第79話:甘えても、よろしいですか
朝の工房で、いつもどおり鉄の楔を打った。
昨夜の保存が今朝へ置き換わる。槌を片づけ、昨日の復習に使った紙を袋へ入れると、扉の前で待っていたコハクが立ち上がった。
食堂へ戻れば、三人はもう席についていた。
リリアの前には、朝食の皿と一緒に魔法の授業で使った紙がある。
「食べながら読むと、またこぼすぞ」
「今日は、まだこぼしておりません」
リリアが紙を持ち上げる。
その下から出てきた皿を見て、セレナが笑った。
「昨日は私も、剣の話をしながらこぼしたもの。人のこと言えないわ」
「じゃあ、二人とも紙をしまうところからだな」
リリアは素直に頷き、畳んだ紙を袋へ入れた。
だが、空いた手はすぐに次の授業の案内へ伸びる。
途中で気づいたらしく、少し恥ずかしそうに膝へ戻した。
午前の共通授業でも、リリアはよく書いていた。教師が黒板の説明を消す前に、細い文字で余白を埋めていく。昼食のあと、魔法の教室へ向かう背中を見送ってから、俺もコハクと鍛冶場へ歩いた。
今日も鉄片三枚の続きだった。
途中で幅と厚みを確かめるようにして、一枚の端が前より見本へ近づいた。
グレンは並べた二枚を指でなぞり、まだ厚いところを示す。
「こっちを忘れんなよ。端だけ揃えて満足するな」
「はい。次に見るのは、ここですね」
「見たあと、どこを打つか考えろ」
紙へ印をつけてから鉄を炉へ戻した。
手を止めることには、まだ慣れない。
それでも、前のように直すつもりで余計な場所まで叩く回数は減っていた。
授業後に合流すると、セレナとレティスは訓練場へ行くと言った。
昨日言われた足の位置を、忘れないうちに確かめたいらしい。
「リリアも見に来る?」
セレナに聞かれ、リリアは一度俺を見てから首を振った。
「今日は、少し考えておきたいことがありまして……」
「そう? じゃあ、次の時にね」
「はい。レナさん、ありがとうございます」
俺も工房で紙を見直すつもりだと告げ、二人と別れた。リリアは寮へ荷物を置きに行くと言って、校舎の角を曲がった。
工房では、小型炉へ少し火を入れ、道具の手入れをしていた。学校で使っている鉄片は持ち出さず、書き写した図で厚みの違いを確かめる。槌の柄を拭いて棚へ戻したところで、扉が控えめに叩かれた。
「……少しだけ、お邪魔してもよろしいでしょうか」
扉を開けると、リリアが一人で立っていた。
胸に抱えた紙を見て、昨日、一緒に読もうと言ったことを思い出す。
「授業のことか? 入れよ」
通り道の椅子を引くと、リリアは礼を言って腰を下ろした。コハクが鼻先を寄せ、差し出された手を嗅いでから、壁際の敷物へ戻る。
リリアは紙を台へ広げたが、教わったことをすぐには読み始めなかった。指先が、何も書かれていない余白を撫でている。
「難しいところがあったのか?」
「はい。ただ……魔法の使い方ではなくて」
今日の授業では、今得意な魔法と、これから学校で何を学びたいかを、一人ずつ聞かれたのだという。
「得意なものは、付与とお答えしました。地面や武器に使ったこともお話しして」
「試験でやったことだな」
「はい。ですが、その先は……答えられませんでした」
リリアは紙から手を離し、膝の上で指を重ねた。
「先に答えた方は、離れた魔物へ攻撃できるようになりたいと。別の方は、仲間を守る魔法を覚えたいと仰っていました。私も聞いている間は、どちらも使えたらよいと思ったのですが」
自分の番になった途端、何から話せばよいのか分からなくなったらしい。授業の紙を見れば、ほかの生徒が話した希望の横にも、細かく書き込みがある。
