第35話:依頼
リリアの付与魔法を検証した翌朝。
街の冒険者ギルドは、朝早くから大勢の冒険者たちで賑わっていた。
石造りの広い建物の中には、依頼を探す者、昨日受けた仕事の報告をする者、これから街の外へ向かう仲間を待つ者などが入り乱れている。
受付の前にはすでにいくつもの列ができており、壁一面に設置された依頼掲示板の周囲にも、武器や防具を身につけた冒険者たちが群がっていた。
酒と汗、それに革製の防具へ塗り込まれた油の匂い。
朝だというのに併設された酒場の方からは大きな笑い声が聞こえ、昨日の稼ぎをそのまま飲み代に変えているらしい冒険者までいる。
何度来ても騒がしい場所だ。
ただ、Fランクだった頃とは少しだけ見える景色が違っていた。
「Eランクは……こっちか」
俺は壁に掲げられた木札を確認し、その下に貼られた依頼書へ順番に目を走らせていく。
Fランクで受けられた仕事の大半は、街中の雑用や簡単な採取だった。荷物運び、清掃、薬草集め、店番。危険を伴うものでも、街の近郊に出る弱い魔物の痕跡調査くらいで、基本的には戦闘を避けることが前提になっている。
しかしEランクになると、その内容が明確に変わる。
害獣駆除、商人の護衛、危険地域での採取。そして、魔物の討伐。
ようやく冒険者らしい仕事が並び始める代わりに、当然ながら命を落とす危険も一気に高くなる。報酬の額が少し増えているのも、それだけ危険を引き受けるという意味なのだろう。
「ねえレイ。これなんかどう?」
俺の横で掲示板を眺めていたセレナが、一枚の依頼書を指差した。
「ゴブリン五体以上の討伐。報酬は銀貨――」
「却下」
「まだ最後まで読んでないんだけど!」
「今日はリリアの初めての依頼だぞ。いきなりゴブリンの群れに突っ込ませてどうするんだ」
「でも、昨日の訓練じゃコボルト一匹を想定してたじゃない」
「だからだよ。最初の実戦なら、せめて俺たちだけでも余裕を持って対処できる相手にしたい。昨日できたからって、いきなり五匹以上の群れは飛ばしすぎだ」
「むぅ……」
セレナが不満そうに頬を膨らませる。
俺はそんな幼馴染を放っておき、再び掲示板へ視線を戻した。
今日の目的は、単純に金を稼ぐことだけではない。
もちろん競売でほとんどの金を使い切った以上、当面の生活資金は必要だ。
リリアの服も揃えたいし、まともな防具も必要になる。昨日使っていた傷だらけの杖だって、できることなら早いうちに新しいものへ替えてやりたい。
だが、それ以上に確認しておきたいことがあった。
昨日の訓練で、リリアの付与魔法が俺たちの予想以上に有用であることは分かった。
しかし、動かない木材を相手に魔法を使うことと、こちらを殺そうとしてくる魔物を前にして同じことができるかは、まったく別の話だ。
恐怖で身体が動かなくなるかもしれない。
詠唱が途中で止まるかもしれない。
俺やセレナの動きを見失うかもしれない。
そういったものは、実戦に出てみなければ分からない。
だから今日は、できるだけ危険度が低く、それでいて最低限の戦闘経験を積める依頼がいい。
「……これかな」
俺は一枚の依頼書を剥がした。
『東の森浅層部におけるコボルトの間引き』
数日前から森の浅い区域でコボルトの目撃数が増えており、街道へ出てくる前に数を減らしてほしいという依頼だった。
最低討伐数は三体。
群れの規模が大きい場合は無理に戦わず、ギルドへ報告すること。
報酬そのものは高くないが、討伐したコボルトから魔石を回収できれば、それも別途換金できる。
「昨日想定訓練したコボルトじゃない」
「三体程度なら俺とレナだけでも対処できる。それに、群れが大きければ戦わずに戻ればいい」
「私一人でも余裕よ」
「そういう油断する奴から死ぬんだよ」
「分かってるわよ」
口ではそう言いながらも、セレナは少し楽しそうだった。昔から身体を動かすことが好きな奴だから、昨日一日じっくりと魔法の検証に付き合わされた反動もあるのかもしれない。
「リリアはどう思う?」
俺は少し後ろに立っていたリリアへ声をかけた。
「……私、ですか?」
「あぁ」
「レイン様がお決めになったのでしたら、私はそれで――」
そこまで言って、リリアが口を閉じた。
俺も何も言わずに待った。
昨日までなら、そのまま「従います」と続けていただろう。けれどリリアは手元の依頼書を見つめ、少しだけ考えるような間を置いた後、自分自身へ言い聞かせるように小さく息を吸った。
