第67話:これからの時間
「脈が落ちている」
医者の言葉と同時に、ばぁちゃんの呼吸が大きく途切れた。
「薬は?」
「もう使っている。今は待つしかない」
「他に何かあるだろ」
医者は答えず、ばぁちゃんの身体を横へ向けた。薬師も残っていた薬包を広げたが、すぐには手を伸ばさない。これまで使った薬と重ねれば、かえって身体へ負担をかけるらしい。
俺には、その説明が諦めるための言葉にしか聞こえなかった。
「何でもいい。試してくれ」
「レイン」
セレナが俺の腕を掴む。
「まだ終わってない」
振り払うように言うと、セレナの指から力が抜けた。傷ついた顔をしていたが、謝る余裕さえなかった。
ばぁちゃんの胸が、かすかに上下する。
まだ生きている。
八時は越えた。昨夜十時の楔には、もう戻れない。それでも、今この瞬間を新しく残すことはできる。
「レナ、少しだけ頼む」
「どこへ行くの?」
「工房だ。すぐ戻る」
俺は返事を待たずに部屋を飛び出した。
作業台には、昨夜打ち込んだ楔が残っていた。だが、すでに十時間を越えている。引き抜いても、あの夜へは戻れない。
期限の切れた楔を脇へ置き、新しい鉄の楔を取り出す。
今からでは遅いかもしれない。
それでも、何も残さないよりはいい。
金槌を振り下ろすと、硬い音が朝の工房に響いた。
これで、今へは戻れる。
ばぁちゃんを救う方法が見つからなくても、もう一度考えることはできる。最後の薬が間に合わなかったなら、次はもっと早く使えばいい。医者が見落とした変化があったなら、次は俺が先に気づけばいい。
昨夜へ戻れない以上、できることは大きく減っている。それでも、この朝からやり直せるだけで十分だと思おうとした。数分でも早く薬を使い、呼吸を整えることができれば、今度こそ次の鐘まで届くかもしれない。
一度でも先へ進めたのだから、また進めるはずだ。
まだ終わりではない。
そう言い聞かせ、ばぁちゃんの部屋へ戻った。
呼吸は続いていた。
医者が薬を使い、わずかに脈が戻ったらしい。セレナとリリアが寝台の両側へ立ち、ばぁちゃんの顔を見つめている。
足元ではコハクが身体を丸めていた。俺が戻ると顔を上げたが、近づいてはこなかった。
「今は落ち着いている」
医者が低い声で告げる。
「治ったのか?」
「一時的なものだ」
その先を言わせたくなかった。
「次の薬はいつ使える?」
「レイン」
寝台から、ばぁちゃんの声がした。
掠れてはいたが、はっきり俺を呼んでいた。
「ここにいる」
手を握ると、ばぁちゃんの指がわずかに動いた。
「先生。レナとリリアも、少し外してくれるかい」
「でも――」
「レインと話がしたいんだよ」
医者は少し迷ったあと、薬師を連れて部屋を出た。セレナは俺を見たが、最後にはリリアの肩へ手を置き、一緒に廊下へ出ていく。
扉が閉じると、部屋の中には俺とばぁちゃん、それから寝台の下のコハクだけが残った。
「何だよ」
できるだけ普段どおりの声を出した。
ばぁちゃんはしばらく俺の顔を見ていた。
その視線は、熱に浮かされた病人のものとは思えないほど静かだった。俺の目元から、握りしめた指から、言葉にしていないものまで一つずつ拾い上げるように見ている。
俺は耐えきれず、目を逸らした。
「レイン、あんた……何回目だい?」
心臓を掴まれたような気がした。
「何の話だ」
「とぼけなくていいよ」
「何も――」
「あたしの具合が悪くなる時刻も、必要な薬も、全部分かってたんだろ」
言葉が出なかった。
「先生たちより先に、あたしの身体がどうなるか知っていた。そんな顔をしてるのに、一度も驚きもしなかった」
ばぁちゃんの指が、俺の手の甲をゆっくり撫でた。
「時の楔を使ったんだね」
否定しようとした。
けれど、喉が動かなかった。
ばぁちゃんは昔から、俺の能力を知っている。隠し通せる相手ではなかった。
「何回目なんだい」
「覚えてない」
嘘ではなかった。
最初の朝。
医者を早く呼んだ朝。
薬を変えた朝。
身体を冷やしすぎた朝。
八時の鐘へ届かなかった朝。
すべて覚えているのに、それが何度目だったのかだけが曖昧になっていた。
ばぁちゃんはそれ以上、回数を聞かなかった。
答えが数字ではないことを分かっているようだった。
「もう少しなんだ」
俺はばぁちゃんの手を強く握った。
「八時は越えた。前より長く生きられた。だから、次はもっと――」
「レイン、あんた本当はわかっているんだろ? あんたは賢い子さね」
「分からない」
「分かってるよ」
静かな声だった。
責めているわけでも、諦めろと突き放しているわけでもない。その優しさが、今は何より苦しかった。
「老いぼれたあたしのために、何度も同じ時間をやり直す必要はないよ」
「無駄じゃない」
思わず声を荒らげた。
「ばぁちゃんを助けることが無駄なわけないだろ」
「ああ。無駄だなんて言ってないさ」
ばぁちゃんは小さく息を吸った。それだけで胸が痛むのか、眉間に皺が寄った。
「あんたがあたしを助けようとしてくれた。その気持ちは、何より嬉しいよ。でもね、同じ大切な人間が死ぬところを、何度も見続けちゃいけない」
ばぁちゃんの手に、ほんの少し力が戻った。
「そんなことを続けていたら、あんたの心も壊れちまうよ」
「俺は平気だ」
