第80話:同じ朝、違う午後
正式授業が始まって数日が過ぎた。
朝六時の鐘が鳴り終わる頃、俺は工房で鉄の楔を打った。コハクを連れて寮へ戻ると、朝食の席でセレナが今日の案内を広げた。
「今日は午後が共通なのね。実習だって」
「じゃあ、あとで合流だな」
リリアは紙を確かめてから袋へしまい、先に食事へ手をつけた。俺も食べ終えると、今日は先に鍛冶場へ向かった。
炉には火が入っていた。
だが、ほかの金床には誰の道具も置かれていない。
「……生徒、俺だけですか?」
「そうみてえだな」
グレンは椅子に座ったまま、材料の棚へ顎を向けた。
「残ってた奴も、別の授業へ行った。剣だの魔法だの、そっちがいいんだと」
俺は途中の鉄片を取り、三枚を並べた。
刃物を作りたいと言っていた生徒の金床も空いている。グレンは気にした様子もなく、こちらへ来て厚みを確かめた。
「昨日よりはマシだ。こっちは、まだ揃ってねえ」
「幅を直す時に、端へ寄りすぎました」
指した場所を見て、先生は頷いた。
それから俺の紙へ目を落とす。
「お前も、別の授業へ行っていいぞ。つまらねえだろ」
「面白いですけど」
グレンの目が紙から上がった。
「昨日は、同じところを薄くしすぎました。今日は途中で気づけたので、止められました」
鉄片を見本の横へ置く。
まだ違う。
それでも、どこを直せば近づくか、前より分かる。
「理由が分かれば、次も狙って作れます。それって面白くないですか?」
「……変な奴だな」
呆れたように言いながら、グレンは俺の手から鉄片を取った。
向きを変えて見せ、次に火へ入れる前に、どこへ力をかけるか聞いてくる。
答えると、そこだ、と短い声が返った。
しばらく打ってから、俺はほかの生徒が使っていた台を見た。
「毎年、こんなに減るんですか」
「大体な。強い技を覚えて、上のファミリアへ入りてえ奴の方が多い」
グレンは鉄片の見本を戻し、空いた金床へ腰を預けた。
「ランク、家柄、所属。誰の息子だ、何位だって話ばっかりだ。本当は何ができるかより、肩書が先に来る」
「学校の外でも、そうでした」
「ああ。ここの中だけで済む話じゃねえな」
訓練場で、荷物を蹴られた生徒の姿が浮かんだ。同じ場所にいたのに、職員が注意した相手は違った。
「俺も、そういうのは嫌いです」
「だったら、できることを増やせ。鉄は家の名前じゃ曲がらねえぞ」
渡された鉄片をやっとこで挟む。
先生はもう、その話を続けなかった。
だが、俺はさっきより素直に、言われた場所を確かめられた。
午後は共通クラスの実習だった。
学校の管理区域にある、石壁で囲まれた土の広場。南に出入りする門があり、東側には待機する生徒と実習組を分ける移動式の柵が置かれていた。膝ほどの高さの四足の魔物が、北側の檻で低く唸っている。
「今日は、仲間との位置と合図を確かめます。無理に追わず、危険を感じたら下がること」
弱い魔物でも牙に触れれば怪我をする、と教師は念を押した。
教師は退避する通路を指し、持っている武器も確かめた。
檻から出すのは一頭ずつ。
俺たち四人の番が来るまで、ほかの組は教師の合図で動き、無事に終えていた。
レオルドは東の柵の向こうで順番を待っている。セレナに剣のことを聞いた女子も、その少し先にいた。コハクは退避通路の脇で待たせた。
俺たちの番になり、魔物が放された。
セレナが前へ出て、レティスが横の逃げ道を抑える。俺は二人の後ろから動きを見て、リリアへ地面を使う位置を伝えた。
そこで、南の門が鳴った。
魔物が方向を変え、門へ体当たりしたのだ。
閉じたはずの扉が押し開かれる。
留め具から抜けかけた鉄の棒が落ち、教師が門へ走った。
「全員、下がれ!」
教師が扉を押し戻す。魔物はその手前で身を翻し、今度は東へ駆けた。
