第36話:初めての実戦
突然現れた俺たちに、四匹のコボルトが一斉に振り返った。
最初に動いたのはセレナだった。
棍棒を振り上げた一匹へ一気に距離を詰め、赤く輝く剣を横薙ぎに振り抜く。付与魔法によって熱を帯びた刃は粗末な棍棒ごと相手を弾き飛ばし、コボルトの小さな身体が地面に転がった。
その横では、別の一匹が俺へ短剣を突き出してくる。
正面から受ける必要はない。
身体を半歩ずらして刃をかわし、その腕を横から払う。体勢を崩したところで足を引っかけて地面へ倒し、起き上がる前に急所へ短剣を突き込んだ。
これで一匹。
セレナも二匹目と斬り結んでいる。
問題は最後の一匹だった。
仲間が次々と倒されたことで怯んだのか、コボルトは一瞬だけ周囲を見回し、俺とセレナではなく、その後ろにいるリリアへ目を向けた。
「ギャウッ!」
甲高い声を上げ、リリアへ向かって走り出す。
「リリア!」
俺が叫んだ瞬間、彼女の身体が目に見えて強張った。
昨日の訓練では絶対に味わえなかった、本物の殺意が自分へ向けられている。
逃げてもいい。
むしろ今日の目的だけを考えるなら、それで構わない。
俺はすぐに地面を蹴り、二人の間へ割って入れる位置を取ろうとした。
その時。
リリアが震える両手で杖を前へ向けた。
「こ、来ないで……!」
攻撃魔法は出ない。
そもそも今のリリアには使えない。
それでも彼女は目を閉じなかった。
迫ってくるコボルトを見たまま、震える足で地面を踏みしめている。
俺はその姿を視界に捉えながら、一気に間へ滑り込んだ。
コボルトが振り下ろした短剣を自分の短剣で横へ弾き、そのまま腹へ蹴りを叩き込む。小さな身体がよろめいたところへ、二匹目を仕留めたセレナが横から踏み込み、剣の腹で頭を打ち抜いた。
鈍い音を立て、最後の一匹が地面へ倒れた。
そこでようやく、森に静けさが戻った。
荒くなった俺たちの呼吸と、風で木の葉が擦れ合う音だけが耳に残る。
俺はすぐに周囲を見回した。
新しい魔物の気配はない。
四匹とも動かない。
「終わったぞ」
振り返ると、リリアはまだ杖を前へ向けたまま固まっていた。
「リリア。もう大丈夫だ」
俺がゆっくり近づくと、ようやく杖が下がった。
「……終わった、のですか?」
「あぁ」
そう答えた途端、それまで張り詰めていた糸が切れたようにリリアの膝から力が抜けた。
俺は慌ててその肩を支え、そのまま無理に立たせず、近くの木の根元へゆっくりと座らせる。
「す、すみません……」
「だから謝らなくていいって」
差し出した水筒を、リリアはまだ少し震える両手で受け取った。
顔色は悪い。
呼吸もまだ完全には整っていない。
けれど、その蒼い瞳には先ほどまでとは違う色があった。
怖かった。
何もできなかった。
それでも、逃げなかった。
おそらく本人もまだ、そのことをどう受け止めればいいのか分かっていないのだろう。
セレナも剣についた汚れを丁寧に拭ってから、リリアの隣へ腰を下ろした。
「大丈夫?」
「はい……」
「怖かった?」
リリアは水筒を抱えたまま、素直に頷いた。
「……すごく」
「そりゃそうよ。私も最初は怖かったし」
「レナさんも……?」
「当たり前でしょ。私を何だと思ってるのよ」
セレナは苦笑しながら、昔のことを思い出すように少し遠くを見る。
「最初なんて、スライムが急に飛び跳ねただけで悲鳴上げたんだから」
「お前、それ自分から言っていいのか?」
「レイ!」
「いや、俺は黙ってたぞ」
「今言ったじゃない!」
二人のやり取りを聞いていたリリアが、小さく吹き出した。
まだ震えは完全には止まっていない。
それでも、笑うことはできた。
俺はその表情を確認してから、今日の依頼はここまでにしようと決めた。
討伐数は四匹。
依頼の達成条件はすでに満たしている。
何より、リリアは初めて本物の魔物を前にして、自分の意思で杖を握った。
一度は付与に失敗した。
怖いと認めた。
それでも二度目には成功させ、最後には自分へ向かってくる魔物から目を逸らさなかった。
戦力としてどれほど使えるのかを判断するには、まだ早い。
今日一日でそこまで求めるつもりもなかった。
今は、この経験だけで十分だった。
「今日は帰ろう」
俺がそう告げると、セレナが少し意外そうに顔を上げた。
「もう? まだ昼前よ」
「あぁ。目的は達成した」
「でも……」
セレナは一瞬リリアを見て、それ以上は言わなかった。
リリアの方は、自分のせいで切り上げるのだと思ったのか、申し訳なさそうに視線を落とした。
「私のせいですか?」
「違う。最初から今日は様子を見るための依頼だ。それに四匹倒したんだから、仕事としても終わってる」
実際には、リリアに余裕がありそうならもう少し森を歩いてみるつもりだった。
だが、それをわざわざ伝える必要はない。
初めての実戦で限界まで疲れさせることに意味はないし、無事に帰るところまでが依頼なのだから。
「帰ったら魔石を換金して、その金で何か食おう」
俺がそう言うと、セレナが呆れた顔をこちらへ向けた。
「レイ。リリアちゃんの装備を買うんじゃなかったの?」
「全部使うとは言ってないだろ」
「お金ないんだから節約しなさいよ」
「初依頼くらい祝ってもいいだろ」
「そうやってすぐ使うからお金なくなるのよ」
