第33話:幼馴染と銀髪の少女
「その子……誰?」
工房の入口に立ったまま、セレナは低い声でもう一度そう尋ねた。
いつもなら朝から騒々しいくらい元気な幼馴染が、今は妙に静かだった。
視線の先にいるのは、コハクの隣でパンを両手に抱えたリリア。昨日まで奴隷だった彼女には着替えなどなく、今も少しくたびれたローブを身に纏っている。
そして、その銀色の髪の少女が俺の家で、まるで当たり前のように朝を過ごしている。
……まあ、何も知らないセレナからすれば、意味の分からない光景だろう。
「とりあえず中に入れよ。ちゃんと説明するから」
「説明ねぇ……」
セレナはじっと俺を睨みながら工房へ入ってきた。
バタン、と扉が閉まる。
その音に驚いたのか、リリアの肩が小さく跳ねた。
「大丈夫だよ」
俺が声をかけると、リリアは小さく頷いたものの、俺の背中へ隠れるように一歩移動した。
その様子を見て、セレナの眉がぴくりと動く。
「……なんでレイの後ろに隠れるのよ」
「お前が怖い顔してるからだろ」
「怖い顔なんてしてないわよ!」
「してるって」
「してない!」
朝から面倒なことになった。
俺たちのやり取りを見ていたばぁちゃんが、台所で呆れたようにため息をつく。
「朝っぱらから騒ぐんじゃないよ。近所迷惑だろう」
「だって、ばぁちゃん!」
「だっても何もないよ。話があるなら座ってしな」
ばぁちゃんには逆らえない。
セレナはまだ納得していない顔をしていたが、渋々テーブルの椅子へ腰を下ろした。
俺も向かいに座る。
問題はリリアだった。
彼女は俺の後ろに立ったまま、座ろうとしない。
「リリアも座れよ」
「私はここで結構です」
「またそれか」
「レイン様のお話を邪魔するつもりはありませんので」
俺が困っていると、セレナが怪訝そうな顔をした。
「……レイン様?」
嫌なところを拾われた。
「そこも含めて説明する」
「ふーん」
セレナの目が細くなる。
なぜだろう。
別に悪いことをしたわけじゃないのに、ものすごく居心地が悪い。
◇
俺は昨日の出来事を、話せる範囲でセレナに説明した。
以前、街で酷い扱いを受けていた奴隷の少女がいたこと。
その少女がリリアであること。
奴隷商人を通して売りに出されると知り、どうにか助けられないかと考えていたこと。
そして昨日、競売に参加し、金貨六十枚で彼女を買い取ったこと。
もちろん、時の楔については話していない。
俺が何度も時間を巻き戻し、金貨六十枚を用意するためにどれだけの試行錯誤を繰り返したのかも伏せた。セレナからすれば、俺が何らかの方法で大金を用意し、そのほとんどを一日で使い切って帰ってきたようにしか見えないはずだ。
話を聞き終えたセレナは、しばらく何も言わなかった。
腕を組み、眉間に深い皺を寄せている。
「……金貨六十枚?」
「あぁ」
「全部?」
「ほぼ全部」
「今、いくら残ってるの?」
「…………」
「レイ?」
「……ほとんどない」
セレナが大きく息を吸った。
まずい。
「この……大馬鹿ぁぁぁぁぁっ!」
「痛ぇ!」
テーブル越しに拳が飛んできた。
寸前で避けたものの、その勢いで椅子ごと後ろへ倒れそうになる。
「何すんだよ!」
「何すんだよじゃないわよ! 金貨六十枚よ!? 六十枚! あんたがどれだけ苦労して貯めたと思ってるのよ!」
「俺の金だろ!」
「そういう問題じゃない!」
セレナは立ち上がり、テーブルを叩いた。
「それだけじゃないわ。裏の競売なんて、どんな連中がいるか分からない場所に一人で行ったんでしょ? もし変な奴に目をつけられてたらどうするのよ!」
「それは……」
「下手したら、今頃あんたまで奴隷になってたかもしれないのよ!」
怒鳴るセレナの顔を見て、俺は言葉に詰まった。
単に金の使い方に腹を立てているわけではない。
俺が危険な場所へ一人で行ったことを、本気で心配しているのだ。
昔からそうだ。
セレナは怒る時ほど声が大きくなる。そして本当に心配している時ほど、さらに怒る。
「……悪かった」
俺が素直に謝ると、セレナは一瞬だけ面食らった顔をした。
「な、何よ。急に素直になって」
「心配してくれてるんだろ」
