第40話:知らないなら、知る
翌朝。
俺は作業台の端に置かれた木箱をしばらく眺めていた。
中に入っているのは、杖作りのために買った木材と魔鉄、それに小さな魔石だ。昨日までなら、朝食を終えるなり蓋を開けて次の試作品に取りかかっていただろう。
けれど今日は、箱に触れる気にはなれなかった。
目を向けるだけで、あの光景が鮮明に蘇ってくる。
膨れ上がった魔石の光。
耳をつんざく轟音。
そして、俺の腕の中で動かなくなったリリア。
時間を戻したことで、今の世界では何も起きていない。
工房も壊れていないし、リリアの身体にも傷一つない。
それでも俺の中では、確かに起きたことだった。
「レイン様」
声に振り返ると、リリアが少し離れた場所から俺を見ていた。
「昨日から、ずっとその箱を見ておられますね」
「……まあな」
「杖のことですか?」
「あぁ」
俺は木箱から視線を外し、立ち上がった。
「今日は工房を出る」
「どちらへ?」
「書物屋。それと、できれば魔法具を扱ってる店を何軒か回りたい」
リリアが僅かに首を傾げる。
「杖を買われるのですか?」
「違う。勉強しに行く」
昨日リリアに宣言した通り、まずは知らなければならない。
魔力がどうやって杖の中を通るのか。
魔石が何をしているのか。
どんな構造なら安全で、何をすれば危険なのか。
今の俺は、それすら満足に説明できない。
そんな人間が、人の命に関わる道具を作ろうとしていたのだ。
「リリアも来てくれるか?」
「もちろんです」
即答だった。
「私も魔法を使う側ではありますが、魔法具の構造について詳しいわけではありません。お役に立てるかは分かりませんが……」
「それでいい。むしろ使う側の感覚は俺には分からないからな」
俺一人で調べるより、リリアがいた方がいい。
昨日までは俺が杖を作り、リリアに試してもらうだけだった。
これからは違う。
俺が鍛冶の側から考える。
リリアは魔法を使う側から考える。
分からないものを、分からないまま進めない。
まずはそこからだ。
◇
街の中心部にある大型の書物屋へ入ると、紙とインクの独特な匂いが鼻をくすぐった。
店内には天井近くまで届く大きな棚がいくつも並び、その中には俺が普段目にすることもないような専門書が隙間なく収められている。
値札へ目をやれば、薄い本でも銀貨数枚。専門的な内容になると金貨が必要なものまであり、知識というものが決して安く手に入るものではないことがよく分かる。
「魔法具……魔法具……」
棚を順番に探していく。
基礎魔法理論。
魔法陣入門。
魔石の種類と用途。
魔力伝導素材概論。
専門書になるほど値段も跳ね上がっていく。
「高いな……」
思わず声が漏れた。
ただでさえ競売で手持ちの金はほとんどなくなり、最近は依頼を受けて少しずつ生活資金を取り戻しているところだ。
そんな状況で、金貨が必要になるような本を何冊も買う余裕などない。
リリアも値札を覗き込み、申し訳なさそうに眉を下げた。
「私の杖のために、ここまでしなくても……」
「またそれか」
「ですが……」
「俺が知らないままなのが嫌なんだよ」
俺は一冊の本を棚から抜き取った。
『魔力触媒と安全な魔法具設計』
題名だけなら、今の俺が読むべきものに見える。
適当に頁を開いてみると、細かな図と数字がびっしりと並んでいた。
正直、半分も意味が分からない。
「……リリア。これ読める?」
横から覗き込んだリリアの目が、みるみる真剣なものへ変わっていく。
「全部は難しいですが……この辺りなら分かります」
「何て書いてある?」
「魔石へ魔力を流す際には、使用者から供給される魔力量と、魔石自体の許容量を一致させる必要がある、と」
俺は黙って続きを促した。
「許容量を超えた魔力が流れ込んだ場合、余剰魔力を外部へ逃がす経路がなければ、魔石内部に蓄積され……」
リリアの声が止まった。
「どうした?」
彼女の指先が、文章の一箇所で止まっている。
「……急激な亀裂、発熱、最悪の場合は破裂を起こす可能性がある、と」
身体の奥が冷えた。
昨日見たものと同じだ。
髪の毛ほどの亀裂。
その直後に膨れ上がった光。
俺は思わず本を強く握り締めた。
「レイン様?」
「いや……続けてくれ」
リリアは不思議そうに俺を見たものの、それ以上は聞かずに読み進めた。
魔鉄は単純に魔力を通せばいいわけではない。
素材ごとに伝導率が違い、太さや長さによっても流れる量が変わる。
さらに魔石は魔力を受け取るだけではなく、一時的に蓄え、術式へ安定して送り出す役割を持つ。
そして安全な魔法具には、余剰魔力を逃がすための経路が設けられている。
俺が作った三本目には――それがなかった。
いや。
もっと悪い。
一、二本目で魔力の流れが悪かったから、俺は三本目で「もっと真っ直ぐ、効率良く魔石へ流れるように」調整した。
逃げ場を作るどころか、逆に魔石へ魔力を集中させる構造にしていたのだ。
「……馬鹿か、俺は」
小さく呟いた。
「レイン様?」
「昨日考えてた構造だよ」
俺は本に描かれた図を指差した。
「俺は魔力が途中で滞るのを失敗だと思ってた。だから、できるだけ抵抗なく魔石まで流せばいいって考えてたんだ」