「平気な顔には見えないね」
何も言い返せなかった。
身体の疲れは、戻るたびに消えた。それでも、冷たくなった手の感触だけは消えなかった。目を閉じれば、違う朝に死んだばぁちゃんの顔がいくつも浮かぶ。
ばぁちゃんには、それが見えているようだった。
「楔があれば、何でもやり直せると思っちゃいけない。どれだけ過去へ戻っても、変えられないことはある」
「でも、変わった。八時を越えた」
「少し先へ延びただけさ」
「次はもっと延ばせる」
「その次は? あたしが一日生きたら、今度は一日を繰り返すのかい。三日なら三日、一年なら一年、あんたはずっとあたしの死に縛られるつもりかい?」
答えられなかった。
「あんたには、これからの時間がある」
ばぁちゃんの目が、扉の方へ向いた。
その向こうには、セレナとリリアがいる。
「学校へ行って、知らないものを見て、あの子たちと強くなるんだろ」
「ばぁちゃんも見ればいい」
「見たかったね」
その言葉に、涙が滲んだ。
ばぁちゃんは俺の手を撫でながら、ゆっくり続けた。
「世の中には、あんたの知らない力を持った人間がいくらでもいる。時の楔だけが特別で、何にでも勝てる力だなんて思うんじゃないよ。自分の力を過信したら、いつか取り返しのつかないことになる」
「分かってる」
「それから、秘密を守ることと、誰も信用しないことは違う」
息を呑んだ。
「あんたが何を抱えてるのか知ってくれる人間が、一人いるだけでも違うもんさ。本当に信用できる相手ができたなら、いつか話してもいい。全部一人で背負う必要はないんだよ」
ばぁちゃんは、俺の能力を知っている唯一の人だった。
楔を打つたびに感じていた恐れも、死んだら戻れないという不安も、説明しなくても分かってくれていた。そのばぁちゃんがいなくなれば、本当に俺一人になる。
その事実が、死という言葉より遅れて胸へ突き刺さった。
扉の向こうで、小さく床が鳴った。
セレナか、リリアか。それとも二人とも、すぐ近くで待っているのだろう。
「もう一つ、頼みがある」
ばぁちゃんの声が、さらに弱くなった。
「父さんたちのことか」
ばぁちゃんは少し驚いたあと、困ったように笑った。
「やっぱり、あんたは賢い子だね」
「あいつらの話は聞きたくない」
「いつか許してやっておくれ」
手を離しかけた俺の指を、ばぁちゃんが引き止める。
「追い出したことが正しかったなんて言わないよ。あんたが傷ついたことも知ってる。ただ、あいつらには、あいつらなりの考えがあって、お前をファミリアから追放した」
「だったら、何で何も言わなかった」
「それは、いつか自分で聞きな。あたしの口から全部話すことじゃない」
納得などできなかった。
父と兄が俺を追い出した日のことは、今も鮮明に覚えている。必要ないと言われ、背を向けられ、荷物を持って一人で帰った。事情があったという一言だけで、あの日の傷が消えるわけではない。
それでも、ばぁちゃんが最後まで二人を庇おうとしたことには、何か意味があるのだろう。
ばぁちゃんが最後に残そうとしている言葉を、拒むこともできなかった。
呼吸の間が、少しずつ長くなっていく。
「ばぁちゃん」
「ちゃんと聞こえてるよ」
「まだ、何も返せてない」
「十分もらったさ」
ばぁちゃんはゆっくり目を細めた。
「あんたが生まれて、泣いて、笑って、大きくなるところを見られた。工房を継いでくれた。仲間を連れて帰ってきて、王立学校にまで受かった」
唇に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「あんたは、あたしの自慢の孫だったよ」
「だった、って言うなよ」
「そうだね。今も、自慢の孫だ」
涙が手の甲へ落ちた。
「ばぁちゃん」
呼びかけると、指が最後に一度だけ俺の手を握り返した。
そのまま、ばぁちゃんは安心したように笑っていた。
胸の動きが、静かに止まった。
「ばぁちゃん?」
返事はない。
扉が開き、セレナとリリアが入ってくる。医者は寝台へ近づき、ばぁちゃんの脈を確かめた。
やがて、医者は何も言わずに首を横へ振った。
リリアがその場へ膝をつき、声を押し殺す。セレナは唇を噛み、俺の背中へ手を置いた。二人の温もりに触れても、俺は振り返ることができなかった。
俺はその手を離さなかった。
工房には、朝に打った新しい楔がある。
今なら、まだ戻れる。
もう一度この朝へ戻り、同じ言葉を聞くこともできる。薬を使う時刻を変え、また別の方法を試すこともできる。
立ち上がればいい。
工房まで走り、楔を引き抜けばいい。
けれど、俺は動かなかった。
ばぁちゃんが息を引き取った時刻も、最後に指へ力が入った瞬間も覚えている。戻れば、今度はもっと長く話せるかもしれない。言えなかったことを伝え、聞けなかったことを聞けるかもしれない。
けれど、その先に待つものも知っていた。
俺が楔を抜くたび、ばぁちゃんはもう一度苦しみ、俺はもう一度その死を見る。そして、いつか本当に心が壊れるまで、終わりを選べなくなる。
寝台の下から出てきたコハクが、ばぁちゃんの手へ鼻先を寄せた。それから俺の足元へ身体を伏せ、静かに目を閉じる。
俺はばぁちゃんの手を握ったまま、工房を見なかった。
俺は自分の意思で戻らない朝を選んだ。




