第66話:八時の鐘
「どうしたんだい。そんな顔をして」
死んだはずのばぁちゃんが、寝台の上で俺を見ていた。
胸が上下している。掠れてはいるが声も聞こえる。触れた手には熱があり、弱くても確かな脈が指先へ返ってきた。
朝の冷たさが、まだ掌に残っているような気がした。同じ手のはずなのに、今は温かい。
その当たり前のことが信じられず、俺は指の位置を変えて何度も脈を探した。
一定の間隔で返ってくる小さな鼓動を感じるたび、胸の奥に詰まっていた息が少しずつ抜けていく。
「ばぁちゃん……」
名前を呼ぶだけで、喉が詰まった。
ばぁちゃんは不思議そうに眉を寄せた。
俺が朝に見たものも、冷たくなった手を何度握ったかも知らない。
当然だった。
振り返ると、部屋の入口にコハクが立っていた。白い毛を逆立て、寝台の上のばぁちゃんを見つめている。
やがて生きていると分かったのか、恐る恐る近づき、寝台の下から匂いを確かめた。
その姿を見て、これは夢ではないとようやく思えた。
「熱が上がったのかい?」
「違う。今、医者を呼ぶ」
「さっき診てもらったばかりだろ」
「もう一度診てもらう」
返事を待たず、隣の部屋で眠っていたセレナを起こした。
「レナ、医者を呼んできてくれ」
「今から?」
「頼む。朝まで待てない」
俺の顔を見たセレナは、それ以上何も聞かなかった。上着を掴むと、すぐに家を飛び出していく。
リリアにも起きてもらい、水と濡らした布を用意させた。
夜のうちに呼ばれた理由が分からず、二人とも戸惑っている。
それでも俺が一つ指示を出すたび、迷わず動いてくれた。
やがて、眠そうな顔をした医者がセレナに連れられてきた。
「夕方より熱は下がっている。呼吸も今は落ち着いているが」
「朝になったら息が止まる」
口にしてから、自分でもおかしなことを言っていると気づいた。
医者が険しい目を向ける。
「なぜ、そう思う?」
「分からない。でも、そうなる気がするんだ」
説明などできない。
それでも引き下がるわけにはいかなかった。
「頼む。朝までここにいてくれ。金なら払う」
医者は何か言いたそうに俺を見たあと、ばぁちゃんの胸へもう一度耳を当てた。
「……分かった。夜が明けるまでは様子を見よう」
その夜、誰も眠らなかった。
医者は何度も脈と呼吸を確かめ、リリアが少しずつ水を飲ませる。セレナは火を絶やさず、俺はばぁちゃんの手を握り続けた。
ばぁちゃんは大げさだと何度も言ったが、俺は一度も寝台から離れなかった。
眠そうに目を擦るセレナへ薪を足すよう頼み、リリアが濡らした布を替える時刻まで細かく確かめる。
何をすれば正解なのか分からないからこそ、できることを一つも残したくなかった。
窓の外がわずかに白み始めても、医者は落ち着いていた。
熱は上がっていない。
呼吸にも大きな乱れはない。
最初の朝にはいなかった医者が、今は寝台のすぐ横にいる。
それだけで、同じ結末にはならないと思えた。
夜明けが近づいても、ばぁちゃんは生きていた。
これなら助かる。
そう思った直後だった。
ばぁちゃんの呼吸が、急に浅くなった。
医者が身体を起こし、背中へ丸めた布を入れる。薬を飲ませようとしたが、ばぁちゃんの喉はほとんど動かなかった。
「ばぁちゃん、聞こえるか」
閉じた瞼は開かない。
医者が何度呼びかけても、呼吸は弱くなっていった。
朝七時を少し過ぎた頃、胸の動きが止まった。
前より長く生きた。
けれど、それだけだった。
セレナが息を呑み、リリアが口元を両手で覆う。医者はばぁちゃんの手首へ指を当てたまま動かなかった。
俺だけが泣かなかった。
悲しくなかったわけではない。
この朝を終わりにしないと、もう決めていたからだ。
俺は医者が何かを告げるより先に立ち上がり、工房へ走った。
昨夜へ戻る。
もう一度やればいい。
楔を引き抜いた瞬間、朝の光が消えた。
再び、夜十時の工房へ戻る。
足元でコハクが短く鳴いた。
俺の身体からは、一晩中起きていた疲れも、工房まで走った息苦しさも消えている。
それなのに頭の中には、二度分の朝がそのまま残っていた。
冷たくなったばぁちゃんと、医者に看取られたばぁちゃん。違う最期が重なり、どちらも夢にはなってくれなかった。
「まだだ」
自分へ言い聞かせるように呟き、俺は家を飛び出した。
今度はセレナを医者へ向かわせず、俺自身が走った。
最初から医者へ症状の変化を伝えるためだ。
熱が一度下がったこと。
夜明け前から呼吸が浅くなること。
水を飲み込めなくなり、朝七時を過ぎた頃に息が止まること。
まだ起きていないことまで言い切る俺を、医者は怪しんだ。
「夢でも見たのか?」
「夢でも何でもいい。そうなると思って診てくれ」
押し問答をしている時間さえ惜しかった。
医者を連れ帰ると、俺が言ったとおり、夜明け前にばぁちゃんの呼吸が乱れ始めた。
医者の顔色が変わる。
俺が伝えた時刻とほとんど同じだったからだ。
医者は理由を問いただすことも忘れ、鞄の中から別の薬包を取り出した。
前の周回とは違う薬が使われ、身体の向きも変えられた。
呼吸が弱くなるより早く薬を飲ませたことで、ばぁちゃんは朝七時を越えても目を開けていた。
「レイン、少し寝たらどうだい」
「眠くない」
「ひどい顔だよ」
