第32話:自由の意味
朝。
目を覚まして最初に感じたのは、身体の痛みだった。
「……いってぇ」
固い床の上で寝たせいで、背中から腰にかけてが妙に重い。
もっとも、床で寝ること自体は珍しくない。
セレナが泊まりに来た時なんて、あいつは当然のように俺のベッドを占領する。
俺が床へ追いやられるのは、もはやいつものことだった。
だから問題はそこじゃない。
「……リリア?」
ベッドが空だった。
毛布は綺麗に畳まれ、誰かがそこで眠っていた形跡すらほとんど残っていない。
一瞬、胸がざわつく。
まさか――逃げた?
いや。
逃げること自体は構わない。
昨日も言った。無理やりここに置いておくつもりはない。
それでも、何も言わずにいなくなったのだとしたら……。
そう思いながら身体を起こした時だった。
部屋の隅。
棚と壁の間にできた、わずかな隙間。
そこに銀色の髪が見えた。
「……え?」
近づいてみる。
リリアだった。
薄い布を身体に巻きつけ、壁に背中を預けるようにして小さく丸まっている。
「…………」
俺はしばらく、何も言えなかった。
昨日、確かにベッドを使えと言った。
リリアも「おやすみなさい」と答えていた。
それなのに。
「リリア」
声をかける。
「……ん……」
長い睫毛が微かに震えた。
「リリア、朝だぞ」
「……あ……」
ゆっくりと蒼い瞳が開く。
俺の顔を認識した瞬間、リリアは弾かれたように身体を起こした。
「も、申し訳ありません!」
「え?」
「すぐに支度をします! 寝過ごしてしまって……!」
「いや、違う。そんなことを言ってるんじゃなくて」
俺は慌てて手を振った。
「なんでこんなところで寝てるんだ?」
「……?」
リリアが不思議そうに俺を見る。
その反応に、逆に俺の方が戸惑った。
「ベッド。昨日、使っていいって言っただろ?」
「あ……はい」
「じゃあ、なんで床で寝てるんだ?」
「それは……」
リリアは少し考えてから、ごく当たり前のことを答えるように言った。
「奴隷が、ご主人様の寝床を使うわけにはいきませんので」
「…………」
言葉が出なかった。
「でも、俺が使えって言っただろ」
「はい。ですから、レイン様がお休みになるまでは使わせていただきました」
「……待て」
嫌な予感がする。
「昨日、俺が寝るまでベッドにいただけなのか?」
「はい」
「その後、ここに移動した?」
「はい」
「…………」
頭を抱えたくなった。
どうやら昨夜、いつまで経っても寝息が聞こえなかった理由は、俺が眠るのを待っていたかららしい。
「なんで……」
そこまで言って、昨日の自分の言葉を思い出した。
――ここが今日から、あんたの家だよ。
――何もしなくていい。
――このベッドを使ってくれ。
俺たちにとっては、それで十分だと思っていた。
でも、リリアにとっては違った。
俺は首輪と足輪を外した。
だから自由になった。
そんな単純な話じゃないらしい。
……難しいな。
どうすればいいんだ、これ。
「とにかく」
俺はしゃがみ込み、リリアと目線を合わせた。
「今夜からはちゃんとベッドで寝てくれ」
「ですが――」
「これは……」
命令だ。
そう言いかけて、やめた。
命令したら、たぶんリリアは従う。
でも、それじゃ何かが違う気がした。
「……俺からのお願いだ」
「お願い……?」
「あぁ。リリアが床で寝てると、俺が落ち着かない」
「レイン様が?」
「そう」
リリアはますます分からないという顔をした。
「俺は床でも平気なんだ。慣れてるから。それに、客を床で寝かせて自分だけベッドで寝るなんて、ばぁちゃんに知られたら俺が怒られる」
「私はお客様ではありません。奴隷です」
即答だった。
「……そこなんだよなぁ」
思わずため息が漏れる。
昨日、今すぐ信じなくてもいいと言ったばかりだ。
それなのに翌朝から「奴隷じゃない」「家族だ」「仲間だ」と俺の考えを押しつけても仕方がない。
「分かった。とりあえず今日はそれでいい」
