第10話 こちらも相応の対応を
婚約から十日後、建国記念夜会の日を迎えた。
私たちは二日かけて帝都へ入り、前日はゆっくり休んだ。
以前なら移動中も計算書を手放さなかっただろう。今回は、窓の外の景色を、レナード様と一緒に眺めた。
皇帝宮の控えの間で、私は濃紺のドレスの裾を整えた。
自分で選んだ絹に、細い銀糸が縫い込まれている。胸元の翠玉は、あの日もらったものだ。
鏡の中には、少し緊張した私がいた。
妹のように見えようとしていない。誰かの引き立て役にもなっていない。
「留め金が、少し曲がっています」
隣に来たレナード様の襟を見て、私は笑った。
礼装の飾り紐が、裏返っている。
「結界の留め具なら間違えないのですが」
「それは、私のほうも同じです」
直そうとすると、彼が少しかがんでくれた。
白い手袋の下の指輪が、ぴたりと指に沿っている。
「これで大丈夫」
顔を上げると、すぐ近くで目が合った。
彼は口づけたそうな顔をして、それから、扉の向こうの足音に気づいたように背を伸ばした。
「戻ってからにします」
「何を、でしょう」
私が尋ねると、彼は小さく笑った。
そのやり取りだけで、肩の力が抜けた。
大広間の扉が開く。
「クロイツァー伯爵レナード卿。ならびに、結界術師アリシア・ローウェル殿」
まず、私の職名と名が呼ばれた。
父の娘でも、誰かの添え物でもない。
そのことに胸を熱くしながら、私はレナード様の腕に手を添えた。
広間では、事情を知る人々の視線が集まった。
ローウェル家のことを囁く声もある。
けれど、私を見て真っ先に近づいたのは、防衛会議で資料を交わした若い技師だった。
「改良式を拝見しました。次の凍結期には、うちの塔でも試せそうです」
「地形によって流量の調整が必要です。後ほど、記録を見せていただけますか」
答えてから、私は伯爵を見た。
いつか夜会で結界の話ばかりしたという人は、笑うのをこらえていた。
「二曲分までは、許されるのでは?」
小声の冗談に、私も笑ってしまった。
式の時間が近づき、私と技師長は、魔導院の担当者に案内されて進み出た。
今回認められたのは、北方の結界を止めずに補修する方式と、その維持を交代で行えるようにした実績だ。
帝国全土で完成した技術ではない。これから、別の土地でも試験と調整を重ねることになる。
魔導院の長が、受章の理由を読み上げた。
私には開発者として銀星技術功労章が、技師長と作業班には共同運用の表彰が贈られる。
皇帝陛下の前で礼を取る時、指先が少し震えた。
「この成果を、次の術師たちにも伝えてほしい」
「はい。皆と共に、務めます」
勲章が胸元で重みを持った。
祖母の手帳を抱えて家を出た夜には、こんな日を想像できなかった。
けれど、賞をもらうために続けた仕事ではない。
誰かが眠っている間、その暮らしを守るために編んできたものだった。
振り返ると、レナード様が拍手をしていた。
いつも通り背筋を伸ばしているのに、目元がひどく柔らかい。
その顔を見て、ようやく実感が湧いた。
席へ戻った私へ、彼はそっと声をかけた。
「おめでとう、アリシア」
「ありがとうございます。……帰ったら、皆にも見てもらいたいです」
「ええ。きっと待っています」
祝辞に訪れた知人へ、彼は私を紹介した。
「我が領の筆頭結界術師です。そして、私の婚約者でもあります」
先に肩書を、次に二人の関係を。
どちらかを消すことなく、並べてもらえるのが嬉しかった。
楽団が、ゆったりした曲を奏で始めた。
レナード様が手を差し出す。
「一曲、お相手願えますか」
「喜んで」
最初の一歩で、私は少し足を迷わせた。
彼は引っ張らず、歩幅を小さくして待ってくれた。
次の拍で追いつくと、繋いだ手に、ほんの少し力が返る。
間違えてもいい。
一緒に直せばいい。
それは踊りだけの話ではないのだと、思った。
◇◇◇
帰りの馬車で、私は靴の中の足をそっと動かした。
気づいたレナード様が、足元の小さな箱を開ける。
マルタが持たせてくれた、柔らかな履物が入っていた。
「替えますか」
「はい。正直に言うと、ずっと替えたかったです」
彼が笑い、窓側へ少し身を寄せて場所を空けてくれた。
履き替えると、足先が楽になる。
「楽しかったです。でも、疲れました」
「私もです」
何でもない会話だった。
それを口にできることが、今夜のどんな祝辞より嬉しかった。
宿へ戻ると、テーブルに温かいスープが用意されていた。
初めてクロイツァー邸へ着いた夜と、同じ香りがした。
あの時は、一人で泣きながら飲んだ。
今夜は、向かいにレナード様がいる。
「明日は、急いで出発しなくてもよいでしょう」
彼が言った。
「あなたが起きて、朝食を食べてからで」
「レナード様も、先に起きてお仕事を始めないでくださいね」
「ばれていましたか」
「もう、少しは分かります」
私はスプーンを置き、彼の隣へ回った。
襟元に手を伸ばすと、彼が不思議そうに見上げる。
「留め金は、まだ曲がっていますか」
「いいえ。先ほど、お預けになったことを」
理解した彼の目が、わずかに細くなった。
それでも待ってくれるので、私は自分から頬へ口づけた。
「本日も、大切にしていただきましたので。こちらも相応の対応を執らせていただきます」
彼は笑いかけて、けれど、少し真剣な顔になった。
「お返しの義務はありませんよ」
「分かっています」
私も、真っ直ぐに答えた。
「お礼だからではなく、私がこうしたいのです。好きな方を、大切にしたいので」
レナード様が、私の左手を取った。
指輪に触れてから、掌を重ねる。
「それなら、遠慮なく」
抱き寄せられる前に、私も彼の肩へ手を置いた。
今度の口づけは、頬ではなかった。
離れた後も近くにいたくて、私は額を彼の額へそっと寄せた。
「明日の朝も、一緒に食べましょう」
「ええ。その次の朝も」
答えを聞いて、私は笑った。
守るべき結界も、片付ける仕事も、これから先になくなるわけではない。
けれど、すべてを一人で引き受ける朝は、もう終わった。
翌朝、私は食器の触れる小さな音で目を覚ました。
隣の部屋から、焼きたてのパンの香りがする。
扉を開けると、レナード様が二つのカップの間から顔を上げた。
書類はどこにも出ていなかった。
「おはよう、アリシア」
私は、空いている椅子へ向かった。
「おはようございます。……待っていてくださったのですね」
「一緒に食べる約束ですから」
湯気の向こうで、彼が微笑んだ。
私はもう、役に立つ理由を探して立ち尽くさなかった。
そこは、私のために空けられた席だった。
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