第65話:大丈夫という言葉
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、家の静けさだった。
いつもなら、俺が起きる頃には台所から食器の触れ合う音が聞こえてくる。ばぁちゃんが先に起き、朝食を作りながら工房の炉を確かめているからだ。
だが、その朝は何の音もしなかった。
居間へ出ても、食卓には何も並んでいない。かまどには火が入っておらず、昨夜の冷えた灰が残っているだけだった。
「ばぁちゃん?」
返事はない。
ばぁちゃんの部屋へ向かうと、扉の前にコハクが座っていた。俺を見るなり立ち上がったものの、尻尾は動かなかった。
一度扉を叩き、それでも返事がないことを確かめてから中へ入る。
ばぁちゃんは寝台に横たわっていた。呼吸は浅く、額には汗が浮かんでいる。肩へ触れると、服越しにも熱が伝わってきた。
「ばぁちゃん」
強く呼ぶと、瞼がゆっくり開いた。
「……朝かい」
「熱があるだろ」
「少し身体が重いだけだよ」
身体を起こそうとする肩を押さえる。
「寝てろ」
「朝飯を作らないと」
「いいから寝てろ」
思ったより強い声が出た。
物音を聞きつけ、セレナとリリアも部屋へ入ってくる。リリアはすぐにばぁちゃんの額へ手を当て、セレナは顔色を見ただけで踵を返した。
「私、医者を呼んでくる」
「お願いします。私はお水と布を」
二人が動き出してからも、俺は寝台の脇で立ち尽くしていた。
武器が折れたのなら直せる。魔物が相手なら、罠を作り、何度でも戦い方を考えられる。だが、熱に浮かされたばぁちゃんを前にすると、俺の知識は何の役にも立たなかった。
やがてセレナが年配の医者を連れて戻った。
医者は脈や呼吸を確かめ、胸と背中へ耳を当てる。診察を終えると、鞄からいくつかの薬包を取り出した。
「熱と疲労だ。咳もあるが、今のところ呼吸に大きな乱れはない」
「すぐ治るのか?」
「薬を飲んで休めば熱は下がるだろう。ただし、年齢を考えれば若い者の風邪と同じには扱えん。水を切らさず、食べられる物を少しずつ与えなさい」
「分かった」
「熱が上がる、息が苦しくなる、意識が曖昧になる。どれか一つでもあれば、すぐに呼ぶように」
医者が帰ると、ばぁちゃんは早くも寝台から足を下ろそうとした。
「何してる」
「診察は終わったんだろ。仕事へ戻るだけさ」
「寝台を出るなと言われただろ」
「あの医者は大げさなんだよ」
「数日はお休みになってください」
リリアが静かに言い、セレナも両腕を腰へ当てた。
「三人相手に勝てると思ってる?」
「病人を脅すんじゃないよ」
ばぁちゃんは不満そうに鼻を鳴らしたが、最後には毛布を引き上げた。
ひとまず任せられる状態になったところで、俺は工房へ向かった。
朝と夜、一日に二度、時の楔を打つ。それはもう、歯を磨くことや炉の灰を掃くことと変わらない習慣になっていた。何も起きなければ、それでいい。何か起きた時に十時間だけでも戻れるよう、俺は毎日欠かさず時間を残してきた。
作業台に鉄の楔を置き、金槌を振り下ろす。
甲高い音が工房に響き、今この時が楔へ刻み込まれた。
それを見届けてから、俺はばぁちゃんの部屋へ戻った。
その日は工房の炉を落とし、三人で家事と看病を分担した。リリアは柔らかく煮た穀物と野菜のスープを作り、セレナは水汲みと洗濯を引き受ける。俺は薬を飲ませる時間を書き出し、ばぁちゃんの額の布を替えた。
普段なら、ばぁちゃんが一人でこなしていることばかりだった。たった一人が寝込んだだけで、この家は動き方を忘れたようにぎこちなくなる。
昼を過ぎた頃、仕立屋の小僧が制服の完成を知らせに来た。
受け取りは明日でいいと伝えようとしたが、寝台からばぁちゃんの声が飛んでくる。
「行ってきな」
「今日はいい」
「三人で行く必要はないだろ」
結局、セレナとリリアが仕立券を持って出かけ、夕方には大きな包みを抱えて戻ってきた。
「できたのかい」
目を覚ましたばぁちゃんは、朝よりいくらか力の戻った声で尋ねた。
「ああ」
「なら、着て見せな」
俺たちは一度部屋を出て、届いたばかりの制服へ着替えた。
濃い色の上着は肩が少し窮屈だったが、身体を動かす邪魔にはならない。胸元には、王立学校の紋章が縫いつけられている。
三人で並ぶと、ばぁちゃんは上体を起こし、俺たちを順番に眺めた。
「レインは、服に着られてるね」
「最初に言うことがそれか?」
「レナは似合ってる。剣を振り回して破かないようにね」
「気をつける」
「リリアもよく似合ってる。どこかのお嬢様みたいだ」
「そ、そんな……私にはもったいないお言葉です」
リリアは困ったように俯いたが、頬は嬉しそうに赤らんでいた。
「学校へ行ったら、何を学ぶつもりなんだい」
ばぁちゃんに問われ、俺たちは顔を見合わせる。
「俺は鍛冶だ。ここでは扱えない素材や技術も学びたい」
