第70話:小さな炉
コハクが入口側の寝台の下へ潜り込んだ。
その様子を見て、俺は入口側の寝台へ布袋を置く。
レティスは窓側へ歩き、立てかけていた長槍が倒れないよう壁の金具に留め直した。
部屋の広さは故郷の俺の部屋と大して変わらない。
寝台が二つ、衣装棚が二つ、小さな机が一つ。
これからは、それを見知らぬ相手と分けて使うことになる。
窓の外では、訓練場へ荷物を運ぶ新入生が見えた。
昼の明るさが残る部屋の床には、窓枠の影が斜めに伸びている。
コハクのための敷物を出すと、レティスは自分の荷物を少し寄せて通り道を空けた。
「僕は二十歳。君は?」
「十九だ。レイン・ハルヴェイン」
レティスは棚の戸を開けかけた手を止めた。
ほんの一瞬だけ俺の顔を見てから、穏やかに頷く。
「レイン。覚えたよ」
姓に聞き覚えがあるのかもしれない。
受付でも似たような反応をされた。
問い返されなかったことに、少しほっとする。
「槍使いなのか?」
「うん。長い得物の間合いが、僕には合っている」
布を巻かれた穂先に傷はなく、柄には何度も手入れした跡がある。
俺が視線を向けると、レティスは槍を軽く持ち上げ、部屋の天井に当てないよう横へ寝かせた。その動きは慣れている。
「レインは?」
「鍛冶師だ。戦う時は短剣と、作った道具を使う」
「自分で作った物で戦うのか。面白いね」
からかう響きはなかった。
俺は布袋から道具を一つずつ取り出し、使っていいと言われた棚の下段へ収める。
金槌の柄が木板へ触れて、かすかな音がした。
「ここでは叩けないけどな」
「寮で炉を焚かれたら困る」
「俺もそれくらいは分かってる」
レティスの口元がわずかに緩んだ。
コハクが寝台の下から這い出し、レティスの長槍を見上げた。
穂先へ近づく前に、俺は名前を呼ぶ。
コハクは足を止め、今度はレティスの差し出した手の匂いを嗅いだ。
「この子、ずいぶん賢いね」
「さっき使い魔の試験に受かった。俺より評価が高かったかもしれない」
「それは心強い同室者だ」
レティスが顎の下を撫でると、コハクは逃げずに目を細めた。
初対面の相手にしては珍しい。
俺が見ていると、コハクはすぐにこちらへ戻り、何事もなかったように伏せる。
「寮で気をつけてほしいことがあったら言ってくれ」
「今のところは何も。君の方は?」
「道具の手入れで机を使う。汚したら拭く」
「それなら僕も槍の手入れをする。机の使い方は、その都度決めよう」
互いに譲れるところを探る会話は、思ったより気楽だった。
レティスは親しげに踏み込んでこないが、こちらが困るほど距離を取るわけでもない。
寝台の位置を決めた時と同じで、先に相手の都合を確かめる。
寮の決まりも二人で読み合わせた。
火の扱いと夜の騒音には特に厳しい。
棚にしまった金槌を眺め、ここで鍛冶をする考えは捨てる。
レティスは槍の穂先に被せた布を指で示し、廊下へむき出しで持ち出すことはしないと言った。
そういう小さな確認をしておけば、一緒に暮らす時の揉め事は減るだろう。
部屋の外で、他の新入生の足音が近づいた。
レティスは開きかけていた大きな鞄を閉じ、棚の脇へ寄せる。
俺がいる間は中身を広げる気がないらしい。
貴重な物でも入っているのだろう。
俺にも他人に見せたくない道具はあるから、気にはしなかった。
案内図を広げ、夕食前にセレナたちと会う場所を確認する。
待ち合わせを決めたわけではないが、食堂なら会えるはずだ。
「食堂を見に行く。レティスも来るか?」
「僕も場所を覚えておきたい。少し待ってくれる?」
レティスは槍の革紐を締め直し、戸棚の鍵を確かめた。
俺も布袋を棚へ収め、コハクを呼ぶ。
三人で部屋を出た。
校舎の横を通ると、訓練場へ向かう道と食堂へ向かう道が分かれていた。
入学前でも利用できる施設はあるらしく、案内板の前では新入生たちが紙を見比べている。
レティスは急がずに歩き、俺がコハクの歩調に合わせて遅れると、自然に足を緩めた。
食堂の入口にセレナとリリアがいた。二人とも荷物を部屋へ置いてきたらしく、身軽になっている。
「迷わず来られたのね」
「ちゃんと案内図を見た」
「それができるなら安心だわ」
セレナの言い方に、レティスが控えめに笑う。
俺は二人へ向き直った。
「同室のレティスだ。こっちはセレナとリリア。同じファミリアの仲間だ」
「レティスです。よろしく」
「セレナよ。レイとコハクが世話をかけたら言って」
「何で先にそれを言うんだ」
「よろしくお願いいたします。リリアです」
リリアが丁寧に頭を下げると、レティスも同じくらい丁寧に返した。
コハクは三人の足元を回り、最後にセレナの横へ座る。
もう試験のことなど忘れたような顔だった。
「女子寮はどうだった?」
「希望どおり同じ部屋です。窓から中庭が見えます」
「まだ入学前だから、部屋も廊下も静かよ」
リリアの声には安心した響きがあった。
以前なら、新しい部屋のことを尋ねても、まず不便をかけないかと心配しただろう。
