第56話:十時間では足りない
工房へ戻ったあと、俺は作業台の上に二冊の本を並べた。
一冊は、王立学校の試験にも使える基礎魔法理論の入門書。
もう一冊は、武器以外の物体へ属性を定着させる方法が記された付与魔法の実用書だ。
その隣には、先ほどまで訓練に使っていた平たい石が置かれている。
表面に残っていた霜は、工房へ運び込む頃にはすっかり消えていた。
だが、重りを載せた木の足が僅かに滑った感触は、今も手に残っている。
「さてと」
椅子に座ったセレナが、右手だけで入門書を引き寄せた。
「次は勉強?」
その声には、実技訓練の時にはなかった重さがある。
「一応、そのつもりだった」
「一応って何よ」
「どこから手をつけるか考えてるんだよ」
本を開く。
最初に書かれているのは、魔力の性質と属性の分類についてだ。
火、水、風、土。
そこから派生する氷や雷。
魔力を外へ放つ魔法と、物へ定着させる付与魔法の違い。
昨日までなら、リリアの魔法を理解するための知識として読んでいただろう。
だが、今は違う。
冬の終わりに、王立学校の入学試験がある。
受けるのは俺だけではない。
セレナとリリアを含めた三人だ。
「最初から読むのですか?」
俺の横に座ったリリアが、本を覗き込む。
「その方がいいとは思う。ただ、試験に何が出るか分からないまま全部覚えるのは効率が悪い」
「歴史もあるんでしょ?」
セレナが早くも嫌そうな顔をする。
「基礎教養、歴史、魔法理論。募集案内に書いてあったのはそのくらいだな」
「実技で点を取れば、筆記は少しくらい悪くても大丈夫じゃない?」
「少しならな」
「じゃあ大丈夫よ」
「お前の言う少しは信用できない」
「何よ。私だって読み書きくらいできるわ」
「歴史は?」
「昔に何かあって、今がある」
「何も分かってないじゃないか」
「大体合ってるでしょ?」
胸を張るセレナを見て、リリアが口元を僅かに緩めた。
「リリアはどうだ?」
「読み書きと簡単な計算はできます。ただ、歴史については、ほとんど……」
「魔法理論は?」
「教わったことはあります」
リリアはそこで言葉を切った。
「ですが、術式を使うために必要な部分だけです。なぜその形になるのか、他の術式と何が違うのかまでは……」
使うための手順だけを覚えさせられていたのだろう。
自分で考え、別の使い方を試すための知識ではない。
今日、地面への付与に苦戦した理由の一つも、そこにあるのかもしれない。
「なら、魔法理論は訓練と一緒に覚えていこう。今日みたいに、実際に試しながら本を読んだ方が分かりやすい」
「はい」
リリアが頷く。
その表情には、先ほどまでよりも僅かに安堵が見えた。
すぐに試験勉強を始めると聞いて、自分だけ遅れていることを気にしていたのかもしれない。
「じゃあ、私の座学はレイに任せておけばいいのよね?」
「どうしてそうなる」
「前に言ったじゃない」
セレナが当然のように答える。
「筆記試験の対策は、全部俺に任せてくれって。出題の傾向を調べて、必要なところだけ教えてくれるんでしょ?」
「あ……」
言った。
Eランクへ上がった翌日。
王立学校の受験資格を確認した時、筆記試験を不安がるセレナに、確かにそう約束した。
あの時の俺には、考えがあった。
試験当日の朝に楔を打つ。
一度試験を受け、出された問題を覚える。
その後で時間を戻し、答えを調べてからもう一度試験を受ける。
実際に出る問題が分かっているなら、筆記試験など恐れる必要はない。
そう思っていた。
だが――。
「……待てよ」
「どうしたの?」
俺は答えず、机の端にあった羊皮紙を引き寄せた。
炭筆で横に一本の線を引く。
楔を打つ。
王都へ向かう。
試験を受ける。
工房へ戻る。
楔を抜く。
時間を戻したあと、問題の答えを調べる。
さらに、その答えをセレナへ教える。
今はリリアもいる。
二人が覚えるまで教えたうえで、もう一度王都へ向かわなければならない。
楔が保つのは、約十時間。
王都との往復だけでも相当な時間がかかる。
筆記試験がどれほど長いのかは分からないが、短時間で終わるとは思えない。
仮に一度目の試験を終え、楔を抜くところまで間に合ったとしても、そのあとがない。
時間を戻る前に問題を見た記憶が残るのは、俺だけだ。
セレナとリリアへ教えられるのは、戻ったあとの僅かな時間だけ。
知らない歴史や魔法理論を調べ、二人へ答えを覚えさせる。
そのすべてを十時間の中で終わらせるなど、どう考えても無理だ。
それどころか、俺自身の答えを調べる時間さえ足りない可能性がある。
試験問題さえ先に見れば、どうにでもなる。
俺は時の楔を手に入れてから、無意識にそう考えていた。
だが、十時間という制限は変わらない。
未来を知ることができても、準備に必要な時間まで増えるわけではないのだ。
「レイ?」
セレナの声で我に返る。
「さっきから黙って、何を書いてるの?」
「いや……勉強の予定を考えてた」
慌てて羊皮紙を裏返す。
「何か問題がございましたか?」
リリアも心配そうにこちらを見ている。
「問題というか、準備に思ってたより時間がかかりそうだ」
「間に合わないの?」
セレナの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
俺が何とかすると言ったから、セレナは実技へ集中してきた。
今さら無理だったとは言えない。
そもそも、諦める必要もない。
試験当日に時間がないのなら、それより前に準備すればいい。
冬の終わりまで、まだ何か月もある。
