第72話:見過ごされた一撃
窓から差す光が、知らない天井を照らしていた。
寝返りを打ちかけて、隣にもう一つ寝台があることを思い出す。
レティスはまだ眠っているらしく、掛け布の上に短い金髪だけが見えていた。
俺が足を下ろすと、寝台の脇で丸くなっていたコハクが顔を上げる。
上着を羽織り、昨夜持ち帰った袋を手に取った。棚の戸を静かに閉めても、小さな音は鳴る。
窓側から身じろぎが聞こえたので、工房へ行ってくると声を落とすと、レティスは眠そうに頷いた。
朝の王都は、昨日より道が広く見えた。
荷車を押す男と、店先を掃く女がいる。
学校へ向かう生徒の姿はまだ少なく、石畳には夜の冷たさが残っていた。
個人工房の扉を開け、内側から錠を掛ける。
コハクが入口へ伏せる間に、俺は作業台の脚元に残した楔を確かめた。
昨夜からまだ約十時間は経っていないが、ここを引き抜けば戻ってしまう。今日は新しい楔を打ち、朝を保存する。
金槌を握り直して一打を加えると、手の奥へ馴染んだ感覚が返ってきた。
これで昨夜の保存地点は失われ、戻れるのはこの朝になる。
道具を少し並べ替え、戸締まりをして学校へ戻った。
寮の入口にはレティスがいて、布を被せた長槍を手にしている。
「持っていくのか?」
「訓練場を見られるなら、少し振ってみたくて」
昨夜の話を思い出し、俺は頷いた。
コハクがレティスの脚へ鼻先を寄せると、空いている手が自然にその頭へ下りる。
食堂でセレナとリリアに合流した。
セレナも剣を帯びている。
朝食の卓へ案内図を広げると、二人の指はほとんど同時に訓練場を示した。
「先にここでいい?」
「図書館にも寄りたいです」
リリアが遠慮がちに付け加える。
魔法の練習に使う建物も気になっているらしく、案内図の端へ小さな印をつけていた。
「順に回ろう。時間はある」
俺が言うと、リリアはほっとしたように頷いた。入学式までは、まだ六日ある。
どこで何を学べるのか確かめるには、ちょうどいい時間だった。
食事を終えて校舎の裏へ回ると、制作に使うらしい建物が見えた。
大きな扉の向こうで職員が材料を運んでいる。
金床を置いた部屋も見えたが、入口の案内には利用前の説明が必要とあった。
場所を覚え、詳しく聞くのはあとにする。
魔法の訓練に使う建物の前では、リリアが足を止めた。
窓越しに、床へ幾つもの線を引いた部屋が見える。
まだ術を使っている者はいなかったが、地面へ付与する練習もできるだろうかと、小さな声で言った。
「使い方を聞いてみましょう。勝手に滑らせたら困るものね」
セレナの言葉にリリアが真剣な顔で頷き、俺は少し笑った。
セレナはからかったつもりだったらしく、すぐに、自分も一緒に聞くと付け加えた。
訓練場へ近づくと、木のぶつかる音が聞こえ始めた。
低い柵で区切られた土の広場に、練習用の武器と標的が並んでいる。
見学だけの新入生も多い。
俺たちは入口脇の掲示を確かめようと、壁沿いに歩いた。
レティスは槍を立てて持ち、横を通る者へ当たらないよう穂先の位置を気にしていた。
その先で、包みが地面へ落ちた。
布から替えの上着が覗いている。
荷物を抱えた新入生が拾おうと屈む前に、上等な外套を着た男がその肩を押した。
「どこを見て歩いている」
昨日、食堂脇の窓口で先に書類を受け取られていた男だった。
今日は付き人の代わりに、同じくらいの年頃の男を二人連れている。
新入生の包みが外套の裾へ触れたらしく、男は薄くついた土を指で払った。
「すみません。荷物が……」
「謝れば済むと思っているのか」
新入生の服は袖口に繕った跡があり、持っている剣の鞘も使い込まれていた。
押された肩を庇いながら、もう一度頭を下げる。
外套の男は返事をせず、足元の包みを靴の先で押し退けた。
入口の机にいた職員が、こちらへ歩いてきた。
学校の印を胸につけ、訓練場の鍵を腰に下げている。
その姿を見て、俺は止めてくれるものだと思った。
