第69話:王立学校の門
王都行きの乗合馬車に揺られ、三時間ほどが過ぎた。
窓の外に石造りの城壁が見えた時、セレナが身を乗り出した。リリアもその向こうを覗き、荷物の間に伏せていたコハクが顔を上げる。
俺はばぁちゃんの繕った布袋を膝に抱えたまま、城壁の上を行き交う人影を眺めていた。
王都へ来るのは初めてじゃない。
試験の時にも、この門を通った。
それなのに今日は、見慣れた景色に戻る道が一本なくなったような気がする。
「レイ、荷物。降りるわよ」
「ああ」
セレナに促されて布袋を肩に掛ける。
停車した馬車からコハクが先に降り、足元で俺を待った。
人通りの多い大通りを抜け、三人で学校へ向かう。王立学校は王都の北側、緩やかな坂を上った先にあった。
門の奥には幾つもの建物と訓練場が広がり、壁越しに槌の音まで聞こえてくる。剣の打ち合う音とは違う、鉄を叩く乾いた響きだ。
道を行く学生らしい一団には、真新しい制服を着た者も、使い込まれた防具を背負う者もいた。
見上げるほど高い門柱の前で、俺は一度だけ立ち止まる。
工房ならどこに何があるか、目を閉じても分かる。
ここでは入口の位置さえ、案内板を見なければ分からなかった。
足が少しだけ速くなった。
「もう工房を探してるの?」
「音が聞こえただけだ」
「同じことよ」
セレナが笑う。
リリアも小さく口元を緩めた。
コハクは俺たちを見上げ、先へ進むように尻尾を振る。
門をくぐったところで、入寮手続きの案内板を見つけた。
入学式まで七日あるせいか、校内はまだ静かだ。
それでも大きな荷物を持った新入生が途切れずに現れ、受付の前には列ができていた。
男子寮と女子寮で受付が分かれるのは、その先らしい。
まずは合格通知を提出し、学生としての登録を済ませる必要があった。
「三名、同じファミリアですね」
係の職員が通知を一通ずつ確かめる。
《アステル》の名を記録したあと、個人の登録票へ目を移した。
「レイン・ハルヴェインさん」
久しぶりに、姓まで呼ばれた。
後ろに並んでいた新入生が一人、こちらを見る。職員の指も、登録票の上で一瞬止まった。
「ハルヴェイン、ですか」
「そうです」
それ以上は聞かれなかった。
職員は通知と照らし合わせて印を押し、セレナとリリアの分も続けて処理する。
俺も何も説明しなかった。
父さんや兄さんと同じ姓であることは、ここへ来ても変わらない。
追放された時には、もうその名を口にすることもないと思っていた。
だが、自分から名乗らなくても、正式な書類には残る。
ばぁちゃんが二人にも事情があったと言ったことを思い出し、受付台の木目へ視線を落とした。
今ここで確かめられることは何もない。
俺は書類が返されるのを待った。
「こちらが寮の案内です。男子寮と女子寮の入口は別になります」
受け取った紙を三人で覗くと、寮は校舎を挟んで反対側に建っていた。
セレナとリリアの同室希望には印が付いている。二人が顔を見合わせてほっとしたところで、職員の目が俺の足元へ落ちた。
「その犬は?」
「コハクです。一緒に寮へ入れたい」
「動物の入寮は、通常は認めていません」
予想していた答えだった。
冒険者ギルドで聞いた手続きを伝えると、職員は別の紙を取り出した。
「使い魔としての登録を希望するなら、確認試験を受けられます。許可が出るまでは寮へ連れて入れません」
「試験は今から受けられるか?」
「担当者が空いていれば。奥の訓練区画でお待ちください」
コハクは何も知らない顔で俺の足元に座っている。
けれど、その耳だけは職員の声に合わせて動いていた。
案内された区画は、訓練場の片隅にある囲いだった。剣や魔法の試験に比べればずっと小さい。
木箱と幾つかの標的、地面に引かれた線があるだけだ。
近くでは別の新入生が荷車から装備を下ろしていた。コハクはその物音へ目を向けたが、俺が歩けばすぐ横についてくる。
訓練場の砂を嗅ぎ回ることも、見知らぬ人に駆け寄ることもしない。
小さい頃からそうだったわけではない。
ばぁちゃんの台所から肉を盗んで、二人で追いかけたこともある。
いつの間に、これほど落ち着いたのだろう。
やって来た担当者はコハクを一目見て、手元の板に何かを書いた。
「従わせるだけではありません。人のいる寮で、安全に暮らせるかを見ます。合図を聞くこと、危険な時に止まれること、周囲を見て動けること。その三つです」
「分かりました」
「無理に能力を見せようとしないでください。普段どおりに」
それなら問題ないはずだった。
ただ、コハクがいつも何を考えて動いているのか、俺にも分からないことがある。
最初は基本的な指示だった。
俺が座れと言うと、コハクは座る。
待てと言うと、その場で動かない。
担当者が床に干し肉を置いても、俺を見るだけで口をつけなかった。
「食い意地が張ってるくせに」
小声で言うと、コハクの尻尾が一度だけ揺れた。
次に、同じ形の木箱が三つ並べられた。
担当者はそのうち一つへ小さな鈴を入れ、箱の位置を何度か入れ替える。
