第59話:レイン塾
翌朝。
まだ朝靄の残る工房に、乾いた金属音が響いた。
カンッ。
俺は土間へ打ち込んだ鉄の楔から手を離し、壁に掛けられた時計を確認した。いつもと変わらない朝だが、ここから約十時間が、今日の俺に与えられた限界になる。
作業台には、昨夜数えた金貨五枚の入った革袋が置かれている。
「それじゃ、行ってくるね」
工房の入り口では、セレナが剣を腰へ下げていた。その隣には杖を持ったリリアが立ち、足元ではコハクが尻尾を振っている。
「今日は工房の裏じゃなくて、川沿いの空き地で試すんだったな」
「うん。土より石の多い場所の方が、氷を残しやすいんじゃないかと思って」
「滑って転ぶなよ」
「昨日も聞いたわよ」
「昨日はまだ試してないだろ」
「今日の話をした時に聞いたって意味!」
言い返すセレナの横で、リリアが真面目な顔で頷いた。
「無理はいたしません。レナさんがご自分で氷の上へ乗ろうとされた場合は、私が止めます」
「リリアまで信用してないの?」
「日頃の行いだな」
「もう!」
セレナが頬を膨らませる。
俺は苦笑しながら、二人へ念を押した。
「今日は一日、工房で授業の準備をする。何かあっても、二人だけで無茶はするなよ」
「分かってるって」
「はい。レイン様も、あまり根を詰めすぎないでください」
「本を読んで内容をまとめるだけだ。心配しなくていい」
正確には、それだけではない。
だが、リリアに心配をかける必要はなかった。
二人が工房を出ていく。そのあとを追いかけようとしたコハクが、扉の前で一度だけ足を止めた。
赤い瞳が、俺と土間に打たれた楔へ順番に向けられる。
「どうした?」
「ワンッ」
コハクは短く鳴くと、今度こそ二人を追って走っていった。
外から聞こえる足音が遠ざかるのを待ち、俺は工房の扉を閉めた。作業台に置いていた金貨五枚を革袋ごと懐へ入れる。
時間を無駄にはできない。
俺も工房を飛び出し、街の中心にある書物屋へ向かって走り出した。
◇
開店したばかりの書物屋には、まだほとんど客がいなかった。
静かな店内を足早に進み、王立学校の入学試験に関する本が並ぶ棚へ向かう。目的の本は、以前と同じ場所に置かれていた。
分厚い革張りの表紙には、金色の文字で『王立学校入学試験・総合対策』と記されている。
基礎教養、この国と天空の塔の歴史、ランク制度とファミリア制度、魔法理論。さらに過去の出題傾向や、実技試験で評価される項目までまとめられた一冊だ。
そして、その下に置かれた値札には金貨五枚と書かれている。
三週間かけてようやく用意した金と、まったく同じ額だった。
俺は本を抱えて会計へ向かった。
「こちらを購入されるので?」
店主が、本と俺の胸元にあるEランクのファミリアプレートを交互に見た。
「ああ」
「王立学校を受験されるのですね」
「そのつもりだ」
「毎年よく売れる本ですが、かなり高価です。金貨五枚ですが間違いありませんね?」
「間違いない」
革袋から金貨を取り出し、一枚ずつカウンターへ置く。
最後の一枚が手を離れた時、分かっていたはずなのに胸の奥が僅かに痛んだ。依頼で魔物と戦い、炉の前で汗を流し、三人で少しずつ貯めた金だ。
時間を戻せば手元へ戻る。
そう分かっていても、簡単に手放せる重さではなかった。
店主が金貨を数え終え、対策本を俺へ差し出した。受け取った腕に、見た目以上の重みがかかる。
「……重いな」
「それだけ多くの知識が詰まっておりますので」
店主の言葉に、俺は小さく笑った。
「だったら、金貨五枚分は覚えないとな」
「はい?」
「いや、何でもない」
本を抱え直し、俺は再び工房へ向かって走った。
◇
工房へ戻ると、すぐに対策本を作業台へ広げた。
壁の時計を確認する。書物屋までの往復と購入に時間は使ったが、それでも十分な余裕が残っている。ここからは楔を抜く時間まで、誰にも邪魔されず本を読むことができる。
最初から最後まで、一字一句を覚えるつもりはなかった。そんなことは、どれだけ時間を繰り返しても俺には無理だ。
今日の目的は、この本の全体を把握すること。
試験では何を問われるのか。何から学ぶべきなのか。そして、セレナとリリアへどの順番で教えればいいのか。
まず目次を開き、羊皮紙へ項目を書き出していく。
