第58話:積み重ねた夏
目を開けると、すぐ目の前に銀色の髪があった。
「……ん?」
寝起きの頭では、何が起きているのか理解できない。
柔らかな髪が鼻先に触れている。
腕の中には温かな身体があり、俺の服を掴んだ細い指が胸元に残っていた。
昨夜のことを思い出した瞬間、一気に目が覚める。
リリアが俺の胸元へ頬を寄せ、穏やかな寝息を立てていた。
狭いベッドの中で、俺たちは昨夜とほとんど同じ姿勢のまま朝を迎えていた。
どうする。
起こさないように腕を抜こうとしたが、僅かに身体を動かしただけで、リリアの瞼がゆっくりと開いた。
蒼い瞳と目が合う。
「おはようございます、レイン様」
「……おはよう」
リリアは何度か瞬きをしたあと、自分が俺へ抱きついたままだと気づいたらしい。
俺の胸元を掴んでいた指が僅かに動く。
「すみません。私、眠ってしまったのですね」
「眠るためにベッドへ入ったんだから、それはいいだろ」
「ですが、朝まで……」
リリアが身体を離そうとする。
その途中で昨夜のことを思い出したのか、動きが止まった。
頬が僅かに赤くなる。
「昨夜は、ありがとうございました」
「いや……うん」
「おかげで、とてもよく眠れました」
「それならよかった」
俺の方は、ほとんど眠れなかった。
だが、それを正直に言うわけにもいかない。
先にベッドを出て、床へ落ちていた毛布を拾う。
背後からリリアの視線を感じるが、振り返ることができなかった。
◇
「レイン。随分眠そうだね」
朝食の席へ着くなり、ばぁちゃんに言われた。
「暑くて眠れなかったんだよ」
「そうかい?」
ばぁちゃんが俺の顔をじっと見る。
その向かいでは、リリアがいつも通り朝食の支度を手伝っている。
「リリアは、よく眠れたみたいだねえ」
「はい。昨夜は、とてもよく眠れました」
「そりゃあよかった」
ばぁちゃんの目が俺へ戻ってくる。
何も聞かれていないのに、背中へ嫌な汗が浮かんだ。
「何だよ」
「別に、何も言ってないよ」
ばぁちゃんは楽しそうに笑い、温かいスープへ口をつけた。
リリアも僅かに頬を赤くしている。
このままでは余計なことまで見抜かれそうだ。
「今日も訓練するんだろ。早く食べよう」
「あんたが一番食べるの遅いじゃないか」
「今から急ぐんだよ」
パンを無理やり口へ詰め込む。
隣でリリアが小さく笑った。
昨夜まで彼女の瞳にあった不安は、完全に消えたわけではないのだろう。
それでも今朝は、胸元のプレートへ触れる指に力が入っていなかった。
それだけで十分だった。
焦る必要はない。
できることを一つずつ増やしていけばいい。
俺たちは今日も、工房の裏手へ向かった。
◇
それから、三週間が過ぎた。
街は本格的な夏を迎えていた。
朝から石畳へ強い陽射しが降り注ぎ、昼になる頃には、外を歩くだけで額に汗が滲む。
工房の炉へ火を入れれば、窓をすべて開けても熱気が籠もった。
その暑さの中で、俺たちは毎日を繰り返した。
朝は訓練。
昼からは依頼か鍛冶仕事。
工房へ戻ったあとは、武器の手入れと、その日の反省。
リリアは付与魔法の実用書を読みながら、毎日地面へ氷を定着させた。
最初は鉄の輪がなければ範囲を決められなかった。
次は、輪の代わりに地面へ描いた円を使った。
その次は、小石を四つ置いて境界を作った。
やがて、目印を減らしても同じ場所へ魔力を留められるようになった。
付与できる範囲は、まだ人間の片足が乗る程度。
維持できる時間も長くはない。
それでも数秒で消えていた霜は、少しずつ形を保つようになった。
セレナの左腕の傷も、ようやく塞がった。
傷が治った翌日から剣を振ろうとして俺とリリアに止められ、さらに二日休ませた。
本人は最後まで不満そうだったが、訓練へ戻った時には痛みも動きの鈍りもなくなっていた。
そして今日。
俺たちは三人で、街道から外れた林の中にいる。
「いた」
前を歩いていたセレナが、声を落とした。
木々の向こうに、粗末な剣を持ったゴブリンが見える。