「……行ってみたいです」
「そっか」
俺はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しかった。
行ってみたい。
たったそれだけの言葉だ。
けれど奴隷として長い間、自分で何かを選ぶことさえ許されなかったリリアにとっては、その短い一言を口にすること自体が、小さくても確かな前進なのだと思う。
「じゃあ、これにしよう」
俺は依頼書を手に、三人で受付へ向かった。
◇
依頼を受理してもらった俺たちは、そのまま街の東門を抜けて森へ向かった。
昨日訓練をした草原よりさらに東へ進んだ場所にある森で、街から歩いて一時間ほどの距離にある。
空は昨日に引き続きよく晴れていた。初夏の陽射しは朝から明るく、街道沿いには青々とした草の間から小さな白い花が顔を覗かせている。
時折吹き抜ける風にはまだ心地よい涼しさが残っており、すれ違う荷馬車の車輪が乾いた土を踏みしめるたび、舞い上がった砂埃がその風に乗って流れていった。
俺とセレナにとっては見慣れた道だ。
だが、リリアにとっては違うらしい。
歩きながら、何度も周囲を見回している。道端に咲く花、遠くに見える山、畑で働いている農民、青い空を横切っていく鳥。その一つ一つを、まるで長い間忘れていたものを確かめるように眺めていた。
「珍しいか?」
俺が尋ねると、リリアは少し恥ずかしそうに俯いた。
「すみません。きょろきょろしてしまって」
「謝ることじゃないだろ」
「奴隷になってからは、街の外へ出る時も馬車の中でしたので……こうして自由に歩くのは、随分久しぶりです」
俺は一瞬、何も言えなくなった。
俺たちが何気なく歩いているこの街道でさえ、リリアにとっては当たり前のものではなかった。
「じゃあ、ゆっくり行こう」
「ですが、依頼が……」
「急ぐような依頼じゃない。それに森に入ったら、景色なんて見てる余裕なくなるぞ」
「……はい」
リリアが小さく笑う。
すると少し前を歩いていたセレナが、こちらを振り返った。
「リリアちゃん、あれ」
「はい?」
セレナが道端を指差す。
小さな黄色い花が群生していた。
「月光花。夜になると花びらが青く光るのよ」
「そうなのですか?」
「薬にも使えるから、採取依頼が出ることもあるわ。まあ、この辺のはまだ小さいから採っちゃダメだけど」
「詳しいのですね、セレナさん」
「レナでいいって言ったでしょ」
「……レナさん」
「さんもいらないって言ったんだけどなぁ」
「それは、まだ少し……」
「まあいいけど」
セレナはそう言いながら、どこか満更でもなさそうだった。
昨日より、また少しだけ二人の会話が増えている。
無理に距離を縮める必要なんてない。
俺は二人の少し後ろを歩きながら、時折聞こえてくる他愛のない会話を聞いていた。
◇
森へ入ったところで、空気が変わった。
頭上を覆う木々の葉によって日差しが遮られ、先ほどまで暖かかった空気が一気に冷たくなる。湿った土と苔の匂いが鼻をつき、鳥の声に混じって、どこか遠くから獣の鳴き声も聞こえてきた。
俺は自然と腰の短剣へ手を置いた。
「ここからは遊びじゃない」
セレナの表情も変わる。
先ほどまでリリアと花の話をしていた少女とは思えないほど、鋭い目で森の奥を見据えていた。
「リリア」
「はい」
「俺たちから離れないこと。何か見つけても一人で動かない。怖くなったら怖いって言え。無理だと思ったらすぐ下がれ」
「……はい」
「それと、一番大事なこと。自分の命を最優先にしろ」
リリアが少しだけ目を見開いた。
「俺やレナを助けようとして、無茶なことはするな。俺たちは自分で自分を守れる。今日のリリアの役目は、俺たちを助けることじゃない」
「では……私は何を?」
「実戦を経験することだ」
俺は森の奥へ目を向けたまま答えた。
「魔物を見て、怖いと思って、それでも魔法を使えるか試す。それだけでいい。昨日みたいに上手くできなくても構わないし、一度も魔法が使えなかったとしても、それで失敗ってわけじゃない」
リリアはすぐには答えなかった。
役に立たなければ捨てられる。
働かなければ価値がない。
おそらく彼女の中には、長い奴隷生活の中で染みついたそんな恐怖が、俺が思っている以上に深く残っているのだろう。
だから、急いで変えようとは思わない。
