第4話:不可逆の現実
カンッ、カンッ……!
夜の工房に、乾いた音が響く。
日課の鍛冶を終えた後、俺は土間の隅に新しい鉄の楔を打ち込んでいた。
昨日、セレナの親父さんの命を救った謎の能力。
まだ仕組みは完全には分からないが、こうして楔を打っておけば、いざという時に時間を巻き戻せるはずだ。
「よし、こんなもんか」
これでいざと言う時はここまで時間が戻せるだろう。そんな軽い気持ちでハンマーを置き、俺は眠りについた。
◇
翌日の昼下がり。
俺はばぁちゃんと一緒に、賑わう市場へ買い出しに出かけていた。
少し離れたところで、セレナが露店の装飾品を熱心に覗き込んでいる。
平和で、いつも通りの退屈な日常だった。
「レインや、今日の夕飯は……」
ばぁちゃんが振り返りかけた、その時だった。
「どけ! 邪魔だ、底辺ども!」
怒声と共に、上位ファミリアの紋章を掲げた豪奢な馬車が、猛スピードで人混みを突き抜けてきた。
周囲の人間が悲鳴を上げて散り散りになる中、足の悪いばぁちゃんの逃げ遅れが致命的だった。
「ばぁちゃんっ!」
俺が手を伸ばすより早く、馬車がばぁちゃんの身体を無情に弾き飛ばす。
鈍い音がして、ばぁちゃんが石畳の上に投げ出された。
「ああっ……うぅ……っ」
痛みに顔を歪め、ばぁちゃんが足を抱えて呻く。不自然な方向に曲がったその足は、誰の目にも重度の骨折だと分かった。
「おい、ふざけんな! 大丈夫か、ばぁちゃん!」
「チッ。低ランクのゴミが、俺たちの道を塞ぐな。馬が怪我したらどうする」
馬車から降りてきた上位ファミリアの男は、謝るどころか、忌々しそうに舌打ちをした。
「汚い血で馬車を汚すな。これで治療でもしろ」
男は路地に数枚の小銭を投げ捨てると、周囲の憎悪の視線など気にも留めず、再び馬車を出発させて去っていった。
「ばぁちゃん! しっかりして!」
駆けつけたセレナが、青ざめた顔でばぁちゃんを抱き起こす。
地面に散らばった小銭。
苦痛に呻くばぁちゃん。
(……ふざけんな。こんなこと、あってたまるか)
俺は血走った目で馬車を睨みつけ、そして踵を返した。
声には出さない。
誰にも言えない。
だが、俺にはやり直す手段がある。
(昨日の夜に打った楔がある。あれを引き抜けば……昨日の夜に戻れる!)
俺は市場の群衆を掻き分け、全速力で自分の工房へと走った。
ばぁちゃんが怪我をする前の朝に戻って、あの馬車を止めるんだ。
工房に飛び込み、薄暗い土間に突き刺さったままの鉄の楔へ飛びつく。
(頼む……戻ってくれっ!)
祈るような気持ちで、楔を力任せに引き抜こうとした、その瞬間だった。
バキッ!!
「……え?」
光は、溢れなかった。
時間の浮遊感もない。
俺の手の中で、あの鉄の楔は、まるで枯れ木のように乾いた音を立てて粉々に砕け散っていた。
「嘘だろ……なんで……」
床にパラパラと崩れ落ちる赤錆色の鉄屑。
俺は信じられない思いで、自分の両手を見つめた。
打ち方が浅かったのか? いや、いつもと同じだ。
工房の温度や湿度のせいか? それとも、時間が経ちすぎたのか?
分からない。何も分からない。
ただ一つだけ、残酷なほどはっきりと理解できた事実がある。
もう、二度とやり直せない。
「くそっ……! 戻れると、思ったのに……!」
砕けた鉄屑を握りしめ、俺は床を強く殴りつけた。
どれだけ後悔しても、俺の浅はかな考えが招いた現実は覆らない。
俺はふらつく足で立ち上がり、再び市場へと駆け戻った。
現場では、セレナが涙目でばぁちゃんの足を布で固定し、必死に看病を続けていた。
息を切らして戻ってきた俺を見るなり、セレナが顔を上げ、感情を爆発させる。
「レイ! どこにいってたのよ! おばあちゃん、大変なのよ!」
その声には、一番助けてほしい時にいなかった俺への怒りと、不安が入り混じっていた。
「……ごめん」
言い訳なんて、できるはずがない。
助けるために走ったなんて、結果を出せなかった今の俺が言える言葉じゃない。
俺は黙ってばぁちゃんの小さな背中を背負い上げた。
背中に伝わる痛々しい熱と、ばぁちゃんの押し殺したような呻き声が、俺の無力さを容赦なく抉ってくる。
取り返しのつかない重い現実が、音を立てて俺の肩にのしかかっていた。