「……?」
「ただし、今夜の寝る場所は後で相談しよう」
「相談、ですか?」
「そう。俺が勝手に決めるんじゃなくて、リリアと相談する」
また不思議そうな顔をされた。
相談するということすら、彼女には馴染みがないのかもしれない。
「……承知しました」
小さく頭を下げる。
その仕草を見ながら、俺は昨日とは違う意味で途方に暮れていた。
奴隷から助け出すことと。
奴隷じゃなくすること。
どうやら、その二つはまったく別の話らしい。
◇
部屋を出ると、すでに台所から香ばしい匂いが漂っていた。
「起きたかい」
ばぁちゃんが鍋をかき混ぜている。
「おはよう、ばぁちゃん」
「おはようございます」
リリアも俺の後ろから頭を下げた。
「おや、おはよう」
ばぁちゃんは笑顔で返した。
「よく眠れたかい?」
「はい。とても快適な寝床を使わせていただきました」
「…………」
俺はリリアを見る。
嘘ではない。
確かに途中までは使っていた。
ばぁちゃんが俺を見る。
「レイン?」
「いや……まあ……その話は後で」
「?」
リリアは何も分かっていない様子で小首を傾げている。
「ほら、朝飯にするよ」
テーブルにはパンと野菜のスープ、それに昨日の残りの干し肉が並んでいた。
俺がいつもの椅子へ座る。
ばぁちゃんも座る。
だが、リリアだけが立っていた。
「リリア?」
「はい」
「座らないのか?」
「お二人が食べ終わりましたら、残ったものをいただきます」
「…………」
またか。
「一緒に食べればいいだろ」
「ですが――」
「リリア」
今度はばぁちゃんが口を開いた。
「そこに座りな」
リリアの身体がびくりとした。
「……はい」
俺の時とは違い、ものすごく素直に従った。
空いている椅子へ、ちょこんと腰を下ろす。
ばぁちゃんがリリアの前にスープを置いた。
「食べな」
「……ありがとうございます」
それでもリリアは手をつけない。
俺とばぁちゃんを見る。
俺がパンをちぎって口へ入れる。
ばぁちゃんがスープを飲む。
それを確認してから、ようやくリリアも木の匙を手に取った。
一口。
二口。
昨日と同じように、とてもゆっくり食べる。
その姿を見ていたばぁちゃんが、何気ない調子で尋ねた。
「美味しいかい?」
「はい。とても」
「そうかい」
ばぁちゃんはそれ以上何も言わなかった。
俺も黙って食べる。
妙に静かな朝食だった。
しばらくして、俺が二つ目のパンへ手を伸ばした時。
ふと、リリアの手が止まっていることに気づいた。
「どうした?」
「いえ」
「腹いっぱいか?」
「……はい」
でも、スープは半分ほど残っている。
パンにもほとんど手をつけていない。
昨日だって、まともに食べていないはずだ。
「遠慮しなくていいぞ。まだあるから」
「大丈夫です」
そう言ってリリアは微笑んだ。
その笑顔が、なんとなく引っかかった。
けれど、無理やり食わせるわけにもいかない。
「そっか」
俺はそれ以上言わなかった。
◇
朝食が終わった。
「ごちそうさまでした」
リリアは真っ先に立ち上がると、俺たちの器を集め始めた。
「あ、俺がやるよ」
「いえ、私が」
「でも――」
「レイン様」
珍しく、少し強い声だった。
「これくらいは、させてください」
俺の手が止まる。
リリアは俺から器を受け取ると、台所へ運んでいった。
水を汲み、袖をまくり、黙々と洗い始める。
手際がいい。
昨日この家に来たばかりとは思えないほどだった。
「……家事できるんだな」
「一通りは」
「前の家でも?」
俺が尋ねた瞬間。
ほんの一瞬だけ、リリアの手が止まった。
「あ……」
しまった。
「悪い。答えなくていい」
「いえ」
リリアは再び器を洗い始めた。
「奴隷になってから、いくつかのお屋敷を移りましたので。掃除、洗濯、料理、給仕……必要なことは一通り教え込まれました」
教わった、ではなく。
教え込まれた。
その言葉が耳に残った。
「だから、家事は私にお任せください。レイン様のお役に立てます」
