第57話:ここにいてもいいですか
その夜。
工房の火を落とし、ばぁちゃんが眠ったあと、俺は自分の部屋の床へ毛布を敷いた。
リリアが来てから、すっかり慣れた寝床だ。
狭い部屋にはベッドが一つしかない。
最初の頃、リリアは何度言っても床で眠ろうとした。俺がベッドを使うように言っても、夜中にこっそり抜け出し、部屋の隅で小さく丸まっていた。
それが今では、少なくとも俺が床で眠ることを受け入れてくれている。
本当に納得しているのかは、分からないが。
「それじゃ、おやすみ」
床へ身体を横たえ、薄い毛布を腹まで引き上げる。
「はい。おやすみなさいませ、レイン様」
ランプの火を消すと、部屋が暗闇に包まれた。
開けた窓から、生温かい夜風が入ってくる。
昼間よりは涼しいものの、初夏の頃とは違い、床板にも僅かな熱が残っていた。
遠くから虫の声が聞こえる。
目を閉じる。
今日は朝からリリアの付与訓練を行い、そのあと王立学校へ向けた予定を考え直した。
明日からは、魔力をもう少し長く地面へ残す方法を試す。
セレナの傷が治れば、実際に動く相手を想定した訓練も始めたい。
依頼も受けなければならない。
鍛冶の仕事を続けながら、金貨五枚を貯める必要もある。
考えることはいくらでもあった。
だが、今はいくら考えても仕方がない。
そう思って意識を手放そうとした時だった。
「レイン様」
暗闇の中から、小さな声が聞こえた。
「ん?」
「起きておられますか?」
「まだ起きてるよ」
身体を起こし、ベッドを見る。
暗くて表情までは分からない。
ただ、リリアが毛布の中でこちらを向いていることだけは、窓から差し込む月明かりで辛うじて見えた。
「どうした? 暑くて眠れないのか?」
「いえ……」
そこで声が途切れる。
待っていても、続きはなかなか聞こえてこなかった。
「何か気になることがあるなら、言ってくれ」
「……本当に、何でもありません」
「何でもない奴は、そんな声で呼ばないだろ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいって」
俺は毛布の上で胡坐をかいた。
「眠れないなら、少し話すか?」
しばらく間があった。
やがて、毛布が小さく動く。
「はい」
リリアが上半身を起こした。
月明かりを受けた銀色の髪が、暗い部屋の中で淡く浮かんでいる。
両手は胸元に置かれ、昼間から何度も触れていたファミリアプレートを握っていた。
「それが気になるのか?」
「……はい」
「Eランクになったこと?」
リリアが小さく頷く。
「昼間の話で、不安になったのか?」
「レイン様は、私にもできることから始めればよいと仰ってくださいました」
「なら、焦らなくていい」
「分かっております」
すぐに返事があった。
けれど、プレートを握る指からは力が抜けない。
「分かってはいるのですが……考えてしまうのです」
「何を?」
「王立学校のことです」
リリアは俯いた。
「私は、お二人と一緒に行きたいです」
「うん」
「ですが、座学も実技も、私はお二人より遅れております。読み書きはできますが、歴史も、魔法理論も、ほとんど知りません。実技も、今日ようやく石の一部へ霜を残せただけです」
「それはこれから――」
「もし、間に合わなかったら」
静かな声が俺の言葉を遮った。
「私だけ試験に落ちたら、どうなるのでしょうか」
答えようとして、口を閉じる。
考えていなかった。
三人で受ける。
三人で合格する。
最初から、それ以外の未来を想像していなかった。
だが、試験である以上、誰か一人だけが不合格になる可能性はある。
「その時は、また考えればいい」
「お二人は先に学校へ行かれますか?」
「それも三人で相談する」
「では、私が何度受けても合格できなければ?」
「リリア」
「私は《アステル》のEランクに相応しい魔法使いになりたいです。レイン様のお役に立ちたいです。レナさんと一緒に戦えるようにもなりたいです」
リリアの声が、僅かに震えた。
「ですが、どれだけ努力しても追いつけなかったら……」
胸元のプレートが、小さく鳴る。
「その時、私はどうなってしまうのでしょうか」
ようやく、リリアが何を恐れているのか分かった。
学校へ行けないことだけではない。
俺たちに追いつけないこと。
役に立てなくなること。
そして、その先にあるものを恐れている。
