第54話:来春への一歩
翌朝。
工房の窓から差し込む陽射しは、初夏の頃よりも明らかに強くなっていた。
少し前まで心地よかった朝の風にも生温かさが混じり、炉へ火を入れる前から工房の中には薄い熱がこもっている。
「暑い……」
作業台の前に座ったセレナが、机へ頬をつけたまま力なく呟いた。
「怪我人が朝から何しに来てるんだよ」
俺は呆れながら、セレナの左腕へ巻かれた布を確認した。
一昨日、鉱山で魔物の爪を受けた傷だ。
出血はすでに止まり、傷口も塞がり始めている。それでも腕を動かせば痛むらしく、先ほどから何度か顔をしかめていた。
「今日は三人で訓練するって言ってたじゃない」
「言ってない。魔法をどう勉強するか考えるって言ったんだ」
「同じようなものでしょ」
「全然違う」
「レイン様の仰る通りです」
ばぁちゃんと一緒に朝食の片づけを終えたリリアが、工房へ入ってくる。
「レナさんは、今日はお休みください」
「リリアまで……。これくらい、本当に平気なのに」
「昨日から何回目だ、それ」
セレナは不満そうに頬を膨らませたが、さすがに剣へ手を伸ばそうとはしなかった。
その隣へ座ったリリアの胸元では、新しく発行されたファミリアプレートが鈍い銀色の光を返している。
俺とセレナが持つものと同じ形。
同じ《アステル》の名。
そして、同じEの文字。
昨日、リリアはその文字が重いと言った。
試験を受けずにEランクになった自分が、このプレートを持っていていいのかと。
俺たちは、足りないならこれから追いつけばいいと答えた。
だが、そう言っただけでリリアの不安が消えるわけではない。
「リリア」
「はい」
「昨日話した、地面への付与。もう少し詳しく聞かせてくれ」
リリアは膝の上へ自分の杖を置き、少し考えてから答えた。
「私が今使えるのは、炎、氷、風の三種類です。ただ、教わったのは武器や防具へ付与する方法だけで……地面や壁へ使ったことはありません」
「同じ物なら、対象を変えるだけじゃ駄目なのか?」
「おそらく、難しいと思います」
「なんで?」
セレナが机から顔を上げる。
「剣は、どこからどこまでが一本の剣なのか分かります。ですが地面は、どこまでを一つの対象として扱えばよいのか分かりません」
「なるほどな」
俺は足元の土間を見た。
工房の床全部へ付与しようとすれば、リリアの魔力では到底足りない。
だから敵が踏む場所だけに絞ればいいと考えた。
けれど、俺がここからここまでと決めたところで、魔法の側が同じように区切ってくれるとは限らないらしい。
「では、例えば小さな石ならどうだ?」
「石、ですか?」
「ああ。地面そのものじゃなく、俺が用意した石や鉄板へ付与する。それを敵が通る場所へ置いておけば、罠として使えるかもしれない」
リリアはすぐには答えなかった。
足元へ視線を落とし、頭の中で魔力の流れを確かめているようだった。
「石一つであれば、できるかもしれません。ただ……」
「ただ?」
「武器以外へ付与を定着させる方法を、私は知りません」
「じゃあ、まずはそこからだな」
知らないまま試す。
少し前の俺なら、それでも構わないと思っていただろう。
一度やってみて、失敗したら原因を考える。それから別の方法を試せばいい。
だが、その考えで俺は一度、リリアを殺した。
今の世界では起きなかったことになっている。
リリア自身も知らない。
それでも、俺の中から消えることはない。
分からないなら、まず調べる。
失敗してからでは遅いものがあることを、俺はもう知っている。
「書物屋へ行こう」
「今から?」
セレナが勢いよく立ち上がり、すぐに左腕を押さえた。
「いった……」
「座ってろ」
「今のはちょっと忘れてただけ!」
「忘れる時点で駄目だろ」
俺はため息をつき、セレナを椅子へ座らせた。
「本を探すだけなら、お前も一緒に来ていい。ただし、今日は剣を振るのは禁止だ」
「分かったわよ」
渋々といった顔ではあるが、置いていかれるよりはいいらしい。
俺たちは戸締まりをばぁちゃんに頼み、三人で工房を出た。
◇
大通りへ出ると、夏へ向かう街の変化がよく分かった。
通りを歩く人々の服は以前より薄くなり、露店には冷たい井戸水で冷やした果実や飲み物が並んでいる。
石畳へ降り注ぐ陽射しも強く、建物の影を選んで歩かなければ、すぐに汗が滲んだ。
「冬の方がまだいいかも……」
セレナが手で顔を扇ぎながら呟く。
