第68話:帰る場所
ばぁちゃんの葬儀は、静かに終わった。
工房へ武器を頼みに来ていた冒険者や、近所の住人たちが別れを告げに来た。
俺の知らないばぁちゃんの話をする者も多く、若い頃にどれだけ気が強かったか、困っている者へ黙って食事を分けていたこと、俺が幼い頃には会うたび孫の話ばかりしていたことを聞かされた。
そのどれもが、俺の知っているばぁちゃんらしかった。
最後に棺へ花を置いた時も、眠っているようにしか見えなかった。
名前を呼べば、いつまで寝かせる気だいと目を開けるような気がした。
けれど、ばぁちゃんが起きることはなかった。
俺は最後まで泣かなかった。
泣けば、本当に終わってしまうと思っていたのかもしれない。
葬儀を終えて家へ戻ると、そこからが一番つらかった。
葬儀の間は、するべきことがあった。
訪れた人へ頭を下げ、医者や葬儀を手伝ってくれた人へ礼を言い、聞かれたことへ答える。
次に何をすればいいかを誰かが教えてくれた。
だが、家へ戻れば、もう誰も教えてくれない。
玄関にはばぁちゃんの履き物が残り、壁には普段使っていた上着が掛かっていた。
片づけなければならないと思ったが、どちらにも手を触れられなかった。
動かせば、この家からばぁちゃんの痕跡が一つ消えてしまう気がした。
朝になっても、台所から食器の音が聞こえない。工房で槌を振るっても、昼飯だと呼ぶ声がしない。夕方になれば、ばぁちゃんが買い物から帰ってくるような気がして、何度も玄関へ目を向けた。
食卓には、ばぁちゃんが使っていた椅子だけが残っていた。
リリアが夕食の皿を並べる時、四枚目を手に取って動きを止めた。
「申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
リリアは皿を棚へ戻したが、そのあとしばらく、こちらを振り返らなかった。
「お食事は、少しでも召し上がってください」
「分かってる」
「お婆様もきっとそう仰います」
リリアはそこまで言って、唇を噛んだ。
「そうだな」
椅子へ座り、冷めかけた料理を口へ運ぶ。
味は分かったが、美味しいとは思えなかった。
それでも食べた。
残せば、ばぁちゃんに叱られる気がした。
セレナも以前のように無理に明るく振る舞うことはしなかった。
朝になると自分の家から来て、何も言わず水を汲み、洗濯物を畳み、ばぁちゃんが残した仕事を一つずつ片づける。
日が暮れる前には父親の待つ家へ帰っていったが、翌朝にはまた顔を出した。
ある日の夕方、帰り支度を終えたセレナが、食卓の前で足を止めた。
俺は夕食に手をつける気になれず、ばぁちゃんの椅子を見たまま座っていた。
「今日も、あまり食べてないでしょう」
「あとで食べる」
セレナは向かいへ座った。
すぐには言葉が出なかった。
ばぁちゃんの椅子だけが、俺たちの間に大きな穴を開けているように見えた。
「私たちの前で、無理に平気な顔をしなくていいからね」
「してない」
「してるわ」
短く言い切られた。
「泣いても、怒ってもいい。レイが何も言いたくないなら、それでもいい。でも、一人でいなくならないで」
あの朝、俺が何度二人を残して工房へ走ったのか、セレナは知らない。
それでも、胸の奥を見透かされたような気がした。
「分かった」
それだけ答えると、セレナは小さく頷いた。
コハクは、ばぁちゃんの部屋の前で過ごすことが増えた。
扉は開いたままなのに中へは入らず、廊下へ身体を伏せて部屋を見ている。
声をかければ俺のところへ来るが、しばらくするとまた同じ場所へ戻っていた。
俺は工房へ入った。
作業台には、あの朝に打った楔が残っていた。
当然、もう時間を保存する力は失われている。
あの日、俺が引き抜かなかった楔だ。
柄を握り、ゆっくり引き抜く。
時間は戻らなかった。
何も起きないことを知っていた。
それでも、手の中の楔を見つめながら、ばぁちゃんの声を思い出した。
あんたには、これからの時間がある。
俺は楔を捨てず、作業台の引き出しへ入れた。
これから先も時の楔は使う。
ばぁちゃんの言葉は、力を捨てろという意味ではない。使えば救える命も、変えられる未来もある。
ただ、楔さえあれば何も失わないという考えだけは、もう持てなかった。
その言葉を受け入れたつもりだった。
だが、前へ進むということが、ばぁちゃんを置いていくことのように思えてならなかった。
王立学校の制服も、荷造りを終えた鞄も、部屋の隅に置いたままだった。
入寮手続きを始められる日まで、もうほとんど時間は残っていない。
それでも俺は、出発の支度に手をつけられなかった。
「レイ」
工房の入口から、セレナが声をかけた。
「父さんが来たわ」
居間へ戻ると、セレナの父親が食卓の前に立っていた。
葬儀の時にも世話になったが、今日は仕事道具を持ってきている。
「家と工房のことだが、本当に残すんだな」
「ああ。売るつもりはない」
迷わず答えた。
ここには、ばぁちゃんと過ごした時間が残っている。工房の炉も、使い込まれた食卓も、柱についた小さな傷も、手放せるものではなかった。
「王都へ行っている間、時々見てもらえないか。炉が錆びないようにして、家にも風を通してほしい」
「任せておけ。工房の中は勝手に触らん。何かあれば王都へ知らせる」
「悪い」