「《アステル》のお役に立てる魔法を覚えたいと申し上げたのです。そうしましたら、先生が……それも大切だけれど、私自身は何を使えるようになりたいのか、と」
炉の奥で炭が崩れ、小さな音を立てた。
リリアはそちらへ目を向けたまま、言葉を探している。
「……考えたことが、ありませんでした」
俺も、すぐには返事が出なかった。
地面を滑らせれば、セレナが斬り込める。
武器へ付与すれば、その一撃を支えられる。
リリアはいつも、俺たちが次にどう動くかを見ていた。昨日、知らない魔法も学びたいと言っていた時だって、使えるものが増えれば皆を助けられると考えていたのかもしれない。
「先生に、何か言われたのか?」
「急いで決めなくてよいので、考えてみなさい、と。ほかの方のお話も聞きながら……」
紙には、攻撃や防御、仲間を助ける魔法について、短い言葉が書いてあった。覚え方も使い方も、これから知ることばかりだ。俺に教えられるような内容ではない。
「どれも、気になったんじゃないのか」
「はい。自分で魔物を止められたら、と思いました。ですが、攻撃のために覚えるのか、皆さんを守るためなのか……まだ、よく分からなくて」
「今、決めなくていいんだろ?」
リリアが俺を見る。
俺は台の上の紙を、彼女の方へ少し戻した。
「役に立ちたいのもいいけど、お前が覚えたいものを選んでもいいだろ。せっかく学校に来たんだから」
「……それで、よろしいのでしょうか」
「俺だって、鍛冶をもっと知りたくて先生のところへ行ってるぞ。鉄片ばかりになったのは、予定と違ったけどな」
リリアの口元が、ようやく緩んだ。
「レイン様が、毎日同じ形を描いておられるので……大変なのだろうと思っていました」
「昨日のより、今日は少し近づいた。まだ三枚とも揃わないけど」
紙を見せると、リリアは身を寄せて印を見た。
ここだけ薄くした、と指せば、今度はその隣を確かめてくる。彼女の紙と俺の紙が並び、しばらくは学校で聞いたことを話していた。
だが、話が途切れても、リリアは立ち上がらなかった。紙を丁寧に畳み、袋へ入れたあとも、膝の上の手を見つめている。
「まだ何かあるのか?」
「……少しだけ、甘えても、よろしいでしょうか」
持っていた布を、思わず落としかけた。
リリアは顔を上げたものの、俺と目が合うと、また視線を下げた。断られたわけでもないのに、椅子の端へ座り直そうとする。
「別に、許可なんかいらないだろ」
「……奴隷ですから」
「もう奴隷じゃないって、何回言えば――」
「分かっています」
今度は、言い終わる前に返ってきた。
リリアは小さく笑い、畳んだ袋の口を指で押さえる。
「でも……レイン様の奴隷でいるのは、嫌ではありません」
その声には、俺の顔色を恐れる時の固さがなかった。返す言葉に困って布を置くと、リリアの頬が少し赤くなった。こっちが黙れば、彼女も落ち着かなくなるらしい。
「今日は、ご主人様に命令していただきたいです」
「何をだよ」
「……甘えていい、と」
俺は額へ手をやった。
そんな命令をしたことはないし、何をすればいいのかも分からない。
だが、リリアは笑いながらも、返事を待っていた。
俺が黙っている間に、袋を抱える腕へまた力が入る。それを見て、隣の腰掛けに置いていた道具袋を退けた。
「じゃあ、命令。今日は、もう頑張るの禁止。そこ座れ」
「はい、ご主人様」
リリアは嬉しそうに立ち上がり、すぐ隣へ座った。袋は台へ置かれたが、膝へ揃えた手だけは、まだ行儀がよすぎる。
炉の火を落とし、やっとこを安全な場所へ戻してから、俺も腰を下ろした。狭い腰掛けなので、少し身じろぎするだけで腕が触れる。リリアは離れず、俺の手元を見ていた。
「もう一つ、命令していただいても?」
「まだあるのか?」