「捨てられると思ってるのか?」
リリアの肩が揺れた。
否定は返ってこなかった。
「誰も、そんなことしない」
「分かっております」
また同じ言葉だった。
「レイン様も、レナさんも、そのような方ではありません。分かっているのです。それでも……」
リリアが毛布の上で両手を握り締める。
「以前も、最初は優しくしていただきました」
暗闇の中に落ちた声は、ひどく頼りなかった。
「食事を与えられ、魔法を褒められました。珍しい力だから、大切にすると言われたこともあります」
初めて聞く話だった。
「ですが、期待されたほど役に立てないと分かると、少しずつ扱いが変わりました」
リリアが自分の腕を抱く。
そこにはもう、以前の傷や痣はほとんど残っていない。
けれど、身体から消えたものが、心からも消えたわけではない。
「魔力が足りなくなって動けなかった時、食事を減らされました。命令された付与ができなかった時は、何度も……」
言葉が止まる。
その先を無理に聞く必要はなかった。
「いらないと言われて、売られました」
握られた指が震えている。
「ですから、考えてしまうのです。今は優しくしていただけても、私が何もできなければ、いつか同じように……」
「同じにはならない」
俺ははっきりと言った。
それでもリリアは顔を上げない。
言葉だけなら、以前の主人たちも同じようなことを言ったのだろう。
大切にする。
捨てない。
役に立てば、ずっとそばに置いてやる。
そんな言葉を信じた先で裏切られたから、今も恐れている。
俺は床から立ち上がった。
リリアの肩が僅かに強張る。
「レイン様……?」
ベッドの横まで歩き、その場へしゃがむ。
「顔、見せてくれ」
リリアがゆっくりと顔を上げた。
月明かりに照らされた蒼い瞳が、薄く濡れている。
「リリアが試験に落ちても、《アステル》から外すことはない」
「ですが――」
「魔法が上手くならなくても同じだ」
「私が、何のお役にも立てなくてもですか?」
「ああ」
「どうして……」
本当に分からないという顔だった。
「リリアだからだよ」
「私、だから……?」
「役に立つ魔法使いを買ったつもりはない。あの時、助けたいと思ったリリアと一緒に暮らしてるんだ」
「ですが、金貨六十枚も……」
「金の話は関係ない」
「私には、お返しできるものがありません」
「返してもらうために払ったんじゃないって、何度言えば分かるんだ」
少し強い言い方になってしまった。
リリアが目を伏せる。
「ごめん。怒ってるわけじゃない」
「はい」
「ただ、これだけは覚えておいてくれ。学校へ行けても、行けなくても、リリアは《アステル》の仲間だ」
俺は彼女の胸元にあるプレートへ触れた。
「これは、試験に合格できる奴だけが持つものじゃない。三人で一緒に進むための証だろ」
「三人で……」
「追いつけないなら待つ。できないことがあるなら、できる方法を一緒に考える。それでも駄目なら、別の道を探せばいい」
リリアの瞳から、涙が一粒こぼれた。
「だから、勝手に捨てられる想像をするな」
「……はい」
返事は聞こえた。
けれど、震えはまだ止まっていない。
少し迷ってから、リリアが俺を見た。
「あの……レイン様」
「ん?」
「一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
「できることなら」
「抱きしめても……よろしいでしょうか」
一瞬、言葉の意味が頭へ入ってこなかった。
「俺を?」
「はい」
リリアは不安そうに俺の返事を待っている。
断れるはずがない。
「……いいよ」
俺が答えると、リリアはベッドの端へ身体を寄せた。
隣にできた僅かな隙間を見る。
「ここに入るのか?」
「駄目でしょうか」
「駄目じゃないけど……」
家には、ばぁちゃんもいる。
とはいえ、床で抱き合っているところを見つかるよりは、毛布の中の方がまだ説明しやすい。
何を説明するのかは分からないが。
俺は覚悟を決め、ベッドへ入った。
一人で使っても狭い寝床だ。
二人で横になると、肩と肩がすぐに触れる。
リリアが遠慮がちに腕を伸ばし、俺の胸元へ頬を寄せた。
「失礼いたします」
「どうぞ……」
自分でも情けない声が出た。
俺も腕を回し、細い身体を抱き寄せる。
寝間着越しに、リリアの温もりが伝わってきた。
柔らかな銀髪から、微かに石鹸の匂いがする。
心臓がうるさい。