「金貨六十枚使った奴に、今さら銀貨数枚で説教するなよ」
「それを反省してないって言うの!」
静かだった森の中へセレナの声が響き渡り、俺は慌てて人差し指を口元へ立てた。
「声大きいって。また魔物が来るぞ」
「誰のせいよ!」
その横で、リリアがまた笑った。
今度は先ほどよりも少しだけ大きな笑い声だった。
◇
帰りの街道では、リリアの歩調に合わせて行きよりもゆっくりと歩いた。
昼を過ぎた初夏の日差しは朝よりも力を増し、森の冷えた空気に慣れていた身体には少し眩しく感じられた。遠くには街を囲む城壁が見え、街道を行き交う荷馬車の音も少しずつ増えている。
リリアは疲れている。
歩幅も朝より小さい。
けれど、不思議とその表情は明るかった。
「レイン様」
しばらく無言で歩いていたリリアが、俺の隣から声をかけてきた。
「ん?」
「私……ちゃんとできていましたか?」
俺はすぐには答えなかった。
何をもって「ちゃんとできた」と言うべきか、少し考えたからだ。
ただ褒めるだけなら簡単だ。
だが、これから本当に俺たちと一緒に戦っていくつもりなら、できなかったことまで誤魔化してやるのは違うと思った。
「一回、付与に失敗したな」
「うっ……」
「魔物が自分に向かってきた時は、身体も固まった」
「……はい」
「戦力として見るなら、まだまだだ」
リリアの肩が目に見えて落ちる。
反対側を歩いていたセレナが、俺を責めるような目で睨んできた。
「ちょっとレイ」
「でもな」
俺はそのまま続けた。
「怖いって、ちゃんと言えた」
リリアが顔を上げる。
「戻るかって聞いた時も、俺に命令されたからじゃなく、自分でやるって決めた。一度失敗しても、もう一度魔法を使った。それに最後は、あれだけ怖かったのに魔物から目を逸らさなかった」
今日のリリアに必要だったのは、完璧に戦うことではない。
奴隷として命令されて戦わされるのでもなく、役に立たなければ捨てられるという恐怖から無理をするのでもない。
自分で行くと決める。
怖いと自分の口で言う。
それでも、もう一度やってみる。
そうやって自分自身の意思で一歩を踏み出すことの方が、今のリリアにとってはずっと大切なのだと思う。
「だから、初めてなら十分だ」
リリアはしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少し目元を緩めると、胸の前で大切そうに杖を抱え直した。
「……ありがとうございます」
「次はもう少し厳しくするけどな」
「はい」
今度の返事には、朝にはなかった小さな力強さがあった。
「ねえ、リリアちゃん」
セレナが反対側から声をかける。
「今度、剣の避け方くらい教えてあげる」
「剣を……ですか?」
「攻撃できなくても、自分を守れる方がいいでしょ。今日みたいに突っ立ってたら危ないし。それに、毎回レイが助けに入れるとは限らないもの」
「よろしいのですか?」
「別にいいわよ。それくらい」
「ありがとうございます、レナさん」
セレナは一瞬だけ何かを言いたそうな顔をした。
おそらく、また『さん』はいらないと言いたかったのだろう。
けれど結局、何も言わずに小さく肩をすくめた。
「……まあ、今日はそれでいいか」
リリアは意味が分からないのか、不思議そうに首を傾げている。
俺はその様子を横目で見ながら、口には出さずに笑った。
昨日より今日。
今日より明日。
少しずつでいい。
ファミリアの結成だって、王立学校だって、その先にある俺の目的だって、一日や二日で辿り着けるようなものではない。
俺の時の楔は、時間を巻き戻すことができる。
失敗した未来をなかったことにして、同じ場所から何度でもやり直すことができる。
けれど、人と人との間に積み重なっていく時間だけは、そうやって簡単に近道をしていいものではないのかもしれない。
リリアが俺たちを信じるまでの時間。
セレナがリリアを仲間として受け入れるまでの時間。
そして三人が、本当の意味で互いに背中を預けられるようになるまでの時間。
それは何度ロードしたところで、俺の記憶だけでは作れない。
今この時間を、三人で一緒に積み重ねていくしかないのだ。
少し前を歩くセレナが、道端に咲いていた月光花を見つけてリリアへ何かを話している。
朝にも見た花だった。
けれど今度はリリアの方から何かを尋ね、セレナが得意そうに答えていた。
二人の足取りはまだ完全には揃っていない。
それでも、朝より少しだけ距離が近い。
まだファミリアではない。
三人とも、本当の意味で仲間になったとも言い切れない。
それでも今日、俺たちは初めて三人で同じ依頼を受け、同じ森へ入り、同じ魔物と向き合い、そして三人とも無事に帰ってきた。
何か大きなものを手に入れたわけではない。
ランクが上がったわけでもない。
世界が変わったわけでもない。
ほんの小さな一歩だ。
けれど、こういう何でもない一日を一つずつ積み重ねていった先にこそ、俺が作りたいファミリアがあるのだと思う。
初夏の爽やかな風が街道を吹き抜け、俺たち三人の髪を揺らしていく。
遠くに見えていた街の城壁は、いつの間にか随分と近くなっていた。
俺は少し先を歩く二人の背中を追いながら、急ぐことなく、その後ろを歩き続けた。