「通路で荷物を広げないように」
職員が強い声を向けたのは、包みの持ち主だった。
「落としてしまって、今、拾います」
「周りをよく見ること。ここで問題を起こせば、施設の利用にも関わりますよ」
新入生の顔が強張った。
その横で職員は外套の男へ向き直り、急に声を和らげる。
「お召し物は大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるか?」
俺には、払い落とせる程度の土に見えた。
だが職員は袖の飾りと男の顔を交互に見て、申し訳なさそうに頭を下げる。
押した手も、荷物を蹴った足も、その目には入っていないようだった。
セレナが俺の隣で息を吸った。
何か言おうとしたのだろう。その前に、外套の男が後ろへ手を出す。
取り巻きの一人が武器棚から木剣を取り、柄を渡した。
「剣を持っているなら、少し相手をしろ」
「いえ、俺はまだ――」
「遠慮するな。練習だ」
男は笑っていた。
包みの持ち主は屈んだままで、両手に衣服を掴んでいる。
訓練場の中へ入ってもいなければ、剣を抜いてもいない。
コハクが低く唸った。
木剣の先が持ち上がる。
肩の動きより先に男の足が開いたのを見て、俺は走った。
木だから安全ということはない。
あの太さの物を膝へ叩きつければ、立てなくなる。
「避けろ!」
青年が顔を上げた時には、木剣は横へ振られていた。
セレナが前へ出る。
俺は青年の腕を掴み、包みを踏まない方へ引いた。
荷物を放せなかった青年の身体が傾き、俺の肩へぶつかる。
その間を、細い影が斜めに走った。
硬い音が響いた。
レティスの長槍だった。
穂先は布に包まれたまま、柄が木剣の下へ入り込んでいる。
力任せにぶつけたようには見えなかった。
踏み出した足と手首が同時に動き、木剣の軌道が上へ外れる。
次の瞬間には槍が返り、石突が男の手元へ寄っていた。
男が慌てて柄を放す。
落ちた木剣が土を打つ頃には、レティスの槍はもう相手の腕から離れていた。
誰の身体にも傷をつけず、次の動きだけを封じる位置へ収まっている。
俺は青年を支えたまま、その立ち姿を見た。
ここまで近づけば長槍は扱いにくいはずなのに、レティスは必要な長さだけを使っていた。
こちらを巻き込まない位置へ、足も槍も迷わず置いている。
昨夜、一度やってみたいと言われた時の顔が浮かんだ。
こいつ、かなり強い。
「何をする!」
外套の男が怒鳴った。
セレナは青年の前へ立ち、剣の柄から手を離さずに男を見る。
「それはこっちの台詞よ」
「ただの練習だろう」
「相手は承知してない」
レティスの声は低かった。
普段の柔らかさが消え、槍を握る指にも力が残っている。
「向き合ってもいない相手を打つのが、君の練習なのか」
職員が二人の間へ割って入った。
「落ち着いて。武器を収めてください」
まずレティスへ言い、次にセレナの手を見た。
地面の木剣を拾うと、外套の男へは、今後は訓練場の中でお願いしますと告げる。
それだけだった。
「この人は外で打たれかけたんですよ」
俺が言うと、職員は青年の顔を見た。
「怪我は?」
青年は俺の腕から離れ、おずおずと首を振る。リリアが散らばった服を包みへ戻して渡し、痛む所はありませんかと尋ねた。
返事を待っている間に、職員は既に俺たちへ向き直っていた。
「では、ここまでにしましょう。大勢の前で騒ぎを大きくしないように」
怪我をしなかったことが、打とうとした事実まで消すらしい。
俺が口を開く前に、レティスが槍を立て直した。
「誰が大きくしたんだ。家の名前があれば、何をしても許されるのか」
職員の眉が寄った。
外套の男も顔を赤くしたが、今度はレティスへ手を出さなかった。
取り巻きが寄ってきて、その肩越しに俺を見る。
「お前たち、新入生か」
「そうだ」
「名前は?」
俺は青年と男の間に立ったまま答えた。
「レイン・ハルヴェイン」