俺には途中で分からなくなったが、コハクは蓋を開けようとせず、正しい箱の前に座った。
担当者が箱を開けると、鈴が乾いた音を立てた。もう一度場所を変えても、今度は隣にいたセレナが別の箱を指さしてみても、コハクは視線だけで俺に確かめ、迷わず同じように座る。
リリアが感心したように息を呑んだ。
俺は昔からコハクに助けられてきたつもりだったが、こうして他人の目で確かめられると、知らない一面を見せられたようでもあった。
「よく訓練されていますね」
「特別な訓練はしてません」
担当者が顔を上げる。
「では、普段から人の動きを見ているのでしょう」
俺は返事に迷った。
コハクが俺の言葉をどこまで理解しているかなんて、考えたことがない。
ただ、一緒にいるうちに通じることが増えた。
それだけだと思っていた。
最後は、動く標的への反応を見るらしい。
担当者が合図すると、囲いの端から布を被せた木の人形が滑り出した。
コハクは前へ出たが、飛びかかる前に俺が呼ぶと足を止めた。
人形がこちらへ迫っても唸るだけで、勝手に噛みつかない。
「戻れ」
コハクは俺の横へ戻った。
その直後、背後で木が軋む音がした。
振り向くより早く、コハクが俺の足へ身体をぶつける。
半歩よろめいた場所へ、低い位置に吊られていた別の標的が横切った。
当たっても怪我をしないよう、布を巻いた木枠だ。
担当者の手には、その仕掛けを動かした紐が握られている。
「これも試験か」
「ええ。命令がない時に、周囲へ注意を向けられるか」
コハクは俺を押し退けたあとも木枠を追わず、足元へ戻っていた。
担当者はしばらくその様子を見てから、記録板に印をつける。
「反応が早い。それ以上に、守る相手と脅威を見分け、行動を止められるのがいい。使い魔として、かなり高い能力があります」
セレナが嬉しそうにコハクの背へ手を伸ばす。
「ほら、褒められてるわよ」
コハクは鼻先を上げてから、なぜか俺の方を見た。
「俺だって、前から分かってる」
「そういう顔には見えなかったけど」
「驚いたのは、あの仕掛けの方だ」
リリアはしゃがみ、コハクの首元を撫でた。
「お見事でした、コハク」
担当者が登録票を返してくる。
「試験は合格です。共同生活での管理責任はレインさんにあります。寮で困りごとが起きたら、まず担当の職員へ相談してください」
「分かりました。ありがとうございます」
首輪に小さな許可札が付けられた。コハクは気にして一度だけ首を振ったが、俺がその札を指で押さえると大人しくなった。
札には学校の印と、俺の登録番号が刻まれている。
別の生き物を自分の持ち物のように記すのは、少し気に入らない。
それでも、コハクと同じ場所で暮らせるための札だ。
俺がしゃがんで首輪の具合を確かめると、コハクは鼻先で手の甲を押した。
動物を置いていくよう言われたらどうするか、王都へ来る間ずっと考えていた。
ようやく肩から力が抜ける。
俺たちの誰かが欠けたまま、この学校で暮らし始めずに済んだ。
寮へ向かう道の分岐で、セレナが足を止めた。
「夕食までに、食堂の場所を見ておきましょう」
「女子寮の手続きが終わったらな」
「レイも迷わないでよ」
「案内図は読める」
「前にそう言って、市場を逆に回ったでしょう」
リリアが俺の代わりに小さく笑う。
「何かありましたら、すぐにお声がけください。私たちも確認してまいります」
「ああ。またあとで」
二人が女子寮へ続く道を歩いていく。
毎日顔を合わせるのに、背中が遠ざかると、これまでとは生活が変わるのだと分かった。
コハクが俺の足へ鼻先を押しつける。隣にいる、とでも言いたげな顔だ。
男子寮の受付では、俺の書類とコハクの許可札を確認され、二階の部屋を指定された。階段を上りながら、窓の外に広がる訓練場を見る。
知らない場所ばかりで、聞きたいことも山ほどある。
まずは荷物を置こう。
部屋の扉の前で足を止めると、中から物音がした。すでに同室の生徒が来ているらしい。
扉を叩く。
「どうぞ」
通った声に促されて中へ入った。窓際に長槍を立てかけた生徒が、こちらへ振り向く。
短く切った金髪と、整った顔立ち。俺より年上に見えるが、少年のような涼しげな目をしていた。
「今日から同室だね。レティスという。よろしく」
「レインだ。こっちはコハク」
「この子も同室?」
「許可は取った。騒がしくしないようにする」
レティスはコハクへ目を向け、それから俺の荷物へ視線を移した。
布袋の繕い跡を見た気がしたが、何も尋ねない。ただ、空いている寝台を手で示す。
「よかった。窓側か入口側か、勝手に決めずに待っていたんだ」
初めて会った相手と、これから同じ部屋で暮らす。セレナとリリアが女子寮にいる夜は、ここが俺の居場所になる。
俺は布袋の紐を握り直した。
「じゃあ、まずは場所を決めよう」
コハクが二つの寝台を見比べ、入口側の床へ伏せた。まるで先に自分の場所を選んだみたいだった。