「冬になったら寒いって文句言うだろ」
「言わないわよ」
「絶対言う」
そんなやり取りをしながら書物屋へ向かう途中、冒険者ギルドの前を通りかかった。
その壁に、昨日まではなかった大きな羊皮紙が張り出されている。
人だかりができるほどではないが、何人かの若い冒険者が足を止め、真剣な顔で内容を読んでいた。
「レイ、あれ」
セレナに呼ばれ、俺たちも近づく。
羊皮紙の上部には、王立学校の紋章が描かれていた。
『来春入学者募集』
大きく記された文字を目で追う。
受験資格は、Eランク以上のファミリアに所属していること。
願書の受付は冬の半ばから。
入学試験は、冬の終わり。
試験内容は、基礎教養と魔法理論を含む筆記試験。そして、それぞれの戦闘能力や役割を確認する実技試験。
合格者は、雪解けを待った春から新入生として迎えられる。
「来春……」
セレナが小さく呟いた。
王立学校へ入る。
それは俺たちがEランクを目指した時から決めていた、次の大きな目標だった。
だが、ファミリアを作ることに必死で、具体的な時期までは意識していなかった。
「冬の終わりに試験か」
「まだ随分先じゃない?」
「もう夏になりかけてるんだぞ。秋になれば要項がもっと詳しく出るだろうし、冬には願書を出さないといけない。思ってるほど余裕はない」
「でも、半年以上あるでしょ?」
「お前はまず筆記試験の心配をしろ」
セレナの顔から笑みが消えた。
「……それ、今言う?」
「今だから言うんだよ」
「剣の試験だけじゃ駄目なの?」
「募集要項に筆記って書いてあるだろ」
「レイが何とかしてよ」
「受けるのはお前だ」
以前から、筆記については時の楔を利用するつもりでいる。
試験問題を確認してから時間を戻り、必要な答えを調べる。
だが、だからといってセレナが何も学ばなくていいわけではない。
王立学校へ入ったあとまで、すべての授業を時間を戻して誤魔化し続けるわけにはいかないのだ。
「リリア?」
隣にいたリリアが何も言わないことに気づき、声をかける。
リリアは募集案内と、自分の胸元にあるプレートを交互に見つめていた。
「どうした?」
「私も……受験資格があるのでしょうか」
「ああ。《アステル》はEランクだからな」
「私も、王立学校を受けられる……」
自分へ言い聞かせるような声だった。
リリアにとって、学校へ通うということ自体、随分遠いものだったはずだ。
両親を亡くして奴隷になり、その後は役に立つかどうかだけで扱われてきた。
学ぶ機会を与えられたとしても、それは誰かのために働く技術を覚えさせられるだけだったのだろう。
「でも……」
リリアがプレートを握る。
「私は魔法の基礎も十分に学んでおりません。読み書きはできますが、魔法理論も、歴史も……」
「なら今から勉強すればいい」
「間に合うでしょうか」
「分からない」
リリアが僅かに顔を伏せた。
「でも、受けるかどうかはリリアが決められる」
「私が……」
「ああ。受かるかどうかは、やってみないと分からない。でも、誰かに行けと言われたから受ける必要もないし、自分には無理だと最初から諦める必要もない」
リリアはもう一度、募集案内を見上げた。
来春入学者募集。
その言葉を長い間見つめてから、俺とセレナへ向き直る。
「私は……」
胸元のプレートを握ったまま、小さく息を吸った。
「私も、お二人と一緒に王立学校へ行きたいです」
「うん。一緒に行こう!」
セレナが迷いなく答えた。
その勢いのままリリアの手を取ろうとして、傷のある左腕を動かしかける。
「いった!」
「もう帰るか?」
「大丈夫だから!」
王立学校へ入る前に、こいつへ怪我を治すことを覚えさせる必要がありそうだ。
リリアが口元を押さえて笑っている。
俺も小さく息を吐き、もう一度募集案内を見た。
冬の終わりまで。
それが、俺たちに残された時間だ。
◇
大型の書物屋へ入ると、外の熱気が少しだけ遠ざかった。
目的の棚には、王立学校の入学試験に備えるための本がすでに何冊も並べられていた。
基礎教養。
歴史。
魔法理論。
実技試験で評価される役割。
受験に必要な知識をまとめた分厚い本もある。
「これ全部読むの……?」
セレナの顔が引きつる。
「全部とは言わないけど、必要なところはな」
「私、実技だけで合格できないかな」
「諦めるのが早すぎるだろ」
俺は受験用の入門書を一冊手に取り、次に付与魔法の棚を探した。