「べ、別にそういうんじゃ……」
「じゃあ謝らなくていいか」
「そこは謝りなさいよ!」
どっちなんだ。
俺が苦笑すると、セレナも毒気を抜かれたのか、ようやく椅子へ座り直した。
「ほんっと、昔から変なところで無茶するんだから……」
小さく呟く。
その時だった。
「……申し訳ありません」
俺の後ろから、か細い声が聞こえた。
振り返る。
リリアが深々と頭を下げていた。
「私のせいで……レイン様が大切なお金を失ってしまいました」
「違うって。俺が勝手に使ったんだ」
「ですが……」
「リリアが謝ることじゃない」
そう言った俺とは対照的に、セレナは何も答えなかった。
ただ、じっとリリアを見ている。
その視線に気づいたリリアは、さらに身体を固くした。
◇
「それで」
ひとしきり俺を叱り終えた後、セレナは改めてリリアへ向き直った。
「あなたが、リリアちゃん?」
「……はい」
「歳は?」
「十八です」
「私たちと同じくらいね」
「はい」
まるで尋問だ。
リリアもそう感じているのか、背筋を伸ばして一つ一つの質問へ答えている。
「魔法使いなんだっけ?」
「一応は……」
「一応?」
リリアが少し俯く。
「攻撃魔法を上手く扱えません。今の私に使えるのは、付与魔法くらいです」
「付与魔法……武器を強くしたりするやつ?」
「はい」
セレナは顎に手を当て、少し考え込んだ。
剣士である彼女にとって、武器を強化する付与魔法は決して無関係な能力ではない。だが、だからといってすぐに警戒を解くつもりもないらしく、再びリリアへ視線を向ける。
「レイに、変なことされてない?」
「は?」
思わず声が出た。
「レイには聞いてない」
「いや、なんで俺が変なことする前提なんだよ」
「いいから黙ってて」
理不尽だ。
リリアは質問の意味が分からなかったのか、きょとんとしていた。
「変なこと……でしょうか?」
「その……無理やり触られたりとか、嫌なことをさせられたりとか」
「ありません」
即答だった。
「レイン様は、とてもお優しい方です」
「……そう」
「昨夜も、私が夜のお世話を申し出たのですが、必要ないと仰ってくださいました」
「…………」
セレナの動きが止まった。
俺も止まった。
「リリア」
「はい?」
「それは言わなくていい」
「ですが、事実です」
「事実だけど!」
セレナがゆっくりこちらを見る。
「夜の……お世話?」
「違う!」
反射的に叫んだ。
「何もしてない! 本当に何もしてないからな!」
「まだ何も言ってないんだけど」
「顔が言ってる!」
「へぇー」
明らかに疑っている。
「本当です」
リリアが俺を庇うように一歩前へ出た。
「レイン様は、私に指一本触れていません。それどころか、私にベッドを譲ってくださり、ご自身は床で眠ってくださいました」
「…………ベッドを譲った?」
「はい」
セレナが俺を見る。
さっきとは違う意味で目が細くなった。
「同じ部屋で?」
「家に部屋がないんだから仕方ないだろ」
「ふーん」
「なんだよ」
「別に」
絶対に何かある。
だが、それ以上追及しても面倒になるだけだと判断し、俺は話題を変えることにした。
「とにかく、俺はリリアに酷いことなんてしてない。そこは分かっただろ?」
「それは……まあ、リリアちゃん本人がそう言うなら」
セレナはまだ少し不満そうだったが、ようやく頷いた。
「でも」
その声色が変わった。
「それと、信用できるかどうかは別だから」
リリアの表情が固まる。
「レナ」
「レイは黙ってて」
セレナは真っ直ぐにリリアを見た。
「別に、あなたが奴隷だから信用しないって言ってるわけじゃない。そこは勘違いしないで」
「……はい」
「私が信用できないのは、あなたのことを何も知らないから」
セレナの言葉は厳しい。
けれど、筋は通っていた。
「昨日までどこで何をしてたのかも、どういう人なのかも、何を考えてるのかも知らない。それなのにレイは、あなたを家に連れてきて、一緒に暮らそうとしてる」
「…………」
「レイは昔から、困ってる人を見ると後先考えずに首を突っ込むから」
「おい」
「本当のことでしょ」
否定できない。