基礎計算、文章の読み取り、王国の成立、天空の塔の歴史、ランク制度、ファミリア制度、魔力と属性の基礎、代表的な術式。そして、実技試験における役割別の評価。
知らない言葉に印をつけ、重要そうな頁を順番に開く。
読んでは書き、書いては前の頁へ戻る。何度も同じ文章を読み返しながら、内容を自分が理解できる言葉へ置き換えていった。
今ここで書いた羊皮紙は、時間を戻せばすべて消える。それでも、目で追うだけより、手を動かして整理した方が頭に残る。
歴史は出来事の順番に並べる。
魔法理論は、リリアが実際に使っている付与魔法と結びつける。
戦闘に関する項目は、これまで経験した戦いや罠へ当てはめる。
セレナに説明する時は、剣の間合いや踏み込みに置き換えた方が理解しやすいはずだ。
そうして読み進めるうちに、窓から差し込む光の角度が変わっていた。
用意していた水を飲み、硬いパンを齧りながら、再び本へ目を落とす。
覚えなければならないことは、想像していたより遥かに多かった。理解したと思った内容も、別の頁へ進むうちに少しずつ抜け落ちていく。
試験当日に問題を見てから、この量を調べる。
そのうえでセレナとリリアへ教える。
改めて考えるまでもなく、十時間では到底足りない。
だが、試験までにはまだ時間がある。
今日すべてを覚える必要はない。何度かに分け、授業の前日に必要な範囲だけを読み込めばいい。
時計へ目を向ける。
残された時間は、すでに僅かになっていた。
俺は最後にもう一度目次を確認し、今日覚えると決めた項目を頭の中で繰り返した。
どこから教え始めるのか。
次にどの頁を読むのか。
セレナとリリアに、それぞれ何が足りていないのか。
すべては持ち帰れない。それでも、勉強を始めるために必要なものは掴んだ。
本を閉じると、作業台の上には何枚もの羊皮紙が散らばっていた。書き込んだ内容も、金貨五枚で買った本も、これからすべて朝へ戻る。
残るのは、俺の記憶だけだ。
俺は土間へ移動し、打ち込まれた楔を確認した。
表面には細かなひびが入り始めている。まだ限界までは僅かに余裕があるが、欲張って戻れなくなれば、今日の計画がすべて無駄になる。
柄を両手で掴む。
今日一日を消すわけではない。
ここで得た知識を、二人と一緒に進むための時間へ変える。
力を込め、楔を引き抜いた。
視界が白い光に包まれた。
◇
カンッ。
乾いた金属音が、朝の工房へ響いた。
気がつけば、俺はハンマーを握ったまま土間に立っている。
窓の外には朝靄が残り、壁に掛けられた時計も、楔を打った直後の時刻を示していた。
作業台には、金貨五枚の入った革袋が置かれている。
対策本も、書き込んだ羊皮紙もない。
すべてが朝へ戻っていた。
それでも、頭の中には読んだ内容が残っている。
俺はすぐに作業台へ向かい、新しい羊皮紙を広げた。記憶が薄れる前に、先ほどまで読んでいた内容を自分の言葉で書き戻していく。
その途中で、工房の入り口から足音が聞こえた。
振り返ると、出発前のセレナとリリアが立っている。
「それじゃ、行ってくるね」
同じ言葉だった。
二人にとっては、これが最初の朝なのだ。
「今日は一日、工房で授業の準備をする。何かあっても、二人だけで無茶はするなよ」
俺も先ほどと同じように答える。
「分かってるって」
「レイン様も、あまり根を詰めすぎないでください」
同じ心配をするリリアに頷き返す。
「ああ。大丈夫だ」
一度目とは違い、今度は本当に一日中この工房で過ごす。覚えてきた内容を整理し、二人へ教えるための資料を作らなければならない。
二人が出ていこうとする中、コハクが不意に足を止めた。
赤い瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。
やがて俺の足元へ近づき、鼻先を膝へ押し当てた。
「今日は妙に甘えるな」
頭を撫でると、コハクは小さく喉を鳴らした。
セレナに呼ばれてからも、何度か俺を振り返りながら工房を出ていく。
その様子に首を傾げたものの、すぐに羊皮紙へ向き直った。
今度こそ、ここへ書いたものは消えない。
◇
翌日。
作業台を挟み、俺たち三人は椅子へ座っていた。
「それじゃ、始めるぞ」
「はい」
リリアが背筋を伸ばす。
