第61話:止めるのは一歩
案内された先は、訓練場へ続く待機室だった。
扉の向こうから、重いものが地面を踏み鳴らす音が聞こえる。金具が震え、リリアが杖を握る指へ力を込めた。
部屋の中央に置かれた机の上で、試験官が砂時計を返した。
「相談時間は三分。砂が落ちきれば扉を開ける。質問は?」
「試験場の中で声を掛け合うのは問題ないですか?」
「戦闘中の指示や報告は自由だ。ただし、相談を続けて開始を遅らせることは認めない」
「分かりました」
試験官が壁際へ下がる。俺はすぐに二人を机のそばへ呼び寄せた。
「見せられた個体と同じなら、正面から止めるのは無理だ。レナは右、リリアは左後ろ。俺が中央で突進を引きつける」
「レイが正面に立つの?」
「最後まで立ってるつもりはない。ぎりぎりで避けて、進む場所を決める」
試験場は森でも坑道でもない。木も岩もなければ、罠を仕掛ける時間もない。ここで作れる道は、俺自身が立って誘う一本だけだ。
「リリアは俺の前を凍らせてくれ。広くなくていい。走ってきた足が一度でも滑れば、体勢は崩れる」
「承知しました」
「レナは横から首を狙え。倒れなくても、頭が流れれば隙はできる」
セレナが腰の剣へ触れ、迷いなくうなずく。
「分かった。でも、避けるのが遅れたら承知しないからね」
「その時は助けてくれ」
「言われなくても助けるわよ」
砂時計の最後の一筋が落ちていく。
リリアが俺を見た。その顔には緊張が残っていたが、俯いてはいなかった。
「レイン様。必ず、間に合わせます」
「ああ。頼んだ」
砂が落ちきると同時に、試験官が扉へ手をかけた。
「Eランクファミリア《アステル》。実技試験を開始する」
◇
訓練場は、周囲を高い石壁で囲まれていた。
踏み固められた土に大きな障害物はなく、壁際に退避用らしい木柵が置かれているだけだ。石壁の上からは三人の試験官がこちらを見下ろしている。
反対側の鉄格子の奥で、アイアンボアが荒い息を吐いていた。
近くで見ると、広場で見た時よりさらに大きい。灰色の剛毛は針金のように逆立ち、額から伸びた角が地面すれすれまで下がっていた。
俺たちが配置につくのを待ち、試験官が片手を上げる。
「始め!」
鉄格子が跳ね上がった。
アイアンボアが前脚で土を掻き、低い唸り声を上げる。視線の先にいるのは、中央へ立った俺だ。
「来い」
短剣を抜き、刃を打ち鳴らす。
甲高い音に反応したアイアンボアが頭を振った。次の瞬間、巨体からは想像できない勢いで地面を蹴る。
一歩ごとに土が跳ね、角が真っすぐ俺の腹へ迫ってくる。
まだだ。
早く動けば、相手も進む向きを変える。逃げようとする身体を押さえ込み、決めていた場所まで待つ。
「リリア!」
「はい!」
杖の先端に青い光が灯る。
「冷気よ、この地に宿りて――!」
細い光が俺の前方へ走り、乾いた土の表面が白く染まった。
アイアンボアの前脚が凍結した場所へ乗る寸前、俺は横へ跳ぶ。風を切る角が服の端を掠め、背後で重い蹄が氷を踏んだ。
前脚が僅かに外へ流れる。
だが、止まらない。
勢いを残した巨体は薄い氷を砕き、そのまま俺の横を駆け抜けた。身体こそ傾いたものの、転倒するほどには崩れていない。
右側で待っていたセレナが踏み込む。
「はあっ!」
専用剣が、傾いた首筋へ振り下ろされた。
しかし、狙っていた位置を通り過ぎたせいで踏み込みが僅かに届かない。刃は首ではなく肩口の剛毛を捉え、硬い音とともに弾かれた。
セレナは無理に追わず、剣を引いて距離を取る。
「硬っ……!」
「レナ、離れろ!」
アイアンボアが土煙を上げながら足を止めた。
最初の付与は効いていた。だが、あの速度と重量を止めるには足りない。僅かな乱れだけでは、セレナが深く踏み込む時間を作れなかった。
アイアンボアが振り返り、俺へ頭を向ける。
「レイ、また来る!」
分かっている。