セレナは再びリリアを見る。
「だから私は、あなたをすぐには信用しない」
リリアが僅かに俯いた。
その顔を見て、俺は口を挟みそうになった。
だが、やめた。
これは俺が間に入ってどうにかする話じゃないのかもしれない。
「……承知しました」
しばらくして、リリアが答えた。
「私も、セレナさんのことを何も知りませんので」
予想していなかった返答だったのか、セレナが目を丸くする。
リリアは胸元で両手を重ねたまま、続けた。
「ですから……私のことも、ゆっくり知っていただければと思います」
「…………」
「私は、レイン様に拾っていただいた恩を返したいだけです。レイン様に害を与えるつもりはありません」
その言葉を聞いて、セレナの眉が僅かに動いた。
「拾ってもらった、ね」
「はい」
「レイは犬や猫を拾ってきたんじゃないのよ」
「……え?」
「人間なんだから」
リリアが目を見開いた。
「だから、そんな言い方しなくていいんじゃない?」
それだけ言うと、セレナはぷいっと顔を逸らした。
「まあ、私が言うことじゃないけど」
「…………」
リリアは何も答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ驚いた顔でセレナを見ていた。
完全に打ち解けたわけではない。
むしろ二人の間には、まだはっきりとした壁がある。
それでも俺には、今のやり取りでその壁に小さな隙間ができたような気がした。
◇
「それで、レイ」
「ん?」
「これからどうするの?」
昼が近づき、ばぁちゃんが台所で昼食の準備を始めた頃。
セレナがようやく本題を切り出した。
「昨日までの予定なら、ファミリアを作るための三人目を探すって話だったじゃない」
「あぁ」
俺はリリアを見る。
三人目。
人数だけを考えれば、もう条件は満たしている。
俺、セレナ、リリア。
これでファミリアを結成すること自体は可能だ。
だから昨日までの俺なら、すぐに手続きを進めようと考えていたかもしれない。
だが、今朝からのリリアを見ていると、それでいいのかという疑問が湧いていた。
床で眠っていた。
食事は主人が食べてから。
パンを夜のために隠していた。
家事をすることを「役に立つための仕事」だと考えている。
そして今も、自分のことを俺に拾われた奴隷だと思っている。
そんな状態のリリアに、いきなり「今日から俺たちは命を預け合う仲間だ」と言ったところで、それは俺が勝手に新しい役割を与えるだけなのではないか。
「……少し待とうと思ってる」
「え?」
セレナが意外そうな顔をした。
リリアも俺を見る。
「ファミリアの結成だよ」
「どうして?」
「リリアは昨日ここへ来たばかりだ」
俺は椅子の背もたれへ身体を預けた。
「俺たちのことも、この家のことも、この街のことだってほとんど知らない。それなのに、いきなりファミリアへ入ってくれっていうのは、ちょっと違う気がしてきた」
「私は構いません」
リリアがすぐに答えた。
「レイン様がお望みでしたら、私は――」
「ほら、それだよ」
「……?」
「俺が望むから、じゃなくてさ」
リリアが黙る。
「リリア自身が入りたいと思ってからでいい」
俺は自分でも上手く説明できているのか分からなかったが、今朝ばぁちゃんに言われたことを思い出しながら言葉を続けた。
「ファミリアって、たぶんそういうものだろ。少なくとも俺は、命令したから一緒に戦ってくれるような仲間を作りたいわけじゃない」
「…………」
「だから、急がなくていい」
リリアは答えなかった。
セレナも黙って俺を見ている。
「その間に、リリアの服とか装備も揃えたい。今のままじゃ外を歩くのも大変だろ」
リリアのローブを見る。
競売から連れて帰ってきた時のままだ。
何度か洗われた形跡はあるが、布は擦り切れ、ところどころ補修されている。肩口には小さな破れまであった。
「それに……」
俺は懐の革袋を持ち上げた。
振る。
何の音もしない。
「俺の財布が完全に死んでる」
「自業自得」
セレナが即答した。
「ぐうの音も出ない」
「まずはお金を稼がないとね」