「私は剣。レイが無茶をしても、ぶつかられる前に倒せるくらいにはなりたい」
「俺を基準にするな」
セレナが笑い、リリアは少し考えてから胸元で手を重ねた。
「私は、魔法を学びたいです。付与だけでなく、お二人をお守りできる方法を、もっと増やしたいと思っています」
ばぁちゃんは三人の答えを聞き、ゆっくりと頷いた。
「同じ学校へ行っても、学ぶことまで同じにする必要はないよ。それぞれ持ち帰れるものを、しっかり持って帰ってきな」
そのあと、ばぁちゃんはリリアのスープを半分ほど食べ、薬を飲んだ。額の熱も少し下がっている。夜が深まる頃には、呼吸も朝より穏やかになっていた。
セレナとリリアが休んだあとも、俺は枕元に残った。少しでも呼吸の間が空くと胸がざわつき、鼻先へ手を近づけて息を確かめる。
三度目に同じことをしたところで、ばぁちゃんが目を開けた。
「何をしてるんだい」
「布を替えようと思って」
「今、鼻の下に手を置いてただろ」
「気のせいだ」
「大丈夫だよ。明日には、もう少しましになってる」
「今度は医者の言うことを聞け」
「分かったよ」
ばぁちゃんの手が、俺の手の甲へ重なった。まだ熱は残っていたが、指には力がある。
やがて、夜十時を告げる鐘が遠くで鳴った。
俺は毛布を掛け直して部屋を出ると、工房へ向かった。
朝に残した時間はすでに十時間を過ぎている。だから夜になれば、また新しく楔を打つ。ばぁちゃんが病気だからではない。これまでと同じ、いつもの習慣だった。
新しい鉄の楔を作業台へ当て、金槌を振り下ろす。
硬い音が、夜の工房を短く震わせた。
足元にいたコハクが顔を上げる。俺はその頭を一度撫で、ばぁちゃんの部屋へ戻った。
薬が効いているのか、呼吸は落ち着いていた。額に触れても、朝ほど熱くはない。
今夜は大丈夫だ。
そう思い、俺も自分の寝台へ入った。
その翌朝、俺は静けさの中で目を覚ました。
窓の外は白み始めている。それなのに、いつもの生活音が一つも聞こえない。
居間へ出る。食卓は空で、かまどには火がない。
昨日と同じはずの光景が、なぜかまるで違って見えた。
「ばぁちゃん?」
喉から出た声が、ひどく乾いていた。
廊下の先で、コハクがばぁちゃんの部屋の前に立っている。座りもせず、扉を見上げたまま、小さく鼻を鳴らしていた。
胸の内側を、冷たい指で掴まれたような気がした。
扉へ手をかける。
「ばぁちゃん、入るぞ」
返事はなかった。
寝台の上で、ばぁちゃんは昨夜と同じように横たわっていた。
けれど、胸が動いていない。
「ばぁちゃん」
近づき、肩へ手を置く。
冷たかった。
昨夜までそこにあった熱が、どこにもなかった。
「おい、朝だぞ」
肩を揺らす。頭がわずかに枕の上で動いただけで、瞼は開かない。
「薬、飲む時間だ。起きろよ」
返事はない。
鼻先へ手を当てる。何も触れない。手首を握っても、指の下には何の動きもなかった。
「ばぁちゃん」
もう一度呼んだ。
声を大きくして、何度も呼んだ。背中をさすり、胸へ耳を当てた。どこかに音が残っているはずだと思った。
何も聞こえなかった。
意味が分からなかった。
昨夜、話したばかりだった。明日にはもう少しましになると、ばぁちゃん自身が言った。俺の手を握る力だってあった。
なのに、その手は今、俺がどれだけ強く握っても握り返してこない。
「起きろよ……」
声が震えた。
「学校へ行く前に、まだ話すことがあるだろ。俺たちの制服だって、ちゃんと見ただろ。持って帰ってこいって言ったじゃないか」
言葉を重ねても、ばぁちゃんの時間だけが止まっていた。
足元で、コハクが低く鳴いた。
その声に押されるように顔を上げた時、遠くで朝七時の鐘が鳴り始めた。
七つの音。
昨夜、楔を打ったのは十時だった。
頭の中で、時間が繋がった。
九時間。
まだ十時間を越えていない。
楔が時間を保てるのは、あと一時間ほどしかない。
俺は立ち上がった。椅子へ足をぶつけ、倒れる音が響いたが、振り返らなかった。
廊下を走り、工房の扉を押し開ける。
作業台には、昨夜打ち込んだ楔が残っていた。
迷いはなかった。
柄を掴み、力任せに引き抜く。
甲高い音が弾けた。
工房の壁が歪み、朝の白い光が細く引き延ばされる。倒した椅子の音も、俺の荒い息も、ばぁちゃんを呼んだ声も、すべてが見えない穴へ吸い込まれていく。
次の瞬間、手の中に金槌の重さが戻った。
目の前には、今まさに打ち込まれたばかりの楔がある。
夜の工房だった。
遠くで、十時の鐘の余韻が消えていく。
足元のコハクが身体を震わせ、弾かれたように俺を見上げた。
「ばぁちゃん……」
工房を飛び出し、部屋へ駆け込む。
寝台の上で、ばぁちゃんの胸がゆっくりと上下していた。
近づく足音に気づいたのか、瞼が薄く開く。
「どうしたんだい。そんな顔をして」
声があった。
温かい息があった。
死んでいたはずのばぁちゃんが、目の前で生きていた。