「間に合わせる」
俺は二人を見た。
「ただ、予定を少し変えたい」
「どう変えるのですか?」
「しばらくは実技を中心に進める」
リリアが僅かに目を見開いた。
「座学は、行わないのでしょうか」
「まったくやらないわけじゃない。リリアは付与の訓練と一緒に、この二冊を読んでいく。レナも、手持ちの本で読み書きと計算くらいは復習しておいてくれ」
「私も?」
「受験するんだろ」
「するけど……」
「本格的な試験対策は、必要な金が貯まって、俺の準備が整ってから始める」
俺は入門書を閉じた。
「二人に教えるなら、俺が先に内容を理解して、教える順番を決めないといけない。だから、少し時間が欲しい」
嘘ではない。
書物屋には、王立学校の入学試験に必要な知識を一冊にまとめた分厚い本があった。
基礎教養。
歴史。
魔法理論。
過去の出題傾向や、試験で間違えやすい箇所まで細かく載っていた。
値札には、金貨五枚と書かれていた。
昨日は二冊の本を買うだけでも迷ったのだ。
ファミリアの登録費用を払い、工房の材料や生活費も必要な今、金貨五枚など出せるはずがない。
だから、手に取ることさえしなかった。
だが、あの一冊があれば、何を優先して勉強すべきか分かる。
二人へ教える内容も決められる。
「準備が終わったら、俺が二人に教える」
「レイが先生をするの?」
「嫌なら別の方法を考えるけど」
「嫌とは言ってないわよ」
セレナは少し考え、それから俺の顔を見た。
「前にも任せてって言ったものね」
「ああ」
「だったら任せる。でも、レイ一人で無茶はしないでよ?」
「分かってる」
そう答えると、セレナはまだ何か言いたそうにしながらも頷いた。
リリアは閉じられた入門書へ視線を落としていた。
「リリア?」
「私は……お二人よりも、知らないことが多いと思います」
静かな声だった。
「本格的な勉強を始めた時、私だけが遅れてしまわないでしょうか」
胸元のEランクプレートへは触れなかった。
けれど、リリアが何を気にしているのかは分かる。
試験を受けて手に入れたランクではない。
《アステル》へ入ったことで、強制的に与えられたEランク。
その重さへ追いつこうとしているからこそ、何もせずに待つことが不安なのだ。
「待つだけじゃない」
俺は付与魔法の実用書をリリアの前へ置いた。
「今日の訓練も勉強の一つだ。魔力を狭い範囲へ留めることも、長く定着させることも、魔法理論とつながってる」
「はい」
「この本で分からないところがあれば、俺も一緒に調べる。まずは地面への付与を使える形にする。試験のための座学は、そのあと三人で始めよう」
リリアは実用書の表紙へ手を置いた。
少しの間を置いてから、顔を上げる。
「分かりました」
まだ不安が消えたわけではないだろう。
それでも、その声には先ほどまでの迷いがなかった。
「それまでに、私も少しでもできることを増やしておきます」
「ああ。一緒にやろう」
「はい、レイン様」
リリアが小さく微笑んだ。
セレナも納得したように頷いたあと、すぐに何かへ気づいた顔をする。
「でも、実技中心なら、私も明日から訓練に戻っていいのよね?」
「傷が治ってからだ」
「もうほとんど治ってるわよ」
「さっき立とうとして止められてただろ」
「あれは二人が心配しすぎなの!」
「レナさん」
リリアが名前を呼んだだけで、セレナの動きが止まった。
「……分かったわよ。ちゃんと治してからにする」
「そうしてください」
素直に引き下がったセレナを見て、俺は小さく笑った。
これで、当面の方針は決まった。
セレナの傷が治るまでは、リリアの付与訓練と俺の罠の改良。
傷が治ったあとは、三人で実戦を想定した訓練を始める。
並行して依頼を受け、鍛冶の仕事も続ける。
そうして金を貯める。
目標は、金貨五枚。
だが、その目的まで二人へ話すつもりはなかった。
金貨五枚が一度、俺の手元にあればいい。
書物屋へ向かう前に、安全な場所へ楔を打つ。
あの分厚い試験対策本を買い、楔へ戻る時間を残して、可能な限り内容を読み込む。
そのあと楔を抜けば、金貨五枚は手元へ戻る。
本は書物屋へ戻る。
俺が読んだ記憶だけが残る。
一度ですべてを覚えることはできないだろう。
それでも、出題される科目と優先して学ぶべき範囲が分かれば、三人分の勉強を始められる。
必要なら、別の頁を読むために繰り返せばいい。
危険がないからといって、何度も続ければ俺の精神は確実に消耗する。
それでも、何も知らないまま試験当日を迎えるよりはいい。
二人に隠していることへの後ろめたさがないわけではない。
だが、金貨五枚を本当に失えば、装備や材料へ回す金が減る。
これから冬までに、何が起きるかも分からない。
守れるものは、残しておきたい。
「レイ、また難しい顔してる」
「先生になる方法を考えてるんだよ」
「今からそんなに悩んで大丈夫?」
「お前がちゃんと勉強してくれるか心配でな」
「私だけ? リリアだっているじゃない」
「私は、きちんと勉強いたします」
「ほらな」
「ちょっと、どういう意味よ!」
セレナが声を上げ、リリアが小さく笑った。
俺も笑いながら、二冊の本と、その横に置かれた平たい石を見る。
まずは実技。
リリアの魔法を、三人で戦うための力にする。
その間に金を貯め、俺は二人へ教えるための知識を手に入れる。
試験問題を見てからでは、十時間では足りない。
だから、試験が始まるよりずっと前に学ぶ。
俺だけが十時間先へ進み、その知識を持って戻る。
そして今度は、三人で春へ向かうのだ。