「あぁ。鍛冶の仕事だけでも最低限の生活はできるけど、装備を三人分揃えたり、王立学校の準備をしたりするなら足りない」
俺は少し考える。
「だから、しばらくはギルドのEランククエストをこなそうと思ってる」
「Eランク……」
セレナの表情が僅かに引き締まった。
Fランクの頃とは違い、Eランクになると討伐依頼の危険度も上がる。命を落とす可能性だって、当然ある。
「リリアを連れて行くの?」
「それは――」
答えようとした時だった。
「行きます」
リリアが言った。
俺とセレナが同時に彼女を見る。
「リリア?」
「私も、連れていってください」
その声は小さい。
けれど、これまでのような「命令に従います」という返事とは、どこか違って聞こえた。
「危険だぞ」
「分かっています」
「昨日までまともに戦闘なんてしてないんだろ?」
「……はい」
「なら――」
「それでも」
リリアは胸元で両手を握りしめた。
「行ってみたいです」
俺は口を閉じた。
行けと言ったわけじゃない。
役に立てとも言っていない。
リリアが自分から「行きたい」と言った。
ほんの小さなことなのかもしれない。
それでも、今朝からずっと彼女を見てきた俺には、その一言が妙に大きなものに感じられた。
「……そっか」
俺は笑った。
「じゃあ、いきなり危険な依頼には行かない。まずはリリアの魔法がどんなものなのか、俺たちもちゃんと知っておこう」
「はい」
「明日は街の外で軽く訓練だな」
「私も付き合うわ」
セレナが言った。
「いいのか?」
「いいも何も、レイ一人じゃ不安だもの。それに――」
セレナはちらりとリリアを見る。
「この子が本当に一緒に戦えるのか、私も自分の目で確認したい」
相変わらず言い方は厳しい。
リリアもそれを感じたのか、少しだけ身体を固くした。
それでも逃げることなく、セレナを見返した。
「よろしくお願いします、セレナさん」
「……レナでいいわよ」
「え?」
「レイがそう呼んでるから。セレナさんなんて、なんかむず痒いし」
リリアは戸惑ったように俺を見る。
「俺に聞くなよ」
「……では、レナさん」
「さんもいらない」
「ですが……」
「まあ、そこはそのうちでいいわ」
セレナはそう言って、小さく肩をすくめた。
二人が仲良くなったとは、とても言えない。
セレナはまだリリアを信用していないし、リリアもセレナの前では緊張している。
でも。
それでいいんだと思う。
昨日出会ったばかりなのだから、いきなり家族のように笑い合う方がおかしい。
時間をかければいい。
俺も。
リリアも。
セレナも。
これから少しずつ、お互いのことを知っていけばいい。
◇
昼食を終え、セレナが帰った後。
俺は工房で明日の訓練に使う短剣の手入れをしていた。
リリアはコハクと一緒に少し離れた場所へ座り、何やら小声で話しかけている。
「コハク。明日は私も外へ行くそうです」
「ワン」
「ちゃんと戦えるでしょうか……」
「ワン」
「そうですよね。頑張らないといけませんよね」
「ワンッ」
会話が成立しているように見えるのは気のせいだろうか。
俺が思わず笑っていると、リリアがこちらを向いた。
「レイン様」
「ん?」
「一つ……聞いてもよろしいでしょうか」
「あぁ」
少し迷ってから、リリアは尋ねた。
「セレナさんは……レイン様にとって、とても大切な方なのですか?」
「レナ?」
予想していなかった質問だった。
「まあ、幼馴染だからな。小さい頃からずっと一緒だし、大切かって聞かれたら、そりゃ大切だよ」
「そう……なのですね」
リリアが何かを考えるように視線を落とす。
「どうした?」
「いえ」
小さく首を横に振る。
「覚えておこうと思いまして」
「何を?」
「レイン様にとって、大切な方のことをです」
そう言って、リリアは再びコハクの頭を撫で始めた。
俺には、その言葉の意味がよく分からなかった。
ただ、リリアの中で今日という一日が何かを変えたことだけは、なんとなく分かった。
明日は、三人で初めて外へ出る。
まだファミリアではない。
仲間と呼ぶにも、きっと早い。
それでも俺たちは、それぞれ違う理由を抱えながら、同じ方向へ一歩を踏み出そうとしていた。