「別に役に立たなくても――」
言いかけたところで、ばぁちゃんが俺の脇腹を小突いた。
「痛っ」
「レイン。ちょっとこっちへ来な」
「なんだよ」
「いいから」
ばぁちゃんに腕を引かれ、工房の隅へ連れていかれる。
リリアから少し離れたところで、ばぁちゃんが小声で言った。
「何でもかんでも取り上げるんじゃないよ」
「取り上げる?」
「家事だよ」
「でも、昨日まで奴隷だった子に全部やらせるなんて――」
「全部やらせろなんて言ってないさ」
ばぁちゃんはリリアを見る。
彼女は俺たちの会話が聞こえないようにしているのか、黙々と器を洗っていた。
「昨日まであの子は、自分が何をすればいいのか全部誰かに決められて生きてきたんだろう?」
「……たぶん」
「それをいきなり、今日から好きに生きろ、何もしなくていいって言われたって困るだけさ」
俺は言葉に詰まった。
「でも……自由にしてやりたいんだ」
「分かってるよ」
ばぁちゃんは笑った。
「だから急ぐんじゃないよ」
「急ぐ……」
「お前があの子を大事にしたいのは分かる。でもね、レイン」
ばぁちゃんは俺の額を指先で軽く弾いた。
「親切だって、押しつけりゃ命令と変わらないよ」
「…………」
何も言い返せなかった。
「家事をしたいなら、少しくらいやらせてやればいい。そのうち『今日は面倒だからレインがやってください』なんて言うようになれば、それでいいじゃないか」
「そんな日、来るかな」
「来るさ」
ばぁちゃんは当然のように言った。
「人間なんだからね」
その言葉に、俺はもう一度リリアを見る。
洗い終えた器を一つ一つ丁寧に拭いている。
俺に役立つために。
ここに置いてもらうために。
……なのかもしれない。
俺は何も分かってなかった。
助ければ終わりだと思っていたわけじゃない。
それでも、鎖を外して、飯を食わせて、寝床を与えれば、少なくとも苦しみからは解放できると思っていた。
でも。
人の中に残った鎖は、鍵を回しただけじゃ外れないらしい。
◇
昼前。
俺は工房で量産用の短剣を打っていた。
競売で金貨六十枚を使ったせいで、俺の財布は文字通り空っぽだ。
生活費を稼がなければならない。
カンッ。
カンッ。
鉄を叩く音が響く。
その少し離れた場所で、リリアが俺の作業を眺めていた。
「暇じゃないか?」
「いいえ」
「ずっと見てるだけだぞ」
「それが、楽しいです」
「鍛冶が?」
「はい」
リリアの視線が、俺の手元へ向いている。
「鉄って……こんなふうに形を変えるんですね」
「熱して、叩いて、また熱して。それの繰り返しだ」
「魔法みたいです」
「魔法使いに言われると変な感じだな」
思わず笑った。
リリアもほんの少しだけ口元を緩めた。
昨日の泣き笑いとは違う。
ごく自然な、小さな笑顔だった。
その時。
「ワンッ!」
工房の入口からコハクが飛び込んできた。
「お、どこ行ってたんだお前」
朝から姿が見えないと思っていた。
コハクは俺を無視して、そのままリリアのところへ向かう。
「……わんちゃん」
リリアが目を丸くした。
そういえば、昨日は慌ただしくてまともに紹介していなかった。
「そいつはコハク。うちの犬だ」
「コハク……」
リリアが恐る恐る手を伸ばす。
コハクはその手の匂いを嗅ぎ――。
ぺろっ。
指先を舐めた。
「……!」
リリアの顔がぱっと明るくなった。
「ふふっ……くすぐったいです」
尻尾を振るコハク。
リリアはしゃがみ込み、その頭をそっと撫でた。
「可愛い……」
初めてだった。
リリアが、何の遠慮もなく笑ったのは。
俺はハンマーを振る手を止め、その姿を眺めていた。
「……コハク」
「ワン?」
「お前、俺より上手いな」
「ワンッ!」
何のことだと言わんばかりに吠える。
その時だった。
コハクが突然、リリアのローブの裾へ鼻先を突っ込んだ。
「きゃっ……コ、コハク?」
ごそごそ。
「こら、何してるんだ」
俺が止めようとした瞬間。