今度は凍結を使う余裕がない。リリアが次の魔法を放つまで、俺が時間を稼ぐ必要がある。
「二人とも離れてろ!」
俺は短剣の腹を叩き、再び音を鳴らした。
挑発に乗ったアイアンボアが突進する。最初より距離が短い分、速度が上がりきるまでの時間も短かった。
正面から外れ、左へ駆ける。
角の先が通り過ぎるのを見てから、俺は反対へ身体を捻った。
避けた。
そう思った直後、アイアンボアが頭を強引に振った。
角ではない。厚い肩が、脇腹へまともにぶつかった。
「ぐっ――!」
息が肺から叩き出され、身体が地面から浮く。数歩先へ投げ出され、肩から土の上へ転がった。
一瞬、呼吸の仕方が分からなくなる。視界が白く霞み、脇腹から背中へ鈍い痛みが走った。
「レイ!」
セレナの叫びが聞こえる。
石壁の上で、俺たちに最も近い試験官が腰を浮かせた。介入の合図を出すように片手を上げかけ、中央にいる責任者らしき男の顔色を窺っている。
ここで中断されれば終わる。
俺は痛む脇腹を押さえ、無理やり膝を立てた。
「まだ動ける!」
声と同時に立ち上がる。責任者は俺の足元と呼吸を見つめたあと、まだ待てと片手で制した。それを見た試験官が腰を下ろす。
試験は続く。
しかし、アイアンボアは待ってくれない。
倒れた俺へ向きを変えようとしたところへ、セレナが横から斬りかかった。刃が頬の剛毛を削り、赤い傷を残す。
致命傷には遠い。それでも、注意を逸らすには十分だった。
「こっちよ!」
セレナを追って角が振られる。
俺はふらつく足を踏み締め、二人の間へ戻った。
「レナ、一人で引きつけるな!」
「被弾した人に言われたくない!」
言い返しながらも、セレナは正面で受けず、横へ走って突進を躱す。アイアンボアは勢いのまま壁際まで進み、蹄で土を掻きながら再びこちらへ向き直った。
一度、二度と続けて走らされても、その動きはほとんど鈍っていない。
正面から斬っても剛毛に弾かれる。喉元を狙うには体勢を大きく崩す必要がある。
どうする。
息を吸うたびに脇腹が痛む。次も同じように受ければ、今度こそ試験官が止めるだろう。
俺が考えている間に、アイアンボアの頭がリリアへ向いた。
青い光を放つ杖を脅威だと覚えたのかもしれない。
「リリア、下がれ!」
リリアが後ろへ動く。それを追うように、アイアンボアが大きな身体の向きを変えていく。
その時、リリアが足を止めた。
魔物ではなく、向きを変えるために何度も土を踏み直す前脚を見つめている。
「レイン様。向きを変える時の足元を、狙わせてください」
「何?」
「走っている間ではなく、向きを変えるために踏ん張る足です。そこでしたら、身体すべてを止めなくても崩せると思います」
正面から受け止める必要はない。片足が滑ればいいと、最初に教えたのは俺だ。だが俺は、いつの間にか突進そのものを止めることばかり考えていた。
「できるか?」
「やります」
言い切ったリリアの目に迷いはない。
「分かった。俺がこっちを向かせる。レナは無理に一撃で仕留めようとするな。確実に首へ刃を入れろ」
「了解」
アイアンボアがリリアへ向かって地面を蹴ろうとする。
俺はその横へ駆け込み、短剣で剛毛の薄い後脚を浅く斬った。刃先から返ってきた感触は硬かったが、傷を負わせることが目的ではない。
怒りに満ちた唸り声が上がり、アイアンボアの頭が俺へ向く。
「こっちだ!」
もう一度、巨体が迫る。
痛む脇腹のせいで、最初より足が動かない。正面に立ち続ければ、今度は角で腹を貫かれる。
俺は早めに横へ走った。
アイアンボアが進路を修正し、俺を追って身体を回す。勢いを殺しきれず、一度外側へ膨らんでから、前脚を軸に巨体をこちらへ向けようとする。
「今です!」
リリアの杖から、先ほどより細く絞られた光が放たれた。
狙ったのは広い地面ではない。アイアンボアが踏ん張った前脚、その蹄の下だけだ。