確認できるのは五体。
今回受けたのは、街道を通る商人を襲っているゴブリンの討伐依頼だ。
以前にも倒したことのある相手だが、数が多ければ油断はできない。
「依頼書には六体って書いてなかった?」
セレナが振り返る。
「ああ。もう一体いるはずだ」
周囲を見回す。
木々の間に動く影は見えない。
「別の場所でしょうか」
リリアが小声で尋ねる。
「分からない。見つからないまま仕掛けるのは危ないな」
正面の五体だけを見て動けば、残りの一体に横から襲われる可能性がある。
特に後方にいるリリアを狙われれば、対応が遅れる。
その時、足元にいたコハクが低く唸った。
「どうした?」
白い耳が、俺たちの右側へ向いている。
視線を追う。
少し離れた茂み。
風で揺れているように見えた葉の隙間から、僅かに茶色い腕が見えた。
「……いた」
六体目だ。
正面の仲間とは距離を取り、こちらへ回り込もうとしている。
「よく気づいたな、コハク」
頭を撫でると、コハクは短く尻尾を振った。
「右の一体は俺が止める。レナは正面から来る奴を頼む」
「分かった」
「リリアは予定通りだ。あの二本の木の間へ付与できるか?」
俺は少し先にある、根元が大きく張り出した二本の木を指差した。
敵がこちらへ向かうなら、必ずどちらかの間を通る。
地面には落ち葉が積もっているが、その下は硬く踏み固められていた。
「はい」
リリアが杖を握る。
以前なら、できるかどうかを尋ねた時、一瞬迷ってから答えていた。
だが今は、指示した場所を真っ直ぐ見つめている。
「できます」
「よし。俺が合図するまで待ってくれ」
俺は木の幹へ結んでおいた細い縄を確認した。
訓練中に何度も試した簡単な罠だ。
縄を引けば、地面へ伏せてある枝が跳ね上がり、敵の進む方向を片側へ限定する。
転ばせるほどの力はない。
だが、罠を避けようとした敵は、自然とリリアが狙う二本の木の間へ寄る。
正面のゴブリンがこちらへ顔を向けた。
一体が声を上げる。
隠れていた六体目も茂みから飛び出した。
「来るよ!」
セレナが剣を抜く。
正面から五体。
右から一体。
俺は腰の短剣を抜き、右から来るゴブリンの前へ出た。
「リリア、まだだ!」
正面のゴブリンたちが走ってくる。
先頭の一体が、罠の手前まで来た。
縄を引く。
伏せていた枝が勢いよく跳ね上がり、二体のゴブリンが足を止めた。
後ろから来た仲間とぶつかり、集団が片側へ寄る。
「今だ!」
「はい、レイン様!」
杖の先端に青い光が灯る。
「冷気よ、その足元へ――!」
光が二本の木の間へ走った。
落ち葉の下にある地面へ、薄い霜が一気に広がる。
先頭のゴブリンが、その上へ踏み込んだ。
完全には転ばない。
だが、右足が僅かに外へ滑った。
振り上げていた剣が大きく逸れる。
体勢を崩した先頭へ後ろの一体がぶつかり、二体の動きが止まった。
「十分よ!」
セレナが踏み込む。
新しい剣の刃が陽光を反射した。
一体目の剣を弾き、そのまま身体を返して二体目を斬る。
動きが止まった二体は、まともに反応することもできなかった。
残る三体がセレナへ殺到する。
だが、すでに数の差は縮まっていた。
「レナ、左!」
「分かってる!」
セレナが一体の攻撃を避ける。
その間に、俺も右から回り込んできたゴブリンの剣を短剣で受け流した。
力では敵わない。
だが、どこから来るかは分かっている。
木の根を挟むように位置を変え、ゴブリンの踏み込みを狭める。
「コハク!」
「ワンッ!」
コハクが足元へ飛び込み、ゴブリンが驚いて動きを止める。
その一瞬で十分だった。
短剣を持つ手を蹴り上げ、武器を落とす。
直後、正面の三体を倒したセレナが駆けつけた。
「伏せて!」
言われる前に身体を沈める。
頭上をセレナの剣が通り過ぎ、ゴブリンの胸元を斬り裂いた。
周囲が静かになる。
荒い息を整えながら、倒れた六体を確認する。
動くものはいない。
「終わった?」
「ああ。六体全部だ」