「ばぁちゃんに言われたくない」
憎まれ口を返しながら、俺は窓の外を見た。
空はすでに明るい。あと少しだった。
だが、七時半を過ぎた頃から、ばぁちゃんの指先から力が抜けていった。
薬を追加しても、水を飲ませても戻らない。
朝八時には届かなかった。
七時四十分を告げる鐘があるわけではない。それでも、窓から差し込む光と、部屋の時計の針で分かった。前の周回より長い。方法を変えれば、ばぁちゃんが生きられる時間も変わる。
なら、正しいやり方はどこかにある。
俺がまだ見つけられていないだけだ。
俺はまた工房へ走った。
三度目の夜十時。
金槌を握った姿勢へ戻った俺を、コハクが見上げていた。
ばぁちゃんの部屋へ戻るとコハクもあとを追い寝台の下へ伏せた、そしてばぁちゃんをじっと見つめていた。
俺が頭を撫でても、いつものように尻尾を振ることはなかった。
次は薬師も呼んだ。
医者に使った薬を一つずつ確認し、組み合わせを変えてもらった。部屋の温度、水を飲ませる量、身体を起こす時間まで、前の周回で見た変化を思い出しながら指示した。
ある周回では、薬を早く飲ませすぎたことで吐き戻し、最初の朝より早く呼吸が止まった。
別の周回では身体を冷やしすぎた。
慌てて毛布を増やした時には、もう指先から温もりが失われ始めていた。
何かを変えれば、必ず結果も変わった。
それが良い方へ動くとは限らなかった。
「どうして、そこまで分かるのですか」
リリアが戸惑ったように尋ねた。
「ずっと見てたからだ」
嘘ではなかった。
ただ、その時間をリリアが覚えていないだけだ。
その朝、ばぁちゃんは七時四十分まで生きた。
次の朝は、七時五十分を越えた。
さらに次は、八時の鐘が鳴る直前まで呼吸が続いた。
少しずつ伸びている。
薬を変えれば、苦しみ始める時刻がずれた。身体の向きを変えれば、呼吸が戻ることもあった。水を飲ませる量を誤れば早く悪化し、逆に控えすぎても弱っていった。
一つ間違えるたび、ばぁちゃんは俺の目の前で死んだ。
そして俺は、ばぁちゃんの身体が冷えきる前に工房へ走った。
セレナが泣く朝もあった。
リリアが自分の看病が悪かったのではないかと震える朝もあった。
そのたびに何も説明せず二人を残し、俺は楔を抜いた。
次の夜になれば、二人は何も覚えていない。
それでいいはずなのに、忘れられる二人が少しだけ羨ましかった。
何度目かの夜十時。
時間が戻るたび、俺の身体から疲労は消えた。
それでも、ばぁちゃんの呼吸が止まる音も、力を失った手の感触も、頭の中に積み重なっていく。
「今度こそだ」
コハクの前で呟いた。
コハクは尻尾を下げたまま、俺の足元から離れなかった。
その周回では、これまでに最も長く呼吸が安定した方法だけを選んだ。
最初から医者と薬師を呼び、薬を使う時刻を早めた。
リリアには少量ずつ水を飲ませてもらい、セレナには部屋の温度を一定に保たせる。
身体の向きを変える時刻も、呼吸が乱れる前にした。
医者は俺の指示を不審に思っていたが、予告したとおり症状が変わるたび、何も言わず従うようになった。
ばぁちゃんも、最初のうちは小言を言っていた。だが俺があまりに必死なせいか、途中からは何も聞かず、差し出した水と薬を受け入れた。
時折、俺の顔をじっと見ていた。
その視線に気づいても、俺は目を合わせられなかった。
助けてから、すべてが終わってから、何をしていたのか話せばいい。
今はただ、八時を越えることだけを考えた。
七時を過ぎた。
ばぁちゃんはまだ生きている。
七時半。
呼吸は浅いが、途切れてはいない。
七時五十分。
額には汗が浮かんでいる。それでも、薬を飲ませると喉が動いた。
俺はばぁちゃんの手を握り、遠くの鐘を待った。
やがて、朝八時を告げる鐘が鳴り始めた。
一つ。
二つ。
鐘の音を数えながら、ばぁちゃんの胸を見る。
動いている。
八つ目の音が街へ広がり、ゆっくりと消えていった。
ばぁちゃんは、生きていた。
胸は動き続けている。
握った手にも、まだ温もりがある。
医者が脈を確かめ、弱いながらも安定していると告げた。
「助かった……」
声にした途端、全身から力が抜けた。
セレナが俺の肩を支え、リリアは涙を浮かべながら何度も頷いた。
二人にとっては、長い一晩が終わっただけだ。
俺にとっては、何度繰り返しても越えられなかった朝だった。
だが、八時の鐘は別の意味も持っていた。
昨夜、楔を打ったのは十時だ。そこから、ちょうど十時間。
工房に楔が残っていても、もう昨夜へは戻れない。
引き抜くことのできる時間は、今この瞬間に終わった。
それでも構わないと思った。
ばぁちゃんは八時を越えた。
未来は変わったのだ。
そう信じた直後、握っていた手がわずかに震えた。
ばぁちゃんが苦しそうに息を吸う。
医者がすぐに身を乗り出した。
「脈が落ちている」
さっきまで続いていた胸の動きが、再び小さくなっていく。
「薬は?」
「もう使っている。今は待つしかない」
「他に何かあるだろ」
医者は答えなかった。
ばぁちゃんの呼吸が一度、大きく途切れた。
リリアが新しい布を取り落とし、セレナが俺の肩へ置いた手に力を込める。
俺は工房の方を見た。
楔はある。
けれど、もう役には立たない。
戻れない朝が始まろうとしていた。




