第3話 : 冷や汗
「レイ? どうしたの、そんな顔して」
いつもの広場。
夕暮れの空の下で、セレナは不思議そうに小首を傾げた。
その瞳には、今日の昼間に俺が経験した絶望の影は微塵もない。
「いや……なんでもない。ただ、お前が無事でよかったなって」
「変なの。私に何かあるわけないじゃない。……あ、お父さん今日いいお肉買ってきてくれるんだって! レイも後で食べに来るよね?」
「ああ。楽しみにしとくよ」
無邪気に笑うセレナを見送りながら、俺は胸の奥で小さく息を吐いた。
おじさんは無事に帰ってくる。
あの悲惨な崩落事故は、確かに起こったというのに。
セレナにとっては、ただの『いつも通りの日常』だ。
だが、俺だけは違う。俺は1人、いつも通りの日常を送れずにいた。
時間が巻き戻っている感覚。
そして、絶望的な未来をこの手で変えたという明確な自覚。
◇
夜。
俺はばぁちゃんの目を盗んで、1人工房に籠っていた。
炉の火は落としてある。
静まり返った薄暗い部屋の中で、俺は今日起こった異常な事象を必死に思い返していた。
(落ち着け。冷静になれ)
偶然、奇跡が起きて時間が戻った?
いや、そんなおとぎ話みたいな話があるわけない。
トリガーとなった『何か』が必ずあるはずだ。
俺の行動。
巻き戻る直前の記憶。
「……あれしかない」
視線を落とす。
工房の土間の隅。
いつも、無力な自分への戒めのように打ち付け続けていた鉄の楔。
それを怒りに任せて引き抜いた瞬間、世界は白い光に包まれたのだ。
仮説は立った。
あとは、自分で解き明かすだけだ。
「よし、誰もいないな」
俺はハンマーを手に取り、いつものように新しく作った鉄の楔を、力強く土間に打ち込んだ。
カンッ!
これでよし、と。
次に俺は、作業台の端に置いてあった古い小瓶を手に取った。
「……おらよっと」
手首のスナップを利かせて、土間の反対側へ放り投げる。
ガシャンッ! という派手な音と共に小瓶は粉々に砕け散り、破片が床一面に撒き散らされた。
「よし、これでいい」
取り返しのつかない事象を、意図的に作り出した。
俺はゆっくりと歩み寄り、先ほど打ち込んだばかりの鉄の楔の前に立つ。
「……ちょっと怖いけど、やってみるか」
ごくり、と唾を飲み込む。伸ばした手が、微かに震えていた。
これがただの勘違いなら、俺は備品を無駄に壊したただの馬鹿だ。
だが、もし本当にこの楔が、時間を操る引き金なのだとしたら。
「……っ!」
俺はビクビクしながらも意を決して、刺さった楔を一気に引き抜いた。
ぅぅ……っ。
視界が、強烈な白い光に包まれる。
奇妙な浮遊感。内臓がふわりと浮き上がるような感覚。
そして光が収まると――そこは今と変わらず、薄暗い工房の中だった。
「……あれ? やっぱり気のせいだった、のか……?」
何も変わっていない。
そう思い、何気なく壁に掛けられた古時計を見上げた瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
針が、戻っている。
楔を引き抜く直前に確認した時間から、きっちり『2分ほど前』に。
俺は弾かれたように振り返り、工房の土間を見た。
「…………マジかよ」
さっきまで床一面に散らばっていたはずの小瓶の破片が、跡形もなく消え去っている。
いや、消えたんじゃない。
小瓶は、俺が放り投げる前と全く同じ姿で、作業台の端に元通りにちょこんと置かれていた。
紛れもない事実が、目の前にある。
俺は、自分の中に『やばすぎる能力』が宿っていることに気づいてしまった。
気温が冷え込んでいる夜だというのに、額から、背中から、嫌な汗がじわりと吹き出して止まらなかった。