俺が答えると、セレナが剣についた血を払い落とした。
「やっぱり、身体を動かせるっていいわね」
「治ったばかりなんだから、無茶するなよ」
「大丈夫だって。もう痛くないから」
セレナが左腕を回してみせる。
少し離れた場所では、リリアが霜の消えた地面を見つめていた。
「リリア?」
声をかけると、リリアは顔を上げた。
「今の付与は、少し遅れました」
「遅れた?」
「はい。レイン様の合図をいただいてから、魔力が地面へ定着するまでに時間がかかりました。ゴブリンがもう少し速ければ、通り過ぎていたと思います」
戦いが終わるなり、自分の失敗を責めるのではなく、次の課題を見つけている。
「でも、二体の動きを止められた」
「完全に止めたわけではありません」
「私には十分だったよ」
セレナが剣を鞘へ納める。
「リリアのおかげで、最初の二体を一気に倒せた。あれがなかったら、五体を同時に相手にしてたんだから」
リリアは二人の顔を交互に見た。
以前なら、ここで自分には大したことはできていないと言っただろう。
だが今日は、胸元のプレートへ触れたあと、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げた時、その口元には僅かな笑みがあった。
「お役に立てて……嬉しいです」
「それでいい」
俺が答えると、リリアはしっかりと頷いた。
「次は、合図から二呼吸以内に発動させます」
まだ完成ではない。
目印のない場所へ咄嗟に付与することもできない。
範囲も、持続時間も足りない。
それでも、三週間前に作業台の上の石へ残った細い霜は、今日初めて実戦で敵の動きを乱した。
俺が進路を作り、リリアが足元を崩し、セレナが仕留める。
三人で考えた戦い方が、ようやく形になった。
◇
ギルドで討伐の確認を終え、報酬を受け取る。
そこから生活費と装備の手入れに必要な分を除き、残りを工房へ持ち帰った。
夕食後。
作業台の上に置いた小さな革袋へ、今日受け取った硬貨を加える。
金属同士が触れ合う、重い音がした。
三週間。
依頼を受け、鍛冶仕事を続け、必要のない出費を抑えてきた。
セレナとリリアがそれぞれ受け取った報酬からも、《アステル》のために使う分として少しずつ出してくれている。
硬貨を一枚ずつ並べ、間違いがないように数える。
「どう?」
セレナが作業台へ身を乗り出す。
「足りた」
最後の一枚を置く。
金貨五枚。
書物屋で見た、王立学校の試験対策本と同じ金額だ。
「これで、勉強を始められるの?」
「ああ」
答えると、セレナが嬉しそうな、嫌そうな、何とも言えない顔をした。
「どっちなんだよ、その顔」
「三人で学校へ行くためだから嬉しいけど、勉強が始まるのは嫌」
「始める前から言うな」
隣でリリアが金貨を見つめている。
「明日から、でしょうか」
「その前に、一日だけ欲しい」
「一日ですか?」
「ああ。二人に教える内容をまとめてくる」
リリアがすぐに顔を上げた。
「私も、お手伝いします」
予想していた言葉だった。
「今回は一人で行く」
「ですが……」
「教える側の準備だからな。リリアには、今日の戦いで見つけた課題を整理しておいてほしい」
リリアは少し迷ったものの、やがて頷いた。
「分かりました」
「私も行かなくていいの?」
「レナは明日、リリアの訓練に付き合ってくれ」
「任せて。動く相手がいた方が練習になるものね」
「いきなり氷の上へ乗るなよ」
「分かってるって」
本当に分かっているのか不安だ。
俺は金貨を革袋へ戻し、口を固く縛った。
三週間かけて、ようやく揃えた金貨五枚。
だが、これを本当に使うつもりはない。
必要なのは、本そのものではない。
あの本に書かれている知識だ。
二人が部屋を出たあと、俺は革袋の隣へ一本の鉄の楔を置いた。
金貨五枚。
鉄の楔。
これで、準備は整った。
明日。
あの分厚い試験対策本に書かれた知識を、十時間の向こう側から持ち帰る。