「気にするな。娘にとっても大事な場所だからな」
その言葉に、胸の奥がわずかに温かくなった。
ばぁちゃんは、帰る場所を残しておくと言っていた。
本人はいなくなってしまった。
それでも、ばぁちゃんが守ってきた家と工房は残る。
俺たちが帰ろうと思えば、いつでも帰ってこられる。
セレナの父親へ鍵を一本預けると、ようやく出発することが現実になった。
「お前たちが戻るまで、この場所は俺が見る」
「何年かかるか分からないぞ」
「休みには帰ってくるんだろう」
「そのつもりだ」
「なら、帰るたびに自分で確かめろ。人に任せきりにすると、ばあさんに怒られるぞ」
「違いない」
セレナの父親は工房の方を見てから、俺の肩を一度だけ叩いた。
余計な慰めを口にしなかったことが、ありがたかった。
それから数日、俺たちは止まっていた準備を進めた。
制服、筆記具、訓練用の装備、寮へ持ち込む日用品。ばぁちゃんが繕ってくれた古い布袋には、鍛冶道具の中でも特に使い慣れた物を入れた。
擦り切れていたはずの縁は、丁寧な縫い目で補強されている。
指でそこをなぞると、もうばぁちゃんはいないという痛みと、確かに残してくれたものがあるという温かさが同時に込み上げた。
縫い目の一つ一つに、ばぁちゃんの指が触れたのだと思った。
その瞬間、視界が滲んだ。
葬儀でも、誰もいない部屋を見ても出なかった涙が、止めようとしても溢れてきた。
布袋を胸へ抱え、声を殺したつもりだったが、扉の外には二人の気配があった。
その日も荷造りを手伝いに来ていたセレナと、隣の部屋にいたリリアだ。
セレナもリリアも、部屋へは入ってこなかった。
ただ、俺が泣き止むまで、そこにいてくれた。
出発前日の夕食後、セレナが自分の家へ戻る前に、俺は二人を居間へ呼んだ。
コハクも俺の足元へ座る。
「二人に話しておきたいことがある」
「ばぁちゃんのこと?」
セレナに尋ねられ、頷いた。
最後に交わした会話を、すべて話すことはできない。
時の楔のことも、何度も同じ朝を繰り返したことも、父さんと兄さんのことも、まだ胸の中へしまっておく。
けれど、三人に向けられた願いまで隠す必要はなかった。
「ばぁちゃんは、俺たちに学校へ行ってほしいって言ってた」
二人が黙って俺を見る。
「知らないものを見て、学んで、強くなれって。三人で合格したことを、最後まで喜んでた」
リリアが胸元で両手を重ねた。
「私も、お婆様に制服を見ていただけたことを、忘れません」
「私もよ」
セレナが続ける。
「入学を諦めるなんて言ったら、ばぁちゃんに怒られるでしょうね」
「間違いなくな」
久しぶりに、少しだけ笑えた。
きっと、いつまで暗い顔をしているんだいと叱られる。
「三人で強くなろう」
俺は二人の顔を見て言った。
「ただ卒業するだけじゃない。ここを出る時より、ずっと強くなって帰ってくる。ばぁちゃんに自慢できるくらいに」
「ええ」
セレナは迷わず頷いた。
「三人で強くなりましょう」
リリアの声も、以前よりはっきりしていた。
「そして、胸を張ってここへ帰ってきましょう」
「ああ」
誰もいない椅子へ目を向ける。
もう、ばぁちゃんが迎えてくれることはない。
それでも、ここは俺たちの帰る場所だった。
翌朝、入寮手続きのために王都へ出発する日が来た。
入学式は七日後。
その前に寮へ入り、学校での生活を始める準備をしなければならない。
冬の名残はまだ空気の中に残っていたが、差し込む朝日は以前より暖かかった。
道端には雪解けの水が細く流れ、その脇から小さな芽が顔を出している。
季節も、俺たちを待たずに進んでいた。
荷物を背負い、リリアと二人で家中の窓と戸締まりを確かめる。最後に工房へ入り、炉の前へ立った。
冷えた炉と、壁へ並べた金槌。ばぁちゃんが何度も腰かけて俺の仕事を見ていた椅子。
「行ってくる」
返事はなかった。
それでも、言っておきたかった。
工房の扉を閉め、家の鍵をかける。
リリアも自分の荷物を背負い、俺に続いて玄関を出た。
門の前には、自宅から荷物を背負ってきたセレナと、その父親が立っていた。
父親は預けた鍵を掲げ、任せておけとでも言うように頷く。
俺も黙って頭を下げた。
コハクが俺の隣へ並ぶ。セレナは街道の方へ身体を向け、俺を振り返った。
「行こう、レイ」
「ああ」
俺は隣に立つリリアへ目を向けた。
「行こう、リリア」
「はい、レイン様」
三人で街道へ向かって歩き出す。
数歩進んでから、俺は振り返った。
小さな家と、その隣に建つ工房。
ばぁちゃんと暮らし、セレナとリリアと出会い、《アステル》を始めた場所だった。
ここから出ていくのは、初めてではない。
けれど今度は、帰ってきた時に胸を張れる自分になっていたかった。
父さんのファミリアを追い出された日、俺には何も残っていないと思った。底辺鍛冶師と呼ばれ、この工房で槌を振ることしかできなかった。
今は違う。
隣にはセレナとリリアがいる。
足元にはコハクがいる。
俺たちは三人で王立学校に合格し、自分たちのファミリアを名乗っている。
失ったものは、戻らない。
それでも、これから手に入れられるものまで失ったわけではなかった。
「行ってきます」
もう一度告げて、前を向く。
王都行きの乗合馬車が待つ街道へ向かい、俺たちは三人と一匹で歩き出した。