「……頭を、撫でてください」
「それはお願いだろ」
「……ばれました」
照れた笑いを見せられ、俺も少し笑ってしまった。手を伸ばしかけて、途中で止める。指先に煤がついていないか確かめ、布でもう一度拭いた。
リリアは、その間もじっと待っていた。
目が合うと、今度は俺の方からそらしてしまった。何も特別なことを頼まれたわけではない。そう思おうとするほど、すぐ隣でこちらを待つ顔が気になって、手を上げるだけの動きに妙な時間がかかった。
髪へ手を置くと、彼女の肩がわずかに下がった。強く押さえないように、指をゆっくり動かす。目を伏せたまま、リリアは息を吐いた。
「こういうので、いいのか」
「はい。……とても、嬉しいです」
学校では、次に行く場所を確かめ、聞いたことを紙へ残し、誰かの動きを見ていた。そのリリアが、今は何も持たずに座っている。
一緒に王立学校へ行けるかと悩んでいた夜から、試験も、ばぁちゃんとの別れも、王都へ来る準備もあった。新しい寮で暮らし始めてからも、落ち着かないことは多かったはずだ。俺自身、毎日工房へ来る道に慣れたのだって、つい最近だった。
撫でる手を少し休めると、リリアがこちらを見た。何か言いかけて口を閉じ、それから、俺の袖をそっと摘まむ。
「もう少し、近くても……」
「落ちない程度にな」
冗談のつもりで言ったのに、近づいてきた肩の温かさで、こっちの方が姿勢を正してしまった。リリアはそれに気づいたのか、顔を覗こうとして、途中でやめる。
やがて、肩へ頭が預けられた。
重さは軽い。
それでも、槌を握る時とは違う力が背中に入り、しばらく手の置き場に困った。髪へ戻した指を動かすと、リリアが少しだけ頬を緩めたので、そのままにした。
換気口から、通りを走る荷車の音が届く。
炉にはまだ熱が残っていて、夕方の空気が入ってきても、工房は冷えなかった。離れたところでコハクが顎を敷物へ下ろし、目を細めている。
「もう少しだけ、このままでもよろしいですか」
「好きにしろ」
「それは、命令ですか?」
肩へ預けたまま聞かれて、俺は彼女を見下ろした。口元には、さっきより少しはっきりした笑みがある。
「……命令でいいよ」
「はい。ご主人様」
それきり、リリアは黙った。
俺も紙へ手を伸ばさず、台の端へ置いたままにする。何か役に立つ話をしなくても、隣に座っていていい。少なくとも、ここでまで授業の続きを始める必要はなかった。
しばらくして、リリアの指が俺の袖から離れた。肩にはまだ、頭の重さがある。
「レイン様」
「ん?」
「今日、こちらへ来てよかったです」
声が近くて、返事が少し遅れた。俺は頭をもう一度撫で、ああ、とだけ答えた。
外の光が低くなる頃、リリアは名残惜しそうに身体を起こした。乱れた髪を手で整えてから、台の袋を取る。その動きは、来た時よりもゆっくりだった。
「元気出たか?」
「はい。とても。明日から、また頑張れそうです」
「頑張るの禁止って言っただろ」
「今日は、です」
きちんと返されて、俺は笑った。
リリアも袋を胸へ抱え、少しだけ笑う。
「何を覚えたいのか、考えてみます。まだ、先生にお答えできるかは分かりませんが」
「気になったものを、また聞かせてくれよ」
扉へ鍵を掛け、夕食に間に合うよう二人で寮へ向かった。夜には、いつもどおり工房へ楔を打ちに戻る。今は、足元を歩くコハクと、隣のリリアに歩調を合わせた。
通りへ出たところで、袖が軽く引かれる。
「帰るまで、もう少しだけ……よろしいですか」
俺が頷くと、リリアは指を離さずに歩き出した。授業の紙を抱える反対の手が、俺の袖をそっと摘まんでいる。
寮までの道を、今日は少しゆっくり歩いた。




