群れが泳いでいた。
写真を一枚撮り、画面を確認した。ガラスに、隣の人の顔が薄く写っていた。
もう一枚撮ろうとして、圭吾が少し先にいるのに気づいた。
「琴葉、これ見て」
小さな水槽で、魚が砂から顔を出していた。
「圭吾に似てる」
「どこが」
「朝、布団から出るとき」
「琴葉もだろ」
彼が首を下げて真似したので、近くにいた子供が振り返った。
私は圭吾の背中を押した。
「行くよ」
「似てた?」
「もういい」
スマホはバッグに戻した。
六年前の写真には、何種類もの魚と、その前に立つ私たちがいた。
同じ水槽で、別々に撮った写真。顔を寄せて撮った二人の写真。圭吾が私の肩に手を置いて、二人とも少し斜めになった写真。
今日、入口を入ってから撮ったのは、魚の群れ一枚だけだった。
出口の近くで、若い男女が交代に写真を撮っていた。
男の子がカメラを向けると、女の子は髪を直して笑った。今度は逆になり、男の子が困ったような顔をした。
私たちは、その横を通り過ぎた。
「お土産見る?」
「見る」
店には魚のぬいぐるみが並んでいた。
圭吾が大きなサメを持ち上げたので、置く場所ないよ、と言った。
「顔だけなら入る」
「どこに」
「ソファ」
「私の座るところなくなる」
圭吾はサメを棚に戻し、小さいものを手に取った。
私はそれも戻した。
代わりに、個包装の焼き菓子を買った。明日、会社へ持っていけるものだった。
外は雨がやんでいた。
圭吾が傘をバッグに入れ、私の持つ紙袋を引き取った。
「今日、写真あんまり撮らなかったね」
駐車場へ歩きながら言うと、圭吾がこちらを見た。
「そう?」
「前はいっぱい撮ったなと思って」
「前って、大学のとき?」
「うん」
圭吾は少し考えてから、車の鍵を出した。
「あの頃、何でも撮ってたよな」
それ以上は続かなかった。
私は頷き、助手席に座った。
部屋を探している画面を、今日は一度も開いていなかった。
帰宅して、お土産の袋から自分たちの分を出していたら、スマホが鳴った。
同じ部屋にいる圭吾から、写真が三枚届いていた。
大きな水槽を見上げる私。
顔は横から少し見えて、口が開いている。
二枚目は、魚を指さしていた。
三枚目は、お土産売り場でサメを抱えた圭吾の自撮りだった。
「これ、結構よく撮れてない?」
圭吾はソファから一枚目を指した。
「勝手に撮ったの?」
「いいじゃん。最近二人で写真撮ってなかったし」
「これ、二人で写ってないけど」
「撮る? 今」
「ここで?」
圭吾はソファの真ん中を空けた。
私は紙袋を置き、彼の隣に座った。
画面に入るため、肩が触れた。
「後ろ、洗濯物写る」
「しまい終わってない」
「ちょっと上向けて」
圭吾がスマホを上げた。
私たちは少し顎を引き、画面の中で目が合った。
撮れた写真は、圭吾の腕ばかり大きく写っていた。
「下手」
「琴葉が上げろって」
撮り直した二枚目を、私は保存した。
背景の端に、畳んだタオルが残っていた。
「琴葉」
スマホを下ろした圭吾の声が、少し変わった。
「ほんとに何かある?」
指が止まった。
「急に前行ったとこ行こうってなって、さっきも昔の写真の話してたし」
「……ないよ」
圭吾は私を見た。
私は写真を拡大して、洗濯物の部分を切り取ろうとした。
「俺、何かした?」
「そういうんじゃない」
これは、本当だった。
ただ、何もないとは違った。
「そっか」
圭吾はスマホを置いた。納得した顔ではなかった。
私の方も、何を言えばいいか分からないまま隣に座っていた。
しばらくして、彼が言った。
「あのパスタの店も、まだあるかな」
「最初の誕生日の?」
「うん」
私はスマホを開き直した。
店のページには、見覚えのある扉が載っていた。
「あるよ」
「行ってみる?」
私は、頷いた。
あの店へ行って、そのあと河川敷まで行ったら。
そこで、ちゃんと答えを出そうと思った。