男の目が動いた。
怒りのまま俺を睨んでいた顔に、別のものが混じる。
後ろの二人へ一度視線を向け、それから俺の顔を確かめるように見直した。
「ハルヴェイン? 《ヴァルディア》の……」
喉の奥が少し固くなった。
王都では、その名を知っている者がいる。
受付で姓を名乗った時も、レティスに伝えた時も、反応はあった。
だが目の前の男は、ただ聞き覚えがあるという顔をしていなかった。
「俺はもう《ヴァルディア》じゃない」
「そうか。もう、ね」
男の口元が緩んだ。
さっきの怒鳴り声より、その短い返事の方が嫌だった。
何を知っていて、何を勝手に考えたのか分からない。
職員は俺たちへ道を空けるよう促した。
外套の男が先に通り、取り巻きも続く。
脇を抜ける時、男は俺の姓をもう一度、小さく口にした。
「入学式もまだだ。学校生活を楽しむといい」
返事はしなかった。
追いかけて問いただせば、今度はこちらが騒ぎを起こしたと言われるだろう。
男の姿が柵の向こうへ消えるまで、俺は青年の隣から動かなかった。
職員は机へ戻りかけて、青年へだけ声をかけた。
「今後は気をつけるように」
青年は小さく頭を下げた。職員が離れてから、ようやく俺たちへ向き直る。
「ありがとうございました」
衣服を抱える手が震えていた。
セレナが、謝ることはないからと伝えると、青年は唇を結んで頷いた。
リリアが包みの紐を結び直し、持ち上げやすい向きで渡す。
青年は何度も礼を言い、訓練場へ入らず校舎の方へ歩いていった。
俺たちも、その場を離れた。
少し歩いてから、セレナが振り返る。
職員は武器棚へ木剣を戻していた。
訓練場では、止まっていた木の音がまた鳴り始めている。
「見ていたのに」
セレナの言葉に、俺は頷いた。
あの職員は途中から来たわけではない。
青年が拾っていたことも、剣を構えていなかったことも見ていたはずだ。
リリアは案内図を両手で持ち直した。
「ここでも、立場で変わってしまうのでしょうか」
その声を聞き、俺は歩調を落とした。
学校に入れば誰もが同じになると、軽く言えるものを今は持っていない。
「少なくとも、さっきの対応はおかしかった」
「ええ。あの人一人の判断なのか、ほかでも同じなのか、見ていきましょう」
セレナがリリアの隣へ寄った。
リリアは頷いたが、訓練場へ来る前の明るさは少し引いていた。
レティスは槍の布を確かめていた。
石突についた土を払い、留め直す指がいつもより速い。
「お前、こういうの本当に嫌いなんだな」
「嫌いだよ」
返事に迷いがなかった。
顔を上げた目にも、まだ怒りが残っている。
「止める側まで、あいつの顔を見ていた」
昨夜、名前や立場だけで正しいことにされるのは嫌だと言っていた。
あれは、思いつきで出た言葉ではなかったらしい。
何を見てきたのだろうと思ったが、レティスは槍を持ち直し、俺へ視線を向けた。
「君は、大丈夫?」
「俺は何もされてない」
「名前を聞いたあとの顔が、気になったから」
俺も気になっていると答えると、それ以上は聞かれなかった。
コハクが俺の脚へ身体を寄せた。
撫でると、訓練場へ一度だけ顔を向けてから、また歩き出す。リリアが図書館までの道を示し、セレナがその紙を横から覗き込んだ。
俺も二人のあとへ続いた。
朝に覚えた道があり、昼から使いたい工房があり、これから読む本がある。
今日やるつもりだったことは、まだ残っていた。
それでも、さっきまでと同じ気持ちでは歩けなかった。
建物の角を曲がる前に振り返ると、訓練場の入口の机が見えた。
木剣を受け取った職員が、次の生徒へ何かを説明している。
あの一撃は、もうなかったことになっているのか。
上着の中で工房の鍵が胸へ触れた。
ここで学ぶには、武器や魔法の使い方のほかにも、見ておかなければならないことがありそうだった。
そしてあの男は、俺が名乗る前から、ハルヴェインという名前を知っていた。