こんな音では、リリアにも聞こえてしまう。
「レイン様」
「何?」
「心臓が、とても速いです」
やはり聞こえていた。
「狭いからな」
「狭いと、速くなるのですか?」
「なる時もある」
苦しい言い訳だった。
それでもリリアは追及せず、俺の服を指先で掴んだ。
先ほどまで震えていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
「温かいです」
「リリアもな」
「こうしていると……大丈夫だと思えます」
「なら、眠るまでこうしてるよ」
「眠ったあとも、離れないでいただけますか?」
「ああ」
答えると、リリアがもう少し深く身体を寄せた。
その動きに、俺の全身が強張る。
まずい。
意識しないようにしていた身体が、正直に反応してしまった。
僅かに距離を取ろうとする。
だが、狭いベッドでは逃げる場所がない。
「レイン様?」
「何でもない」
「ですが……」
リリアが身体を動かした。
次の瞬間、密着した下半身に触れ、その動きが止まる。
「……これは」
「違う」
何が違うのか、自分でも分からない。
慌てて離れようとしたが、背中は壁へ当たっている。
リリアは驚いたように目を見開いていた。
けれど、嫌がって身を引くことはなかった。
むしろ、何かを理解したように表情を和らげる。
「我慢なさらなくても……」
「いや、待て」
リリアの手が、俺の胸元からゆっくりと下へ動く。
触れる寸前で、その手首を掴んだ。
「レイン様でしたら、私は……」
「駄目だ」
その言葉に、リリアの表情が僅かに曇った。
拒絶されたと思わせたくはない。
だが、このまま受け入れるわけにもいかなかった。
「嫌なんじゃない」
「では、なぜ……」
「今のリリアは、捨てられるのが怖くてここに来たんだろ」
「それは……」
「そんな時に何かしてもらったら、俺は自分を許せない」
リリアが黙る。
「身体を差し出さなくても、リリアを捨てたりしない。それを伝えるために抱きしめてるんだ」
「ですが」
リリアは俺に掴まれたままの手を見た。
「捨てられたくないからだけでは、ありません」
「え?」
「レイン様だからです」
小さな声だった。
けれど、その言葉だけははっきり聞こえた。
「レイン様でしたら、触れられても嫌ではありません。お役に立つためだけではなく、私が……」
そこまで言って、リリアは口を閉じた。
暗くてよかった。
おそらく今の俺の顔は、見せられたものではない。
「それは、それでもっと困る」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
「では……」
リリアが僅かに首を傾げた。
「今夜は、抱きしめていただくだけにいたします」
「今夜は、って……」
「いけませんでしたか?」
「そういう言い方はずるいだろ」
「すみません」
謝りながらも、その声にはほんの少しだけ笑いが混じっていた。
さっきまでの震えは、もうほとんど消えている。
俺は掴んでいた手首を離し、改めてリリアの背中へ腕を回した。
「今夜はこれで我慢してくれ」
「私は、我慢しておりません」
リリアが俺の胸元へ頬を寄せる。
「こうしていただけるだけで、十分に嬉しいです」
「そっか」
「はい」
しばらくすると、リリアの呼吸がゆっくりと整い始めた。
俺の服を掴んでいた指からも、少しずつ力が抜けていく。
「レイン様」
眠りへ落ちる直前の声が聞こえた。
「私……ここにいても、よいのですね」
「ああ」
迷わず答えた。
「ずっといていい」
「……はい」
それきり、リリアは何も言わなかった。
穏やかな寝息だけが、俺の胸元へ触れている。
不安は、少しは消えただろうか。
明日になれば、またEランクのプレートを重く感じることもあるかもしれない。
学校へ追いつけるかという恐怖も、すぐにはなくならないだろう。
それでも、そのたびに伝えればいい。
役に立つから一緒にいるのではない。
できないことがあるからといって、捨てたりしない。
三人で作った《アステル》は、そんな場所にはしない。
腕の中で眠るリリアを起こさないよう、俺は静かに毛布を掛け直した。
ただし。
温かな身体は変わらず密着したままで、先ほどから俺の方はまったく落ち着いていない。
結局その夜。
安心したように眠るリリアとは対照的に、俺は朝までほとんど眠ることができなかった。




