第64話:旅立ちの支度
ばぁちゃんから古い布袋を取り上げた翌朝、食卓の上には綺麗に繕われたそれが置かれていた。
昨夜、俺が縫った部分は酷いものだったはずだ。曲がっていた糸はすべて抜かれ、ほつれていた口元も底の破れも、どこを直したのか分からないほど整っている。
「寝ろって言っただろ」
朝食を運んできたばぁちゃんに言うと、涼しい顔でパンを置いた。
「寝たよ。あんたが失敗したところを直してからね」
「失敗とは限らないだろ」
「袋の口を縫い閉じるのは、失敗じゃなければ何なんだい」
言われて布袋を見る。
確かに、昨夜の記憶では口の辺りを縫っていた。
「……暗かったからだ」
「鍛冶師が明かりのせいにするんじゃないよ」
セレナが吹き出し、リリアも口元を手で隠した。
ばぁちゃんは布袋を俺の前へ押し出す。
「まさか、これを持って本当に冒険へ出る日が来るとはね」
「王立学校へ行くだけだ」
「あんたにとっては、そこからが新しい冒険だろ」
色褪せた布に触れる。
新品には見えないが、生地は厚く、底も二重に補強されていた。幼い頃はパンしか入らなかった袋が、今度は王都で暮らすための荷物を運ぶことになる。
「ありがとな」
「礼を言う暇があるなら、今日は仕立屋へ行ってきな。採寸には時間がかかるよ」
入学までの日数は、もう片手に少し余る週しか残っていなかった。
冬の間は遠くに感じていた春が、予定表の上では目の前まで迫っている。
朝食を終えた俺たちは、合格通知に同封されていた仕立券を持って街へ出た。
コハクもついてこようとしたが、仕立屋へ犬を連れ込むわけにはいかない。ばぁちゃんと留守番するよう言うと、不満そうに鼻を鳴らした。
指定された仕立屋は、大通りに面した二階建ての店だった。
店内には同じ仕立券を持った若者が何人も並んでいる。俺たちと同じように王立学校へ合格した者たちらしく、期待に満ちた顔もあれば、親に連れられて緊張している顔もあった。
順番が来ると、俺たちはそれぞれ別の仕切りへ案内された。
首回り、肩幅、腕、腰、足。店員は慣れた手つきで寸法を測り、木札へ数字を書き込んでいく。
「訓練時にも着用しますので、少し余裕を持たせます。成長を見越して大きくすることもできますが、どうなさいますか?」
「もう十九だ。そこまで伸びないと思う」
「横には伸びるかもしれないわよ」
仕切りの向こうからセレナの声が飛んでくる。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったの」
店員が笑いをこらえながら採寸を続ける。
俺が終わって表へ出ると、セレナはすでに追加の注文を選んでいた。見た目よりも動きやすさを優先し、袖や裾が邪魔にならない形へ調整してもらうらしい。
一方、リリアは注文書の前で手を止めていた。
「どうした?」
「予備の制服ですが、私は一着で十分です」
「案内には二着用意しろって書いてあっただろ」
「毎日手入れをすれば、一着でも問題ありません」
「雨で濡れたらどうする」
「その時は、乾くまで部屋で――」
「授業を休むのか?」
リリアが言葉に詰まる。
注文書の端には、追加分の値段が記されていた。安い金額ではない。リリアがそこを見ていることには、すぐに気づいた。
「これは《アステル》に必要な金だ。遠慮して足りなくなる方が困る」
「ですが、レイン様にこれ以上のご負担を……」
「俺だけの金じゃない。三人で稼いだ金だろ」
セレナも隣から注文書を覗き込む。
「私だけ二着で、リリアが一着なんて駄目よ。洗う時も一緒にした方が楽だし」
「レナさん……」
リリアはなおも迷っていたが、やがて予備の欄へ印をつけた。
「では……二着、お願いいたします」
以前なら、こちらが勝手に決めるまで拒み続けていただろう。小さな変化ではあるが、自分に必要な物を受け取ることも、少しずつ覚え始めている。
仕立屋を出たあとは、筆記具や日用品を買い揃えた。
荷物は増えていくのに、使える金は減っていく。入学前だけでこれなのだから、王都での生活が始まればどうなるか分からない。
工房を離れる直前まで、できるだけ依頼をこなしておく必要がありそうだった。
最後に冒険者ギルドへ立ち寄った。