何もしなくてもここにいていい時がある。
失敗したからといって、見捨てられるわけではない。
それは言葉で何度説明するより、これからの日々の中で少しずつ経験してもらうしかないのだと思う。
「……分かりました」
しばらくして、リリアが小さく頷いた。
完全に納得した顔ではなかった。
それでも今は、それで十分だった。
◇
最初の痕跡を見つけたのは、セレナだった。
「レイ」
先ほどまでとは違う低い声に、俺はすぐ足を止めた。
セレナが指差した先には、柔らかい土の上にいくつかの小さな足跡が残されている。
俺はしゃがみ込み、土の崩れ方や周囲に折れた草を確認した。
「コボルトだな。たぶん四匹」
足跡はまだ新しい。
それほど時間は経っていないはずだ。
「追う?」
セレナが剣の柄に手を添えながら尋ねる。
「少しだけ。群れが大きそうならすぐ撤退する」
コボルトは一匹一匹なら、それほど強い魔物ではない。
しかし森の中では木々や茂みを利用して死角へ回り込み、数で囲んでくることがある。Eランクになったからといって、何も考えず突っ込んでいい相手ではない。
俺たちは声を抑え、足跡を追った。
数分も進むと、風に混じって獣臭が漂ってきた。
近い。
俺は片手を上げて二人を止め、ゆっくりと茂みの隙間から向こう側を覗き込んだ。
三匹。
少し離れた木の根元にもう一匹。
合計四匹。
どれも粗末な革を身体へ巻きつけ、手には錆びた短剣や木の棍棒を持っている。幸い、周囲にさらに仲間がいる気配はなかった。
「四匹で間違いない」
小声で伝えると、セレナが静かに頷いた。
その横で、リリアの表情が明らかに強張っていた。
杖を握る両手に力が入り、細い指先が白くなっている。昨日の草原で魔法を試していた時には見せなかった表情だった。
「リリア。怖いか?」
「……はい」
返事は僅かに震えていた。
それでも「大丈夫です」と取り繕わなかったことに、俺は少し安心した。
「戻るか?」
リリアはすぐには答えなかった。
茂みの向こうのコボルトを見る。
俺を見る。
セレナを見る。
最後に、自分が握っている杖へ視線を落とした。
「……やります」
小さな声だったが、今度ははっきりと自分で選んだ答えだった。
「分かった。付与はレナの剣一本だけでいい」
「はい」
「俺が一匹引きつける。レナは二匹。残りがリリアへ向かったら、俺が止める」
「任せて」
セレナが静かに剣を抜く。
リリアも杖を持ち上げ、セレナの剣へ先端を向けた。
「炎よ、その刃に……宿りて……」
しかし、昨日なら簡単にできていたはずの詠唱が途中で揺らいだ。
淡い赤色の光が一瞬だけ杖の先に現れたものの、セレナの剣へ届く前に霧のように消えてしまう。
「……っ。す、すみません!」
リリアの顔から血の気が引いた。
「大丈夫。もう一回」
「でも……」
「まだ気づかれてない。焦るな」
俺はできるだけ普段と同じ声で言った。
昨日と今日の違いは明白だった。
目の前に木材が置いてあるだけなら、失敗しても何も起こらない。
けれど今、茂みの向こうにいる四匹は、こちらに気づけば武器を持って襲いかかってくる。
頭で分かっているだけでも、身体は簡単に言うことを聞かなくなる。
「リリア。俺を見ろ」
蒼い瞳がこちらを向く。
「失敗しても何も起きない。魔法が出なかったら、俺とレナだけで戦う。それだけだ」
「……はい」
「成功させようとしなくていい。昨日と同じことをやれ」
セレナも剣を構えたまま、小さく笑った。
「そうよ。別にあんたの魔法がなくても、このくらい私一人で倒せるし」
「それは言いすぎだ」
「何よ」
「四匹全部は任せないからな」
「できるわよ」
「静かにしろって」
俺たちの小声のやり取りを見ていたリリアの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
張り詰めていた肩から少しだけ力が抜ける。
「……もう一度、やります」
今度は一度目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えてから杖を構えた。
「炎よ、その刃に宿りて、力を与えよ――【ファイアエンチャント】」
淡い赤色の光が生まれ、細い糸のようにセレナの剣へ絡みつく。
刀身が赤く輝いた。
「できた……」
「よし。行くぞ」
俺とセレナは同時に茂みを蹴った。




