第63話:春を待つ食卓
三通の合格通知を食卓に残したまま、俺たちは祝いの準備に取りかかった。
ばぁちゃんは少し豪勢にすると言っただけで、何を作るかは教えてくれなかった。
市場へ向かう俺たちに渡されたのは、肉や野菜の名前が並んだ紙と、いつもより重い革袋だった。
「これ、使い切っていいのか?」
「祝いの日にけちってどうするんだい。余ったら返しな」
「余ると思う?」
横から覗き込んだセレナに、ばぁちゃんは鼻で笑った。
「あんたがいるんだ。足りない心配をした方がよさそうだね」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だよ」
言い返そうとするセレナの背を押し、俺は工房を出た。リリアが苦笑しながら続き、コハクも当然のようについてくる。
冬の名残はまだ街の隅に残っていたが、道を覆っていた雪はほとんど消えている。軒先から落ちる雫が日の光を弾き、市場へ向かう人々の服装も、少しずつ軽くなり始めていた。
買い物を終えて工房へ戻ると、ばぁちゃんはすでに大鍋を火にかけていた。
「あとは私がいたします」
リリアが荷物を置き、すぐに台所へ入ろうとする。
「今日はあんたたちの祝いだよ。座って待ってな」
「ですが、一人でこれだけの量を作るのは大変です」
「なら、野菜だけ切っておくれ」
「はい」
結局、リリアは包丁を握り、セレナは皿を並べ、俺は薪を足すことになった。
祝いを受ける側が全員働いている気もするが、ばぁちゃんの台所では昔からこうだった。コハクだけが何もせず、肉の匂いが漂う鍋の前に陣取っている。
「お前も手伝え」
声をかけると、コハクは尻尾を一度だけ振った。手伝う気はないらしい。
煮込んだ肉の匂いが工房まで広がる頃、ばぁちゃんが小さく咳をした。
鍋から上がった湯気にむせたのだろう。そう思ったが、ばぁちゃんはしばらく台に片手をついたまま動かなかった。
「大丈夫か?」
「平気だよ。ちょっと火に当たりすぎただけさ」
「座ってろ。あとは俺たちでやる」
「鍋を焦がしたら、祝いは抜きだからね」
そう言いながらも、ばぁちゃんは素直に椅子へ座った。
珍しいとは思ったが、朝から働き通しだったのだから疲れてもおかしくない。リリアが差し出した水を飲むと、ばぁちゃんはすぐにいつもの調子へ戻り、鍋を混ぜる俺へ次々と指示を飛ばし始めた。
日が暮れる頃には、食卓に大皿が並んでいた。
柔らかく煮込まれた肉と根菜、焼きたてのパン、香草を混ぜた卵料理。普段なら一品でも十分な量だ。食卓の下では、コハクが自分の皿に盛られた肉を見つめ、まだかと前足を踏み鳴らしている。
ばぁちゃんは湯気の向こうから俺たち三人を見渡した。
「レイン、セレナ、リリア。合格おめでとう」
改めて言われると、急に照れくさくなる。
セレナは嬉しそうに笑い、リリアは背筋を伸ばして深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちさ。三人とも、よく頑張ったね」
「ばぁちゃんが礼を言うことじゃないだろ」
「年寄りには、若いのが育つのを勝手に喜ぶ権利があるんだよ」
木杯を掲げたばぁちゃんに合わせ、俺たちも杯を持ち上げる。
「三人の合格と、これからに」
杯が軽く触れ合う。
その音に反応して、コハクが一声鳴いた。
「四人よ」
セレナが訂正する。
「コハクも一緒なんだから」
「それなら、四人のこれからに、だね」
ばぁちゃんの言葉を合図に、祝いの食事が始まった。
セレナは大皿の肉を遠慮なく取り、リリアはばぁちゃんの皿が空くたびに料理をよそった。俺も久しぶりに腹が苦しくなるまで食べた。
コハクは誰より早く自分の分を平らげ、俺の足元へ移動してくる。何も落とすつもりはなかったが、セレナの手から肉の欠片が落ちると、白い影が一瞬でさらっていった。
「今のは違うの。落としただけよ」
「誰に言い訳してるんだ」
「レイがうるさいからでしょ」
くだらない言い合いをしながら食べるうちに、合格したという実感がようやく湧いてきた。