セレナが隣にいることも大きいのかもしれない。
女子寮の窓は校舎の方を向いているという。
俺たちの部屋からも、訓練場の端なら見える。
朝になれば別々の建物から出てきて、この食堂か中庭で落ち合うことになるのだろう。
今までは工房の食卓に座れば三人が揃った。
これからは、会う場所を自分たちで決めなければならない。
食堂脇の窓口では、先に来た新入生が寮の備品について職員へ尋ねていた。
その横へ、上等な外套を着た若者が荷物を持たせた付き人と歩いてくる。
職員は並んでいる生徒に少し待つよう告げ、先に若者の書類を受け取った。
レティスの目が一瞬だけ細くなる。
だが、何も言わずに掲示板へ視線を戻した。
食堂で夕食までの利用時間を確かめたあと、俺は掲示板に並ぶ校外施設の案内へ目を留めた。
鍛冶や工芸、自主制作に使える作業場の紹介がある。
寮では火も金槌も使えない。
学校の設備を借りられるとしても、自分の都合で作業できるとは限らなかった。
寮の受付で渡された学生証を取り出す。
登録したばかりの名前と学校の印が載っている。
それを示せば、紹介先の工房を学生向けの料金で借りられると案内にあった。
それに、朝と夜に時の楔を打つ場所が要る。
故郷では、何も考えず工房へ入ればよかった。
今朝も出発前にいつもの一打を残してきたが、その保存地点は王都で過ごしているうちに期限を迎える。
今後、毎日同じことを続けるなら、人目につかず、俺が必要な時に入れる場所を見つけなければならない。
「工房を見に行きたい」
「もう?」
セレナが掲示板を見る。
「入学まで一週間ある。今日は場所だけでも見ておく」
「私たちも参ります。日用品を買う店も探したいので」
リリアの申し出に頷いた。レティスには初日から付き合わせる理由がない。
「僕は槍の手入れと、残りの荷物を片づけるよ。また夕食で」
レティスはコハクへ軽く手を振って校舎側へ戻った。
礼儀正しく、話しやすい。だが、自分のことはほとんど語らなかった。
俺も聞かれたくないことを話していないのだから、お互い様か。
三人で北門から外へ出る。
案内にあった通りを歩くと、商家の大きな工房の間に、小さな作業場が幾つも並ぶ一角があった。
金属を打つ音だけでなく、木を削る匂いや薬品に似た匂いも混じっている。
学生が学校の外で物を作るための場所らしい。
最初に見た工房は炉が立派すぎて、月々の費用が合わなかった。
二軒目は安いが、何人かで一つの部屋を使う。
道具の管理はできても、秘密を守るには向かない。
二軒目の作業台には、まだ誰かが使った金属片が残っていた。
持ち主が戻ってくるまで場所を空ける決まりらしい。
共同利用なら作業を見られることもある。
学ぶには良さそうだが、毎朝毎晩、一人になれるとは限らない。
俺は掲示された料金だけを控え、次の工房へ向かった。
三軒目の主人は、学生証を見ると通りの奥へ案内した。
「学生なら、こちらを安く貸せますよ。狭いですけど、一人で使えます」
扉を開けた途端、鉄と古い炭の匂いがした。
小型の炉、膝ほどの高さの金床、傷だらけの作業台。
壁には道具を置く棚があり、天井近くの換気口から細い光が落ちている。
二歩も進めば反対側の壁に届く。
故郷の工房なら、材料を積んでいた隅ほどの広さしかなかった。
それでも、扉には内側から掛けられる錠がある。俺は鍵を確かめ、炉の灰を少し指で掬った。
長く放置されてはいない。
金床もぐらつかず、金槌を振るだけの幅はある。
「どう?」
セレナが入口から覗く。
「狭いけど、仕事はできる」
「レイン様が使うのなら、道具の場所もすぐに覚えられそうです」
リリアも棚を見上げた。
学生向けの値引きを受ければ、持ってきた金から最初の月の賃料を払っても、生活用品を買う分は残る。
主人は学校での在籍を学生証で確かめ、使い終わった炉の始末と戸締まりについて説明した。
部屋の鍵を預かり、利用する時間は自分で決められる。
これなら、朝も夜も来られる。
俺は契約の紙へ名前を書いた。
主人が出ていくと、三人とコハクだけが小さな工房に残った。
セレナは金床を指で叩いて音を確かめ、リリアは道具棚に積もった薄い埃を拭う。
コハクは扉の近くで伏せ、外の通りを眺めていた。
炉の前へ立つと、故郷の工房が浮かんだ。
大きさも火の癖も違う。
ばぁちゃんが座っていた椅子も、昼飯だと呼ぶ声もここにはない。
だが、鉄を温め、叩いて形を変えるための場所であることは同じだ。
布袋の繕い目へ指が触れる。
ばぁちゃんは、俺がこの袋を持って街の門より先へ行くことを笑っていた。
そこへ帰るためにも、ここで手を止めるわけにはいかない。
「気に入ったみたいね」
「ああ。小さいが、俺の工房だ」
夜になれば、ここへ戻って楔を打とう。
それはこれまでと同じ習慣だ。
ただ、何が起きてもやり直せると思い込んでいた頃には戻らない。
俺は新しい作業台に手を置いた。
手のひらへ伝わる木の傷を一つずつ確かめる。
王都での暮らしも、鍛冶も、ここから始める。