リリアと一緒に背表紙を確認していく。
『付与魔法入門』
『属性定着の基礎』
『魔力による範囲指定』
『戦場における補助魔法の運用』
何冊か中身を確認した結果、目的に近いものは二冊あった。
一冊は、王立学校の試験にも使える基礎魔法理論の入門書。
もう一冊は、武器以外の物体へ属性を定着させる方法が記された、古い付与魔法の実用書だ。
問題は値段だった。
「二冊買うと、結構するな」
ファミリア登録で金貨一枚を使ったばかりだ。
日々の生活費と工房の材料費も必要になる。
買えない金額ではないが、何も考えずに出せる額でもなかった。
「一冊だけにする?」
セレナが値札を覗き込む。
「受験だけを考えるなら、こっちの入門書だな」
「地面への付与は?」
「もう一冊の方が詳しい」
どちらも今のリリアに必要だ。
迷っていると、リリアが一歩前へ出た。
「あの、レイン様」
「ん?」
「私、この二冊で勉強したいです」
はっきりした声だった。
「私がいただいた報酬も残っています。それを使わせてください」
「全部出す必要はない」
「ですが、私の勉強のための本です」
「違うよ」
セレナが言った。
「三人で学校へ行くための本でしょ?」
「レナさん……」
「それに、リリアが地面へ付与できるようになったら、私も助かるし、レイも罠を作りやすくなる。だったら《アステル》のための本じゃない?」
珍しく、セレナがいいことを言った。
「珍しくは余計!」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に出てた!」
俺は苦笑しながら、二冊の本を重ねた。
「三人の金から出そう」
リリアは少し迷ったものの、やがて小さく頷いた。
「……はい」
自分のためだけではなく、《アステル》のため。
そう言われたことが、少し嬉しいように見えた。
◇
工房へ戻った頃には、陽が西へ傾き始めていた。
俺は作業台の上へ、手のひらより少し大きな平たい石を置いた。
道端で拾ってきた、何の変哲もない石だ。
「いきなり地面へ使うより、まずはこれだ」
リリアが買ってきた本を開き、該当する頁を確認する。
「対象の境界を意識し、その内部へ魔力を広げる……」
「できそうか?」
「やってみます」
リリアは新しい杖を構えた。
セレナは椅子に座ったまま、興味深そうに身を乗り出している。
「氷でいいの?」
「ああ。表面を滑らせられる程度に凍れば成功だ」
リリアが目を閉じる。
杖の先端へ淡い青色の光が集まり、細い筋となって石へ伸びていく。
「冷気よ、この石に宿りて――」
光が石の表面へ触れた。
一瞬だけ、白い霜が浮かぶ。
「できた!」
セレナが声を上げる。
だが次の瞬間、青い光は石の端から外へ流れ、霧のように消えてしまった。
残ったのは、僅かに冷たくなった石だけだった。
「……駄目です」
リリアが杖を下ろす。
「魔力が、石の中へ留まりませんでした」
表面に指で触れてみる。
少し冷たい。
だが、敵を滑らせるどころか、霜すらほとんど残っていない。
「もう一度――」
「今日はここまでだ」
「ですが」
「最初に比べて、魔力がどこへ逃げたかは分かっただろ?」
リリアが石を見る。
「端から、外へ流れました」
「ああ。なら、次はそこをどう止めるか考えればいい」
完全な失敗ではない。
石の表面には、僅かに白い筋が残っている。
氷が定着しかけた痕だ。
俺がその一点を指差すと、リリアも顔を近づけた。
「地面全部じゃない」
「え?」
「まずは、このくらいの範囲ならできるかもしれない」
リリアは白い筋をじっと見つめた。
それから胸元のファミリアプレートへ一度触れ、もう一度杖を握り直す。
「レイン様」
「ん?」
「明日、もう一度やらせてください」
その声に、失敗したことへの怯えはなかった。
「春までに、必ずできるようになります」
窓の外では、夏へ向かう夕陽が赤く街を染めていた。
冬の終わりに入学試験がある。
その先の春に、王立学校が待っている。
まだ時間はある。
けれど、何もしないまま待っていられるほど長くもない。
「明日は、石の端に魔力を止める方法を考えよう」
「はい」
今日できなかったことを、明日もう一度試す。
その先に、俺たち三人で迎える春がある。
作業台に残った細い霜の跡を見つめながら、俺はその最初の一歩が、確かにここへ刻まれたような気がしていた。




