第55話:足を止める魔法
翌朝。
工房の裏手には、昨日よりも強い陽射しが降り注いでいた。
夏へ向かう空は朝から青く澄み、日陰にいても肌へまとわりつく空気には、少しずつ熱が混じり始めている。
俺は作業台の上へ、昨日使った平たい石を置いた。
表面には、細く白い跡が残っている。
リリアが氷の付与を試み、ほんの僅かに霜を定着させた痕だ。
「今日も、こちらを使うのですか?」
隣に立つリリアが、石を見つめながら尋ねる。
「ああ。ただ、昨日と同じやり方はしない」
俺は懐から、手のひらほどの大きさに曲げた細い鉄の輪を取り出した。
朝のうちに端材を加工して作ったものだ。
「それは何?」
作業台の前に座っていたセレナが身を乗り出す。
「範囲を決めるための目印だよ」
鉄の輪を石の中央へ置く。
「昨日は石全体へ付与しようとして、魔力が端から外へ流れた。だったら最初から、付与する場所をもっと小さくすればいい」
リリアが鉄の輪を覗き込んだ。
「この内側だけに、ということですか?」
「ああ。敵の足を止めるのに、地面全部を凍らせる必要はない。片足が乗るくらいの範囲があればいい」
「片足……」
リリアは自分の足元へ視線を落とした。
昨日買った実用書には、付与する対象の境界を明確に意識する必要があると書かれていた。
剣なら、柄から切っ先までを一本の物として捉えられる。
だが、地面には明確な終わりがない。
だから今は、目に見える輪で境界を作る。
「まずは輪の中心だけを冷やすつもりでやってみてくれ」
「分かりました」
リリアは杖を両手で構えた。
先端の魔石に、淡い青色の光が灯る。
「冷気よ、この石に宿りて――」
細い光が石へ伸びる。
鉄の輪の内側に白い霜が浮かび、ゆっくりと周囲へ広がっていく。
しかし、輪へ届いたところで魔力は止まらなかった。
青白い光が鉄の下を抜け、石の外側へ流れ出す。
次の瞬間には霧のように散り、あとには薄く濡れた石だけが残った。
「……また、外へ流れてしまいました」
リリアの肩が僅かに落ちる。
「でも、昨日よりは残ったぞ」
俺は輪の内側へ触れた。
冷たい。
霜は消えているものの、昨日より明らかに低い温度が保たれている。
「昨日は石の端へ届いた時点で、ほとんど全部の魔力が逃げた。今は輪の内側に少し残ってる」
「ですが、凍らせることはできませんでした」
「最初から全部できるとは思ってないよ」
そう答えると、リリアは小さく頷いた。
納得したというより、自分を落ち着かせようとしているように見える。
胸元には、二日前に発行されたばかりのファミリアプレートがある。
そこに刻まれたEの文字を意識するほど、早く結果を出さなければならないと考えてしまうのかもしれない。
「リリア、もう一回やってみたら?」
セレナが椅子へ頬杖をついたまま言った。
「一回目より二回目の方が上手くできるかもしれないし」
「レナさんは休んでいてください」
「休んでるじゃない。座ってるでしょ?」
「先ほどから何度も立とうとしておられます」
「見てたの?」
「見えますので」
リリアが静かに答える。
セレナは何か言い返そうとしたが、結局、左腕へ巻かれた布を見て口を閉じた。
「……ちょっとくらいなら動いてもいいのに」
「駄目です」
「リリア、レイに似てきたね」
「そうでしょうか」
リリアは俺を見た。
一瞬だけ、少し嬉しそうに見えた。
だが、すぐに視線を石へ戻す。
「レイン様。もう一度、試してもよろしいですか?」
「ああ。ただし、今度は輪の全部を凍らせようとしなくていい」
「全部ではなく?」
「中心の一点だけでいい。まずそこへ魔力を留める。広げるのは、そのあとだ」
鍛冶でも、最初から完成した形を作ろうとはしない。
熱した鉄のどこを伸ばし、どこへ厚みを残すのか。
一打ずつ形を作っていく。
魔法も同じだとは限らないが、最初から広い範囲を制御できないのなら、できる範囲から始めるしかない。
リリアは杖の先端を、鉄の輪の中央へ向けた。
「冷気よ、この石に宿りて――」
先ほどよりも細い光が石へ落ちた。
中心に小さな白い点が生まれる。
そこから霜がゆっくり広がり始めた。
輪の半分ほどまで届いたところで、光が揺れる。
今にも外へ散りそうになる。
リリアの指が杖を強く握った。
「広げなくていい。そこで止めろ」
「……はい」
青い光の広がりが止まる。
それ以上大きくはならない。
けれど、消えもしなかった。
輪の内側、その半分ほどに薄い霜が残っている。
数秒。
やがて魔力が途切れ、白い霜も端から溶け始めた。
「できた……のでしょうか」
「少なくとも、さっきよりは留まった」
俺が触れようとすると、セレナが横から口を挟んだ。
「レイ、冷たいんだから素手で触らない方がいいんじゃない?」
「これくらいなら大丈夫だろ」
「そう言って、杖を作った時も火傷してたじゃない」
「よく覚えてるな……」
俺は伸ばしかけた手を止め、代わりに細い鉄片で石の表面を擦った。
霜の残った部分だけ、僅かに滑る。
まだ人間の足を大きく崩せるほどではない。
だが、昨日は残らなかったものが、今日は形になっている。
「問題は、これが足止めとして使えるかだな」
「私が踏んでみる!」
セレナが勢いよく立とうとする。
「座ってろ」
「踏むだけよ?」
「滑ったら腕をつくだろ」
「滑らないように踏めばいいじゃない」
「それじゃ試す意味がないだろ」
「じゃあどうするのよ」
俺は工房の中へ戻り、作業台の下から短い木材を持ってきた。