対するセレナは、早くも机へ頬杖をついていた。
「何からやるの?」
「まずは基礎教養だな」
「魔法とか実技からじゃ駄目?」
「駄目」
「歴史は?」
「当然やる」
「やっぱり実技だけで――」
「駄目だって言ってるだろ」
セレナが机へ突っ伏した。
「始まる前から帰りたい……」
「ここ、お前がいつも飯を食ってる場所だぞ」
「レナさん。一緒に頑張りましょう」
リリアが声をかけると、セレナは伏せていた顔を僅かに上げた。
「リリアは嫌じゃないの?」
「不安はあります。ですが、レイン様が教えてくださるのでしたら、きちんと覚えたいです」
「この差だぞ、レナ」
「先生が始まる前から生徒を比べないでよ」
「誰が先生だ」
「レイでしょ?」
セレナが少し考えたあと、楽しそうに口元を緩めた。
「レイン先生?」
「やめろ。気持ち悪い」
「じゃあ、レイン塾ね」
「もっとやめろ」
「よいお名前だと思います」
「リリアまで乗らなくていいから」
二人が笑う。
こうして、俺たちの試験勉強が始まった。
◇
それから、レイン塾は数日おきに開かれた。
その名前には最後まで納得できなかったが、セレナが面白がって使い続け、いつの間にかリリアまでそう呼ぶようになっていた。
授業を行う前日になると、俺は工房へ楔を打ち、金貨五枚を持って書物屋へ走った。対策本を買い、次に教える範囲を読み込み、時間を戻してから内容を羊皮紙へ書き出す。
翌日、それを二人へ教える。
レイン塾を一度開くたび、俺だけが二人より十時間近く長く過ごすことになる。毎日続ければ頭の方が先に壊れるため、授業の間には必ず数日を空けた。
その間は依頼を受け、鍛冶仕事を行い、三人で実技訓練を続ける。
夏の強い陽射しは、少しずつ和らいでいった。
やがて街路樹の葉が色づき、朝晩の風に冷たさが混じるようになった頃、リリアは目印がなくても狙った地面へ付与できるようになっていた。
セレナも、リリアが崩した一瞬を逃さず敵を仕留める技術を磨いた。俺は二人の動きを見ながら、より少ない道具で敵の進路を限定する方法を考え続けた。
夜になれば三人で机を囲む。
セレナは相変わらず歴史を嫌がったが、過去の戦いやファミリアの成り立ちと結びつけて説明すると、思っていたより早く覚えた。
リリアは最初こそ知らないことが多かったものの、教えた内容を丁寧に書き留め、次の授業までに必ず読み返した。
秋が深まる頃には、二人とも簡単な模擬問題なら答えられるようになっていた。
冬の半ば。
俺たちは必要な書類を揃え、三人分の願書を期限内に提出した。
それからも、実技訓練とレイン塾を続けた。
そして、さらに季節は進んだ。
◇
吐いた息が、白く染まる。
工房の外には薄く雪が積もり、踏み締めるたびに小さな音を立てていた。
俺は荷物を背負い、腰の短剣とファミリアプレートを確認する。
セレナは新しい剣を腰へ下げ、リリアも俺が作った杖を両手で大切そうに持っていた。
「忘れ物はないね?」
ばぁちゃんが、入り口で俺たち三人を見回す。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「たぶん」
「レイが一番怪しいじゃない」
セレナに言われ、俺は念のため荷物をもう一度確認した。
着替え、食料、試験に必要な書類。
王都までは片道三時間以上はかかる。試験当日の朝に出て遅れるわけにはいかないため、今日は王都の安宿へ泊まり、明日の試験に備える予定だ。
「ばぁちゃん。戸締まりは――」
「何度目だい。子供じゃないんだから、一人でもできるよ」
「でも、雪も降ってるし」
「三時間先から心配しても仕方ないだろ」
ばぁちゃんが呆れたように笑う。
「三人とも、行っておいで」
その言葉に、俺たちは揃って頷いた。
工房を出ると、冬の冷たい空気が頬へ触れた。振り返れば、ばぁちゃんが入り口に立ったまま、いつものように手を振っている。
その足元では、コハクが早く行こうと俺たちを見上げていた。
夏から積み重ねてきた実技。
俺だけが繰り返した、いくつもの十時間。
三人で囲んだ机。
そのすべてを持って、明日、王立学校の入学試験を受ける。
「行こう」
俺が声をかけると、セレナとリリアが隣へ並んだ。
俺たちは雪の残る道を、王都へ向かって進み始めた。