「セレナ、右!」
剣が間へ入ったが、獣は刃を避けて柵際へ回った。待機していた生徒が一斉に逃げ、誰かが転ぶ。リリアの付与が地面へ広がるより先に、魔物はその端を飛び越えた。
レティスの槍先に脇腹をかすめられ、獣が柵へぶつかった。金属が裂ける音とともに、柵が待機側へ倒れる。
俺は転んだ生徒の腕へ手を伸ばした。
届く前に、倒れた柵を越えて牙が迫った。
悲鳴が途中で詰まり、土へ赤いものが散った。
セレナが魔物を押し返し、教師が追いついて斬り伏せる。俺は柵を持ち上げたが、その下の生徒は腹を押さえて動けなかった。
「布を! 早く!」
リリアが駆け寄り、レティスがほかの生徒を通路へ逃がす。レオルドがそちらを振り向き、女子生徒が壁へ手をついて立ち止まっていた。
教師が傷へ布を押し当てた。
布はすぐ赤く染まり、呼びかけへの返事もない。生徒の指が、俺の袖を掴もうとして、力なく落ちる。
間に合わなかった。
逃げる先も、柵が倒れることも、何も分かっていなかった。俺が見ていたのは、目の前の一頭だけだった。
「医者を呼んでくる!」
ほかの職員を呼ぶ声を背に、通路へ走った。
コハクがついてくる。
教員室の前で事故と負傷者を伝え、職員が救護へ向かうのを見届けてから、俺は校門へ走った。
事故の少し前に、昼二時の鐘を聞いた。
朝の保存から八時間ほど。
工房へ着くまでを含めても、まだ十時間には届かない。
通りを曲がるたび、あの手が浮かんだ。
俺はまだ、あの生徒の名前さえ知らない。
鍵を差す指が滑った。
扉を開け、工房の奥へ膝をつく。
朝に打った楔は、そのまま残っていた。
俺は鉄を掴み、引き抜いた。
袖に残った血の色が、握る手ごと遠ざかった。
走ってきた通りの音が途切れ、喉を焼いていた息が消える。引き抜く感触だけが掌に残ったまま、目の前の光が白くほどけた。
次に聞こえたのは、朝六時の鐘の余韻だった。
俺は工房で槌を持っていた。
楔は打ち込んだばかりの位置にあり、窓から入る光は低い。袖を見ても、血はついていない。
コハクが扉から戻り、俺の膝へ鼻先を寄せた。
白い頭へ触れながら、息を整える。
あの生徒は、まだ朝を迎えたところだ。
鍛冶場へ行くと、グレンが一人で待っていた。
「今日はお前だけだ」
「知ってます」
先生の眉が動いた。
俺は道具袋を下ろし、言い直す。
「……誰も来ていないので。今日も、続きをお願いします」
三枚の鉄片は、さっきの授業より前の形へ戻っていた。
覚えている場所を直そうとして、槌を急がせる。
「おい。どこ見てる」
グレンの声で手を止めた。鉄片の厚みを確かめ、やり直す。
「ちゃんと測れ。隣の奴より早いかなんて、ここじゃ関係ねえ」
「はい。先生が見ているのは、そこじゃないですよね」
先生は俺の顔を見てから、金床へ目を戻した。
「分かってんなら、手を動かせ」
さっき聞いた話を、先生は覚えていない。
それでも、俺が何を作ろうとしているかは見てくれる。鉄を打つうちに、震えていた指も少しずつ落ち着いた。
午後の実習では、始まる前に南の門へ寄った。
「先生、この留め具、少し緩んでいませんか」
鉄の棒を指す。
教師が触れると、留め具ごと動いた。
固定する部分も傷んでおり、門を押すたびに棒が浮く。
実習は一度止められ、職員が来て門を補強した。
教師は東の柵も押して確かめた。
揺れはするが、倒れない。
俺も足元を見たが、支柱の下の継ぎ目には土がこびりついていた。
「待機している方も、通路を空けてください。慌てて柵を押さないこと」
教師はそう告げ、実習を再開した。
東の柵へ生徒が押し寄せないよう、俺は三人にも退避通路を先に確かめてもらった。
セレナが俺の顔を覗く。
「レイ、何か気になるの?」
