第73話:名前の向こう側
図書館へ続く廊下に入っても、訓練場の木剣の音が耳に残っていた。
窓から見える校庭は広く、行き交う新入生たちは案内図を眺めながら歩いている。
荷物を拾っていた青年の姿はもう見えなかった。
俺たちも同じように場所を確かめているだけのはずだったのに、さっきから視線がこちらへ向く。
「あいつだろ。訓練場で……」
廊下の脇に立っていた二人が、声を落とした。
「ハルヴェインって言ってた」
「《ヴァルディア》の?」
聞こえないふりをして通り過ぎた。
名前を聞いたあとに訓練場の男が浮かべた笑みを思い出し、上着の内側へ手をやる。
工房の鍵は同じところにあったが、触ったところで気分が変わるわけではない。
昨日は入寮の手続きをして、今日は学校の中を歩いている。
それだけで父や兄の名がついてくるとは思っていなかった。
故郷では、工房へ来る客は作ってほしい物を持ってきた。
俺がどこの家の人間かより、いつ直せるかを聞く者の方が多かった。
隣を歩いていたセレナが、俺へ顔を向けた。
「レイ、先に少し休む?」
「歩いただけだぞ」
「そういう意味じゃないわ」
分かっていた。
だから、図書館で座れるだろと答えた。
セレナはそれ以上言わず、リリアの広げた案内図を一緒に確かめる。
入口の手前で、壁際にいた生徒が俺へ声をかけた。
剣を腰に下げ、薄い本を胸へ抱えている。
さっき訓練場の柵のそばにいた男だと、顔を見て思い出した。
「あんた、目をつけられたみたいだな」
「木剣の男にか?」
生徒は頷き、廊下の先を見てから声を落とした。
「レオルド・ヴァレンベルクだぞ、あいつ」
初めて聞く名だった。
俺が首を傾げると、生徒は少し驚いたような顔をした。
「ヴァレンベルク家を知らないのか。王都じゃ、学校も商会も無視できない家だよ」
有力な貴族家の息子なのだという。
詳しく語ろうとはせず、職員があの態度だったのも名前のせいだろうと付け加えた。
生徒自身も人の名を口にするのが気になるらしく、俺たちの後ろを通る者へ何度も目を向けていた。
「……ヴァレンベルクか」
レティスが小さく呟いた。
昨夜よりも、さっき男と向き合っていた時よりも、表情が静かになった。
ただ、その名前に驚いた様子はない。
「知ってるのか?」
「有名だからね」
短く答えてから、レティスは生徒へ礼を言った。生徒は、気をつけろよとだけ残し、図書館へ入っていく。
俺が礼を返す頃には背を向けていた。
レオルド・ヴァレンベルク。
名前が分かれば少しは気が楽になるかと思ったが、逆だった。
あの職員が目の前の男だけでなく、背後にあるものまで見ていたのだと分かる。こちらが木剣を止めても、その先までは動かせなかった。
レティスは扉の脇へ槍を寄せ、出てくる生徒へ道を空けた。
怒っていた時も、こういうところは変わらない。
俺たちは流れが途切れるのを待ち、図書館へ入った。
天井まで届きそうな書棚が、奥へ幾列も続いていた。
高い窓から入る光の下に、読むための机が並んでいる。棚の上段へ届くよう梯子が置かれ、分類を示す木札が端に下がっていた。
革の背表紙も、薄い紙を綴じただけの冊子もある。書物屋で五枚の金貨を数えた時には、こんな場所で本を探す日が来るとは想像していなかった。
入口で学生証とコハクの許可札を確かめてもらい、机の下で待たせるよう言われた。俺が窓際の席を示すと、コハクは椅子の脚を避けて潜り込む。
レティスも長槍を横の壁へ寄せ、通る者の邪魔にならないか確かめてから手を離した。
リリアは棚を見上げたまま、少し立ち尽くしていた。
「魔法の本だけで、こんなにあるのですね」
「全部、今日読むつもり?」
「いえ……まず、付与のものを探します」