用件はコハクのことだ。
受付で王立学校の寮について尋ねると、職員は奥から薄い規則書を持ってきた。
「動物を連れての入寮は、無条件では認められていません」
「じゃあ、置いていけってことか?」
「いいえ。学校側の確認を受け、許可が出れば同行できる場合があります。ただ、こちらでは判断できません。入寮手続きの際に、その子も連れて直接申し出てください」
「許可が出なかったら?」
「その場合は、王都で預け先を探していただくことになります」
俺は眉を寄せた。
預け先を探すつもりはない。コハクは飼っている犬ではなく、ずっと一緒に生きてきた相棒だ。
「何とかする」
「レイならそう言うと思った」
セレナは呆れたように笑った。
「コハクを置いていくという選択肢は、初めからありませんものね」
リリアの言葉に頷き、俺は規則書に記された手続きだけを控えた。
工房へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
いつもなら、外まで聞こえてくるはずの物音がない。
扉を開けると、コハクが奥から駆けてきた。そのまま俺の足元を一周し、居間の方を見る。
食卓では、ばぁちゃんが椅子に座ったまま眠っていた。
片手を机に置き、もう片方の腕を枕にしている。傍らには半分ほど残ったパンと、ほとんど手をつけていないスープが置かれていた。
「ばぁちゃん?」
肩へ触れる前に、ばぁちゃんが目を開けた。
「……帰ったのかい」
「こんなところで何してるんだ」
「見れば分かるだろ。少し眠ってただけさ」
ばぁちゃんは身体を起こし、残っていたスープへ手を伸ばした。
「冷めてるな。温め直さないとね」
「食べてなかったのか?」
「朝からあまり腹が減ってなくてね。この前の祝いで食べすぎたんだろうさ」
そう言って立ち上がる姿は、いつもと変わらない。
ただ、椅子から離れる瞬間、机に手をついたのを俺は見逃さなかった。
「今日は休んでろ」
「昼寝までしたのに、これ以上どう休めっていうんだい」
「仕事は俺がやる」
「なら、まず買ってきた物を片づけな。入口を塞いでるよ」
振り返ると、セレナが両腕に抱えていた包みを床へ置いていた。
「ごめんなさい」
「まったく、学校へ行く前からこれじゃ先が思いやられるね」
いつもの小言に、俺はそれ以上言えなくなった。
リリアだけは、ばぁちゃんの顔をしばらく見つめていた。
その日の夕食でも、ばぁちゃんは料理を半分ほど残した。
「珍しいわね」
セレナに言われると、ばぁちゃんは残った皿をコハクの方へ押しやった。
「祝いの日に食べすぎたんだよ。年寄りの腹は、元に戻るのにも時間がかかるのさ」
肉をもらったコハクは喜んでいたが、食べ終えるとばぁちゃんの足元に座り、その顔を見上げた。
ばぁちゃんは白い頭を撫で、早々に自分の部屋へ戻っていった。
夜も遅くなってから、俺は荷物の整理を再開した。
衣服、筆記具、短剣の手入れ道具。必要な物を古い布袋へ入れていると、ばぁちゃんが部屋から出てきた。
「まだ起きてたのか」
「水を飲みに来ただけだよ」
ばぁちゃんは俺の隣へ立ち、布袋の底を指で押した。
「これなら、今度は街の門より先まで行けそうだね」
「王都まで持たなかったら困る」
「壊れたら自分で直しな。私が毎回やってやれるわけじゃないんだから」
「分かってる」
「忘れ物をしても、命まで忘れてくるんじゃないよ」
「子供じゃないんだから、それくらい分かってる」
ばぁちゃんは小さく笑った。
「子供じゃなくなったから、心配なんだよ」
その声は穏やかで、いつもの軽口とは少し違って聞こえた。
俺は布袋の紐を結び直す。
「入学しても、休みになったら戻ってくる」
「そうかい」
「工房の仕事もあるしな」
「だったら、帰ってくる場所くらいちゃんと残しておくよ」
ばぁちゃんは俺の肩を一度叩き、部屋へ戻っていった。
扉が閉じてから、押し殺すような咳が聞こえた。
俺は手を止め、閉じた扉を見る。
すぐに静かになった。
祝いの準備で疲れただけだ。食欲がないのも、少し眠そうなのも、それだけのことだろう。
そう考え、俺は再び荷物へ向き直った。
だが、布袋の紐を結ぶ指は、しばらく動かなかった。