白い霜が浮かび、蹄が外側へ滑った。
支えを失った巨体が傾き、肩から地面へ落ちる。額の角が土を深く抉り、首元が大きく晒された。
セレナはすでに走り出していた。
剣を両手で握り、倒れかけた巨体の側面へ踏み込む。切っ先が剛毛の途切れた喉元を捉えた。
「はあっ!」
全身の力を乗せた突きが入る。
だが、浅い。
刃は喉元の皮を裂いたものの、その奥で止まった。アイアンボアが苦しげに吠え、倒れたまま頭を振る。額の角がセレナの脚を薙ごうと迫った。
「レナ、下がれ!」
今の傷だけでは倒せない。剣を抜いて退けば、また立ち上がる。
セレナが踏み止まった。
「まだ――!」
その背後で、青かった杖の光が赤へ変わった。
「レナさん、剣を!」
リリアが地面から杖を上げ、セレナの剣へ向ける。
氷の付与を終えた直後だ。休む間もなく違う属性へ切り替えれば、それだけ制御も難しくなる。杖を握る指は震え、リリアの顔から血の気が引いていた。
それでも、視線だけは剣から逸らさない。
「炎よ、その刃に宿りて、力を与えよ――【ファイアエンチャント】!」
杖から伸びた赤い光が、セレナの剣へ流れ込む。
喉元へ食い込んだ刃を、淡い炎が包んだ。
「これで――!」
セレナが柄を握り直し、滑りかけた足を踏み締める。首を振る力に押し返されながら、腰を落として剣をさらに押し込んだ。
炎が剛毛と厚い皮を焼き、止まっていた刃が奥へ進む。
「終わりよ!」
セレナが最後に身体を捻り、剣を振り抜いた。
アイアンボアの巨体が大きく跳ねる。
額の角がセレナの足元を掠めたが、もう追う力は残っていなかった。立ち上がろうとした前脚が一度だけ土を掻き、そのまま巨体が地面へ沈んでいく。
しばらく荒い息を吐いていた口元も、やがて動かなくなった。
「そこまで!」
石壁の上から試験官の声が響いた。
魔物の状態を確かめていた試験官が、やがて片手を上げる。
「討伐を確認。Eランクファミリア《アステル》、実技試験終了」
終わった。
そう理解した途端、張り詰めていたものが切れた。脇腹の痛みが一気に戻り、俺はその場へ片膝をつく。
「レイ!」
セレナが剣を引き抜いて駆け寄ってくる。
「平気だ。折れてはいないと思う」
「思うじゃなくて、ちゃんと見てもらうの」
「レイン様……!」
リリアもこちらへ来ようとしたが、最初の一歩で身体が揺れた。杖を地面へつき、どうにか倒れるのを堪える。
「リリアこそ無茶しただろ」
「申し訳ありません。ですが、あのままではレナさんの剣が――」
「謝るところじゃないわよ」
セレナが俺の肩を支えながら、リリアへ顔を向ける。
「リリアの付与がなかったら、私は剣を抜いて逃げるしかなかった。あそこで終わらせられたのは、リリアのおかげよ」
リリアは倒れたアイアンボアを見たあと、俺へ視線を戻した。
「あの……私の魔法は、間に合ったでしょうか」
「間に合った。地面の付与も、剣の付与もだ」
一度目の凍結も無駄ではない。あれがなければ、最初の突進で角を受けていたかもしれない。
だが、最後の二つは俺が決めた使い方ではなかった。
「向きを変える足を狙ったのも、そのあとレナの剣へ炎を付与したのも、リリアが自分で考えたことだ。ちゃんと俺たちを助けてくれた」
リリアは胸元に下がる《アステル》のプレートへ指を添えた。
その表情には、以前のような怯えも、借り物を持つような戸惑いもない。疲れ切った顔に、確かな笑みが浮かぶ。
「……はい」
石壁の上では、試験官たちがそれぞれの板へ何かを書き込んでいた。合格とも不合格とも告げられないまま、救護係がこちらへ駆け寄り、出口の扉が開かれる。
結果がどうなるかは、まだ分からない。
それでも、三人で積み重ねてきたものは、この試験場に確かに残せた。
俺たちは倒したアイアンボアを背に、互いの身体を支えながら訓練場をあとにした。