「はい」
「でも、それじゃダメなんだな」
リリアも図をじっと見つめる。
「魔石が受け止めきれない場合がありますから……」
「あぁ」
出力を上げろ。
昨日、俺はそう言った。
何も知らずに。
その先に何が起こるのかも知らずに。
背中に嫌な汗が浮かんだ。
あの事故は、運が悪かったんじゃない。
偶然でもない。
俺があの構造のまま作り続けていれば、遅かれ早かれ同じことが起きていた。
そう理解した瞬間、昨日よりも強い恐怖が湧いてきた。
◇
結局、その本を一冊購入した。
かなり痛い出費だったが、今回は惜しむ気になれなかった。
その後も書物屋で何冊かの本に目を通し、店を出た俺たちは魔法具を扱う店を順番に回ることにした。
もちろん、店の職人が詳しい製法まで教えてくれるわけではない。
それでも客として杖を見せてもらい、どんな素材が使われているのか尋ねるだけでも、昨日までとは見え方がまるで違っていた。
「ここです、レイン様」
三軒目の店で、リリアが一本の安価な練習用杖を指差した。
「何が?」
「この金属部分です。先端の魔石から、柄の外側へ少しだけ伸びています」
俺は顔を近づけた。
細い金属線が、装飾のように杖の表面を走っている。
昨日までなら見た目を整えるための飾りだと思っていただろう。
だが今は違う。
「……逃がすためか」
「おそらく」
さっき買った本にも似た図があった。
魔石が許容量を超えそうになった時、余分な魔力を本体の外へ分散させる。
高級品ほど複雑な安全機構を持つらしいが、安価な杖でも最低限の対策はされている。
「こんなの、昨日は全然見えてなかったな」
俺は苦笑した。
同じ杖を見ているのに、知識が一つ増えただけで構造の意味が見えてくる。
武具屋で完成品を眺めただけで「だいたい分かった」つもりになっていた自分が恥ずかしくなった。
「レイン様」
「ん?」
「私も……気づけませんでした」
リリアが少し俯いた。
「魔力を使うのは私なのに、ただ流しやすい、流しにくいとしか考えていなくて……」
「リリアのせいじゃない」
「ですが」
「違う」
俺ははっきりと言った。
「作るって言ったのは俺だ。安全だと判断するのも、本来は作る側の仕事だろ」
リリアはしばらく黙っていた。
「ただ」
俺は続ける。
「次は一緒に考えてほしい」
「一緒に?」
「あぁ。俺には魔力を使う感覚が分からない。リリアには鍛冶の構造が分からない。だったら片方だけで考えるより、二人で考えた方がいい」
昨日までの俺は、リリアに「試してもらっていた」。
けれど、それでは足りない。
リリアは道具を試すだけの相手じゃない。
この杖を使う本人だ。
「俺が形を作る。リリアが魔法の側から見る。危ないと思ったら止める。分からなければ調べる」
「……はい」
「完成するまで時間かかるかもしれないけどな」
俺が笑うと、リリアも少しだけ表情を緩めた。
「私は急いでおりません」
「そうだったな」
「それに……」
リリアは少し躊躇ってから、俺の袖を指先で摘まんだ。
「こうしてレイン様と一緒に調べるのも、私は好きです」
「そうか?」
「はい」
何がそんなに嬉しいのか俺にはよく分からなかったが、昨日から沈んでいた気持ちが少しだけ軽くなった。
◇
工房へ戻った頃には、机の上に新しい羊皮紙の束が増えていた。
俺が本を読み、分からない魔法用語をリリアに聞く。
リリアが説明できない部分は二人でもう一度本を読み直す。
そうやって一つずつ整理していくと、次に作る杖に必要なものが少しずつ見えてきた。
まず、魔石を大きくする必要はない。
リリアの付与魔法は、一度に大量の魔力を叩き込む種類ではないからだ。
むしろ重要なのは安定性。
細い魔鉄を一本通すだけではなく、魔力を魔石へ送る経路と、余分な魔力を逃がす経路を分ける。
さらに、魔石そのものにも無理をさせない。
「これなら……」
俺は羊皮紙に描いた簡単な設計図を眺めた。
昨日まで作っていた杖とは、見た目こそそれほど変わらない。
でも中身はまるで違う。
「作れそうですか?」
隣からリリアが覗き込む。
「まだ分からない」
以前なら、ここで「やってみれば分かる」と言っていただろう。
けれど今は、その言葉を簡単には使いたくなかった。
「まず、もう一回本と照らし合わせる。それから材料も確認する。作るのはその後だ」
リリアが微笑んだ。
「はい」
焦らなくていい。
一日遅れたところで、何も失わない。
昨日の俺は、失敗することで前へ進もうとしていた。
でも、失敗する前に知ることで避けられるものもある。
それをようやく理解した。
俺は設計図の端に、昨日まではなかった一本の線を書き加えた。
余った魔力を逃がすための経路。
ほんの細い一本だ。
けれど今の俺には、それが杖のどの部分よりも重要なものに見えた。
「よし」
「完成ですか?」
「設計だけな」
俺は羊皮紙を作業台へ置いた。
木箱の蓋には、まだ触れない。
次に開ける時は、昨日までとは違う。
少なくとも、自分が何を作ろうとしているのかを理解した上で開ける。
その時こそ、もう一度リリアの杖を作ろう。