ぽとり。
何かが床へ落ちた。
パンだった。
朝食に出した、小さなパン。
「…………」
俺はそれを見る。
ばぁちゃんも見る。
リリアの顔から、笑顔が消えた。
「リリア」
「…………」
「これ……朝のパンだよな?」
リリアは俯いた。
「……申し訳ありません」
「いや、怒ってない。なんで隠してたんだ?」
答えない。
「腹いっぱいだったんじゃなかったのか?」
「…………」
長い沈黙。
やがて。
「……夜に」
小さな声が聞こえた。
「夜?」
「夜に……食事をいただけなかった時のために……」
俺の喉が詰まった。
リリアは慌てたように続ける。
「盗むつもりではありませんでした。いただいた分だけです。勝手に持っていて申し訳ありません。もうしませんから……」
「違う」
思ったより強い声が出た。
リリアの身体がびくりと震える。
「……悪い」
俺は息を吐いた。
怒るな。
驚かせるな。
昨日、自分で言ったばかりだ。
時間をかければいい、と。
俺は床へ落ちたパンを拾った。
少し埃がついている。
「これはもう食べない方がいいな」
「……はい」
俺は台所へ行き、新しいパンを一つ持ってきた。
そしてリリアへ差し出す。
「ほら」
「……?」
「これは非常食」
「ひじょう、しょく……?」
「あぁ」
俺はできるだけ普通に言った。
「夜中に腹が減った時に食べる用。部屋に置いておけばいい」
リリアはパンと俺の顔を交互に見た。
「でも……」
「明日の朝になったら、また朝飯が出る」
「…………」
「昼になったら昼飯を食う。夜になったら夜飯を食う」
俺はパンをリリアの手へ乗せた。
「だから、隠してもいい。でも……食べ物がなくなる心配はしなくていい」
リリアは何も言わなかった。
両手でパンを握っている。
「毎日……ですか?」
「え?」
「毎日……三回、食べてもいいんですか?」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
でも。
可哀想だなんて顔をするのは違う気がした。
だから俺は、なるべくいつも通りに答えた。
「うちが貧乏すぎて二回になったら、その時は一緒に我慢してくれ」
「レイン!」
後ろからばぁちゃんに怒鳴られた。
「縁起でもないこと言うんじゃないよ!」
「冗談だよ!」
思わず振り返る。
その時。
「……ふっ」
小さな声。
振り返ると。
リリアが笑っていた。
口元を押さえて。
ほんの少しだけ。
「……ふふっ」
昨日よりも自然な笑顔だった。
「笑ったな」
「す、すみません」
「なんで謝るんだよ」
「……あ」
まただ。
笑ったことすら謝る。
でも今は、それでいい。
たぶん。
俺は再び炉の前へ戻った。
カンッ。
ハンマーを振り下ろす。
カンッ。
一度叩いたくらいじゃ、鉄は思い通りの形にはならない。
熱して。
叩いて。
また熱して。
何度も繰り返す。
人の心だって、きっと同じなんだろう。
焦る必要はない。
昨日、自分でそう言ったばかりじゃないか。
背後では、リリアがコハクに何かを話しかけている。
ばぁちゃんが夕食の仕込みを始めている。
いつもの工房に、昨日まではなかった声が一つ増えた。
今日は、それだけでいい。
――そんなことを思っていた時。
「おはよーレイ! 今日から本格的にファミリアの話を――」
バンッ! と勢いよく工房の扉が開いた。
聞き慣れた声。
セレナだ。
「おう、レナ」
「遅いじゃないか」と続けようとした俺の前で。
セレナの動きが止まった。
その視線が俺を通り越す。
銀色の髪の少女。
俺の部屋から持ってきた毛布。
その隣にはコハク。
そしてリリアの手には、俺が渡したパン。
「…………」
セレナが俺を見る。
リリアを見る。
もう一度、俺を見る。
「…………レイ?」
「……はい」
なぜか敬語で返事をしてしまった。
セレナのこめかみが、ぴくりと動く。
「その子……誰?」
静かな声だった。
だからこそ。
ものすごく怖かった。