セレナの小声に、リリアも声を落として答えた。二人が棚へ向かい、レティスも戦闘の記録を見てくると言って離れる。俺は鍛冶と道具の分類を探した。
棚には、炉の扱いから金属の加工まで、見ただけでは中身を想像できない本が詰まっていた。すぐ手が届くものを抜き、目次を確かめる。
絵の少ない分厚い本は一度戻し、継ぎ目や留め具の図が載っている本を選んだ。罠に使えそうな仕掛けの頁には、細い金具を幾つも組み合わせた図があった。
机へ戻ると、リリアが二冊を前にして迷っていた。一方は術式が細かく並び、もう一方には道具へ付与するための図が多い。
「最初は、こっちでいいんじゃないか」
俺が図のある方を示すと、リリアは頷いた。それでももう一冊を遠ざけず、読み終わったらこちらも見たいと、小さな声で付け加える。
「ああ。時間を決めて来ればいい」
「はい」
返事をしてから、リリアは俺の顔へ目を向けた。何か聞きたそうに唇が動き、閉じる。俺が待っていると、机の上で両手を揃えた。
「レイン様のお父様やお兄様は、それほど有名なのですか?」
廊下で聞こえた声が気になっていたらしい。問い方は慎重で、答えにくいことなら無理にとは言わないような顔をしていた。
「俺よりは、知られてるだろうな」
「《ヴァルディア》の方だからですか?」
「それもある。俺がそこにいたのは、前の話だ」
自分でも少し固い声になった。
リリアが目を伏せかけたので、俺は本の端から手を離した。
「リリアが気にすることじゃない。知らなくても当然だ」
「……はい」
セレナが隣の席へ本を置いた。
剣の構えを描いた薄い冊子と、戦闘記録を綴じたものだった。
何も言わず椅子を引く音が、少しありがたかった。
レティスが戻ってきたのは、そのあとだ。
持ってきた本を机へ置き、俺たちの顔を一度見たが、会話の続きを尋ねなかった。
リリアが頁を開いたのを確かめてから、自分も本を広げる。
紙をめくる音だけがしばらく続いた。
図の中の金具へ目を落とすと、さっきから頭の中に残っていた顔が少し遠のいた。この幅なら手持ちの鉄でも作れる。
ただ、横から力が加われば外れそうだ。自分で試すなら、どこを厚くするか。気づけば指で形をなぞっていた。
コハクが机の下で身じろぎした。
俺の靴へ前足が触れ、それきりまた静かになる。頁の端に書かれた材料を紙へ控え、あとで工房へ持っていこうと思った。
しばらくして、セレナが戦闘記録の本をこちらへ滑らせた。
「ファミリアの一覧もあるみたい」
頁の端に札が挟まれていた。
開くと、ランクごとにファミリア名を並べた索引がある。俺は指を下へ動かし、Cの欄で止めた。
《ヴァルディア》。
リリアも横から覗き、俺を見る。
「レイン様……」
該当の頁には、ガルディス・ハルヴェインとクラウド・ハルヴェインの名が記されていた。
父と兄の名前を、知らない場所で、誰かが調べるための字として見る。
短い記録の中へ収まった二人が、妙に遠く感じられた。
俺には、この本だけで分かることより、分からないことの方が多い。
なぜ俺を追い出したのか。二人なりの考えがあったと、ばぁちゃんは言った。
いつか許してやっておくれ、とも。
だが今、知らない誰かにその名を持ち出されて、笑って受け流せるほど整理はついていなかった。
「……今はいい」
本を閉じると、セレナが静かに頷いた。
レティスは表紙へ視線を落としたまま、少し間を置いた。
「さっきの反応、あの名前のせいかもしれない」
「どういうことだ?」
「聞いた話だけど、レオルドが入っているファミリアと《ヴァルディア》は、昔から折り合いが悪いらしい」
どちらが何をしたのかまでは、レティスは言わなかった。
俺も聞かなかった。