片側を削り、人間の靴底に近い形へ整える。
その上へ鉄の端材を載せ、細い紐で固定した。
「何、それ」
「足の代わり」
「無理がない?」
「セレナに踏ませるよりはいい」
木材の先へ長い紐を結び、石から少し離れた位置へ置く。
あとは紐を引けば、重さをかけた木材が石の上を通る。
完全に人間の足を再現できるわけではないが、氷がどれほど滑るのかを見るくらいはできる。
「レイン様は、こういうものをすぐ思いつかれるのですね」
リリアが、俺の作った木材を興味深そうに見つめている。
「罠を作る時に、似たようなことは何度もやってるからな」
実際に人間や魔物を使って試すわけにはいかない。
どれくらいの重さで罠が動くのか。
どの角度から力が加われば外れるのか。
そういうものを確かめるため、重りを使った簡単な試験道具を作ることは珍しくなかった。
「リリア。もう一度だけできるか?」
「はい」
返事はすぐに返ってきた。
だが、俺はその顔を確認する。
先ほどまでに二度、魔法を使っている。
まだ顔色は悪くない。
杖を持つ手にも震えは見えなかった。
「無理なら言えよ」
「大丈夫です。まだ余裕があります」
以前のように、何があっても大丈夫だと言っている感じではない。
自分の状態を確かめたうえで答えているように聞こえた。
「分かった。じゃあ、さっきと同じ範囲だ」
「はい」
リリアが杖を構える。
「冷気よ、この石に宿りて――」
青い光が一点へ落ちる。
中心から霜が広がり、鉄の輪の半分ほどを白く染めた。
先ほどよりも速い。
それでもリリアは無理に範囲を広げず、同じ場所で魔力を留めている。
「今です」
俺は紐を引いた。
重りを載せた木材が地面を滑り、石の上へ乗る。
霜のない場所を通った時には真っ直ぐ動いていた。
だが、白く凍った部分へ触れた瞬間。
木材の先が横へずれた。
ほんの僅かだ。
倒れるほどではない。
それでも、進む向きは確かに変わった。
「あっ!」
セレナが声を上げる。
「今、滑ったよね?」
「ああ」
俺は木材を拾い上げ、底を確認した。
濡れた跡が斜めに走っている。
偶然ではない。
「もう一度やってみる?」
「今日は終わりだ」
「私じゃなくて、リリアに聞いたんだけど」
「誰に聞いても終わりだよ」
リリアは石を見つめていた。
その表面では、薄い霜が陽射しを受け、少しずつ溶け始めている。
「これで……敵の足を止められるのでしょうか」
「今のままじゃ、止めるところまではいかない」
俺が答えると、リリアの表情が少しだけ曇った。
「でも、踏み込みをずらすことはできる」
「踏み込みを……」
「剣を振る瞬間に片足が滑れば、狙いは外れる。走ってる時なら、体勢を崩すかもしれない。完全に転ばせなくても、一瞬動きが乱れれば十分だ」
「私なら、その隙に斬れるよ」
セレナが椅子に座ったまま、剣を振る真似をする。
左腕を動かしかけ、俺とリリアに同時に見られると、何事もなかったように手を下ろした。
「……右手だけだから」
「そういう問題じゃない」
「もう」
セレナが頬を膨らませる。
その横で、リリアはもう一度、霜の残った石へ目を向けた。
「レイン様が敵の通る場所を決めて、私がそこへ付与する。動きが崩れたところを、レナさんが……」
「ああ。そういう戦い方ができるかもしれない」
俺が罠と地形で敵の進路を絞る。
リリアが、その先の足元へ属性を定着させる。
そして、体勢を崩した敵をセレナが仕留める。
まだ想像にすぎない。
リリアの付与も、今は石の一部を数秒凍らせるだけだ。
実戦の中で使うには、発動までの時間も、維持できる長さも足りない。
それでも、進む方向は見えてきた。
「三人で使う魔法なんですね」
リリアが小さく呟いた。
「魔法を使うのはリリアだけだけどな」
「それでも、です」
リリアは胸元のファミリアプレートへ触れた。
昨日、その重さに不安を感じていたもの。
今も、その不安が完全に消えたわけではないだろう。
けれど、プレートへ触れる指には、昨日とは違う力がこもっていた。
「私、もっと練習したいです」
「今日はもう駄目だぞ」
「はい。今日は休みます」
素直に答えたあと、リリアは少しだけ間を置いた。
「ですが、明日も……レイン様……、一緒に続きを考えていただけますか?」
「もちろん」
俺が答えると、リリアはほっとしたように微笑んだ。
その笑顔は、魔法が一度成功したことだけを喜んでいるようには見えなかった。
「ありがとうございます」
リリアは完成したばかりの杖を、両手で大切そうに抱き直した。
「いつか、この魔法で……レイン様のお役に立ちたいです」
普段よりも少しだけ小さな声だった。
言ったあとで恥ずかしくなったのか、視線を石へ落としてしまう。
「もう役に立ってるだろ」
「そういう意味ではなくて……」
リリアはそれ以上を口にしなかった。
俺にも、何が違うのかはよく分からない。
ただ、耳が僅かに赤くなっていることだけは分かった。
「じゃあ、明日はもう少し長く残す方法を考えよう」
「はい」
作業台の上では、薄い霜が最後の一筋を残して溶けていく。
敵を転ばせるには弱い。
動きを止めるには短い。
それでも昨日は残らなかったものが、今日は確かにそこにあった。
自分で選んだ《アステル》の一員として、追いつきたいと願うリリアの最初の魔法。
まだ足を止めるには届かない。
けれど、その一歩を乱すところまでは、確かに近づいていた。