「柵の近くで、誰かが転んだら危ない。右へ回った時、すぐ戻せる位置にいてくれ」
セレナが頷き、リリアとレティスも足元を確かめた。待機する生徒には、教師からも通路を空けておくよう声がかかる。
俺たちの番になった。
魔物は前と同じようにセレナを避け、南へ走った。補強された門へぶつかる。今度は、開かない。
教師は門へ走らず、その場から指示を出した。
「追い込むな。間を空けて――」
魔物が、もう身を翻していた。
早い。
前は教師が門を塞いだあとだった。
今度は跳ね返された勢いのまま、東の柵へ駆けている。セレナは俺が伝えた位置へ戻る途中だ。
「違う……!」
待機していた生徒が下がる。
まだ誰も押していない柵へ獣がぶつかり、下の金具が折れた。
人に押されて倒れたんじゃない。
支える部分が、最初から傷んでいたのだ。
柵が傾き、一度目には傷を負った生徒が、その向こうで足を止めた。
「壁沿いに下がれ! セレナ、柵の内側から!」
声を張り、俺は獣の横へ踏み込んだ。
袋から出した槌で、まだ立っている柵を強く叩く。金属の音に、獣がこちらを向いた。
牙が来る。
俺は退き、金具の外れた柵を間へ倒した。
獣は飛び越えようとして止まり、その端へ回る。
「リリア、柵の端! 俺が抜けてからだ! セレナは反対から!」
「はい!」
俺が柵の端を回って逃げたあと、その足跡へ付与が届いた。追って曲がる獣の前脚が滑り、牙が俺の膝の横を抜ける。
転びはしなかった。
後脚で踏み直し、待機側へ頭を向ける。
そこへ、長槍が斜めに入った。
「こっちは通さない」
レティスが槍先を獣の進路へ置き、逃げる方向を狭める。
獣が低く身を沈めたところで、セレナの剣へリリアの付与が移った。
「レナさん、お願いします!」
セレナは滑る地面を避け、反対側から斬り込んだ。
肩口を斬られた獣がよろめく。
俺たちの間を抜けようとした頭の先へ、教師の剣が入った。
今度は、生徒へ届く前に止まった。
俺は倒れた柵の向こうを見る。
あの生徒は壁際で座り込んでいた。
脛に擦り傷はあったが、自分で立ち上がり、教師の呼びかけに答えている。
握っていた槌を下ろすと、腕がひどく重くなった。
「レイ。終わったわよ」
セレナが近くへ来て、俺の腕を見る。
リリアも怪我がないか尋ねた。
俺は頷き、二人の向こうで息をつくレティスを見た。
「君の位置から、柵の足が見えたのかい?」
レティスに聞かれ、俺は首を振った。
「ぶつかるまで、分からなかった。止めてくれて助かったよ」
「僕だけじゃ止まらなかったさ」
レティスがセレナとリリアへ目を向け、二人も頷いた。
三人とも、あの血を見ていない。
実習は中止になり、生徒は職員に連れられて広場を出た。レオルドも黙って門を通り、あの女子は倒れた柵を振り返ってから歩いた。
残った俺は、破損した金具を見せるため呼ばれたグレンと、教師へ動きを説明した。
教師がほかの職員と話し始めると、グレンが低く聞いた。
「お前。最初から、あそこが壊れると思ってたのか」
門の方を見たまま、返事が遅れた。
「……嫌な感じがしただけです」
「そうか」
先生はそれ以上聞かなかった。
ただ、俺がしまう槌と、その手元をしばらく見ていた。
「帰ったら、今日打った場所を紙に残しとけ。次に来た時、見せろ」
いつもの声だった。
俺は顔を上げ、はい、と答えた。
「俺、先生の授業を続けます」
「誰もやめろとは言ってねえよ」
グレンは軽く顎を動かし、門の外を示した。
知っているはずの午後は、途中で違うものになった。朝へ戻れば、俺の思いどおりに動くわけじゃない。
退避通路の脇で、コハクが立ち上がる。
門の外には三人が待っていた。
俺は道具袋を持ち直し、明日も鉄片の続きを見てくれる先生へ頭を下げてから、そちらへ歩いた。