試験は終わった。
次に待っているのは、春からの王立学校での生活だ。
食事を終えると、俺たちは合格通知と一緒に届いた案内を食卓へ広げた。
入学までに用意する衣服、筆記具、訓練用の装備、寮へ持ち込める荷物の量。細かな決まりが紙の両面にびっしりと記されている。
「こんなにあるのか」
「試験対策より大変そうね」
「それはないだろ」
「レイは買い物の面倒さを甘く見てるのよ」
セレナは必要な品を指で追いながら、別の紙へ書き写していく。リリアもその横で、自分が持っている物と新しく買う物を分け始めた。
「寝具は寮で借りられるようです。衣服も、普段着はそれほど多くなくてよいかと」
「訓練用の装備は持ち込みか」
俺は自分の短剣に目をやった。
セレナの剣も、入学前にもう一度手入れしておいた方がいい。リリアが付与を繰り返しても耐えられるよう、刃だけでなく柄や鍔も確かめる必要がある。
考えるほど、やることが増えていく。
「寮は当然、男女で別なのね」
セレナが案内の一文を指した。
「レイとはここでは別になるか」
「昼間は学校で会うだろ」
「そうだけど、今までずっと一緒だったから変な感じ」
リリアも同じ箇所を見つめ、わずかに寂しそうな顔をした。
「レナさんと同じ部屋になれるのでしょうか」
「希望は出せるみたい。あとで一緒に書きましょ」
「はい」
二人の話を聞きながら、俺は足元のコハクを見た。
案内には、寮へ動物を連れて入れるかどうかまでは書かれていない。
「問題はこいつだな」
名前を呼ばれたと思ったのか、コハクが顔を上げる。
「まさか、置いていくつもり?」
セレナが眉を寄せた。
「そんなつもりはない。学校に確認しないと分からないってだけだ」
「コハクなら、駄目と言われてもついてきそうですね」
リリアの言葉に、ばぁちゃんが笑う。
「この子なら、レインより先に王都へ着くかもしれないね」
コハクは意味が分かっているのかいないのか、得意そうに尻尾を振った。
翌日から、工房の仕事と並行して入学準備が始まった。
昼は依頼された武具を仕上げ、その合間に自分たちの装備を点検する。夕方には市場を回り、足りない物の値段を調べた。夜になると食卓へ品物を並べ、荷物を減らす相談をする。
ばぁちゃんは古い棚の奥から丈夫な布袋や毛布を引っ張り出してきた。どれも長く使われていなかったが、手入れをすればまだ使える。
「新しい物ばかり買う必要はないよ。金は王都へ行ってからのために残しておきな」
「この袋、俺が子供の頃に使ってたやつじゃないか?」
「よく覚えてたね。家出するって言って、パンを詰めてた袋さ」
「そんなことしたの?」
セレナが笑う。
「家出じゃない。冒険に行こうとしたんだ」
「同じようなものでしょう」
リリアまで口元を緩めている。
結局、その時の俺は街の門へ着く前にばぁちゃんに捕まり、耳を引かれて戻ってきた。ずっと忘れていたのに、色褪せた布袋を見た途端、情けない記憶まで鮮明に蘇った。
夜、皆が眠ったあとも、ばぁちゃんは食卓でその袋のほつれを繕っていた。
「明日でいいだろ」
声をかけると、針を動かしていた手が止まる。
「もう少しで終わるよ」
「最近、疲れてるんじゃないか?」
「祝いの準備ではしゃぎすぎただけさ。何十年も生きてれば、眠い日くらいあるよ」
ばぁちゃんはそう言って笑ったが、いつもより少しだけ声に力がなかった。
俺は針と袋を取り上げる。
「続きは俺がやる。ばぁちゃんは寝ろ」
「鍛冶しかできないあんたに、縫い物ができるのかい」
「見れば分かる」
「明日の朝まで袋が残ってるといいけどね」
軽口を叩きながらも、ばぁちゃんは立ち上がった。
部屋へ戻る途中、一度だけ足を止めたが、すぐに何事もなかったように歩き出す。
その背中を見送り、俺は食卓へ向き直った。
目の前には、縫いかけの古い布袋と三通の合格通知が並んでいる。
窓の隙間から入り込んだ風は、もう真冬のものではなかった。
春は、思っていたより近くまで来ていた。