その話が本当なら、レオルドが俺の返事で機嫌を直したように見えた理由は、少し分かる。
「俺には関係ない」
言ってから、訓練場で同じようなことを答えたと思い出した。
もう《ヴァルディア》ではない。
それで相手が引いたわけではなく、むしろ名前を覚えて帰っていった。
レティスは頷いた。
「君が関係ないと思っていても、あちらが同じように考えるとは限らないね」
「貴族のこと、詳しいんだな」
「王都で暮らすなら、嫌でも名前は聞くよ」
返事は滑らかだった。
さっきまでどの本を選ぶか考えていた男が、こういう話では迷わない。
どこかで似た揉め事を見たのかもしれないと、俺は思った。
だがレティスは俺の父についても、兄についても尋ねなかった。
なぜファミリアを離れたのかという、初対面なら一番気になりそうなことさえ聞かず、閉じた本をそのまま机の端へ寄せる。
俺が話す気になるまで待ってくれるのだろうか。理由は分からないが、その間合いは助かった。
セレナが俺の広げていた図へ目を向けた。
「こっちは、何に使うの?」
「荷重で留め具が外れる仕掛けだ。使えるか、試してみたい」
「訓練で?」
「作ってからだな」
レティスも頁を覗き込み、足で踏む向きは決まっているのかと尋ねた。俺は図の線を指で示した。
リリアが覗く場所を空けると、付与で動きを変えられそうか、自分の本を見返し始める。
まだ何かを作ったわけでも、使えると決まったわけでもない。
それでも四人で一つの図を見ているうちに、昼から工房へ行くのが楽しみになってきた。
読む本を変え、書き留めるものを選んでいるうちに、窓から差す光が机の上を移った。
腹が鳴ったのをセレナに聞かれ、俺たちは昼飯の前に本を戻すことにした。
リリアは頁の番号を丁寧に控え、レティスは槍を持ち上げて壁から離す。
図書館を出ると、入口横の掲示板に新しい紙を留めている職員がいた。
作業が終わるのを待って見ると、新入生へ向けた案内だった。
入学式のあとに、身体の動かし方や、武器、魔法の扱いを確認する機会があるらしい。
詳しい進め方は、入学後に説明すると書かれている。
「早めに見てもらえるのね」
セレナの声が少し明るくなった。
腰の剣へ手を添え、書かれた文章をもう一度読む。
「試験の時とは、違うのでしょうか」
「入ってからの確認だから、また合否を決めるわけじゃないと思うわ」
リリアは頷いたが、紙を見る目はまだ緊張していた。レティスは武器について書かれた箇所を確かめ、どこまで動けるのかなと呟く。
俺も、自分で作った道具を見てもらえるのか気になった。
その時、後ろを通った生徒が俺たちを見て、連れへ何か囁いた。ハルヴェイン、と聞こえた気がして振り返る。
二人は足を止めず、そのまま廊下の先へ歩いていった。
俺は掲示へ目を戻した。
どんな道具を作るのか。どう使い、何ができるのか。
ここへ来たからには、それを見てもらいたい。
だが今日知り合った男は、そんなことを聞く前に、俺の姓だけで見る目を変えた。
朝に保存した楔は、まだ工房にある。
引き抜けば、あの男へ名乗る前へ戻れるだろう。
けれど、学校の名簿から姓が消えるわけではない。
これから暮らす場所で、いつまでも隠して通れるものでもなかった。
「レイ、行きましょう」
「ああ」
コハクが俺の足元へ戻り、隣ではレティスが槍の位置を直した。セレナとリリアが先に歩き始める。
俺も掲示板から離れた。入学式までは、まだ六日ある。
レオルド・ヴァレンベルク。
その名前は覚えた。
向こうも俺の名前を覚えている。
昼飯のあと、工房で何から作ろうかと考えながら歩いたが、廊下ですれ違う者の視線を、朝のようには受け流せなかった。




