第31話:魔法使いリリア
自由になったはずの足首を恐る恐る撫で、それから何度も確かめるように指を這わせている。
まるで、そこに鉄の輪がないことの方が信じられない――そんな様子だった。
「……行こう」
声をかけると、少女はびくりと肩を揺らした。
そして何も言わず、小さく頷く。
俺は彼女の歩調に合わせながら、夕闇が完全に落ちた街の裏路地を抜けた。
途中、何度か後ろを振り返る。
少女は少し距離を空けて、黙って俺についてきていた。
逃げる素振りはない。
それどころか、俺が立ち止まるたびに不安そうにこちらを見る。
その姿を見ていると、胸の奥が妙に痛んだ。
自由になったからといって、すぐに自由な人間として振る舞えるわけじゃない。
そんな当たり前のことに、俺はこの時になって初めて気づいた。
◇
「ただいま、ばぁちゃん。……ちょっと、訳ありの客人を連れてきた」
土間を抜けて居住スペースへ上がると、ランプの灯りの下で夕食の準備をしていたばぁちゃんが目を丸くした。
「おや」
その視線が、俺の後ろへ向く。
ボロボロのローブ。
細すぎる手足。
肌に残る、いくつもの痛々しい痣。
ばぁちゃんは何も聞かなかった。
一瞬だけ俺を見ると、すぐにいつもの穏やかな顔へ戻る。
「よく来たね」
少女が小さく身を縮めた。
「ここが今日から、あんたの家だよ」
「…………家?」
ぽつり、と少女が呟いた。
その声があまりにも頼りなくて、俺は思わず彼女を振り返った。
少女は工房の中を見回していた。
煤で黒ずんだ壁。
使い古された木のテーブル。
鍛冶道具が雑然と置かれた土間。
決して立派な家じゃない。
むしろ街の中では貧しい部類に入るだろう。
それでも少女は、初めて見るもののように辺りを見回している。
「……私の?」
「そうさ」
ばぁちゃんは当たり前のように答えた。
「腹も減ってるだろ。まずは食べな」
温かいスープの入った木の器を差し出され、少女は困ったように俺を見た。
「食べていいんだぞ」
俺が言うと、ようやく両手で器を受け取る。
「……ありがとうございます」
それでもすぐには口をつけなかった。
俺とばぁちゃんを交互に見て、本当に食べてもいいのか確かめているようだった。
ばぁちゃんは何も言わず、自分の夕食の準備へ戻る。
やがて少女はおそるおそるスープを口に運んだ。
その瞬間、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……あったかい」
その一言を聞いて、ばぁちゃんが背中を向けたまま笑った。
◇
少女が食事をしている間、俺はばぁちゃんを台所の隅へ呼んだ。
今日一日の出来事――競売の詳しい事情は伏せつつ、彼女が酷い扱いを受けていた奴隷で、大金を払って買い取ってきたことを手短に説明する。
ばぁちゃんは黙って最後まで聞いていた。
「そうかい」
それだけ言って、小さく息を吐く。
「レインが自分で決めたことなら、あたしゃ何も言わないよ。ただねぇ……」
ばぁちゃんが少女を見る。
「うちは、しがない貧乏鍛冶屋だ。この子に割り当ててやれる空き部屋なんて、一つもないよ?」
「あ……」
言われてみれば、その通りだった。
この家には、ばぁちゃんの部屋と俺の部屋、それから工房しかない。
たまにセレナが入り浸ることもあるが、あいつは当然のように俺のベッドを占領し、俺が床で寝るのがお決まりのパターンだ。
「仕方ない。俺の部屋を使ってもらう。俺は床で寝ればいい」
「おやおや」
ばぁちゃんの口元がニヤリと歪む。
「年頃の男の子が、あんな可愛い娘と同じ部屋で寝起きするのかい?」
「変な言い方するなよ!」
思わず声を上げると、ばぁちゃんは楽しそうに笑った。
その声に反応して少女がこちらを見る。
俺と目が合うと、すぐに視線を伏せた。
……まだ、緊張してるよな。
当然だ。
俺たちがそんな話をしている間も、少女は椅子に座ったまま、膝の上で小さな手を強く握りしめていた。
◇
食事が終わる頃には、夜もすっかり更けていた。
ばぁちゃんは「年寄りはもう寝るよ」と気を利かせるように奥の部屋へ引っ込み、工房には俺と少女の二人だけが残された。
ランプの淡い光が、彼女の銀色の髪を柔らかく照らしている。
何を話せばいいのか分からない。
少女も俯いたまま、何も言わない。
しばらく、炉の中で炭が弾ける音だけが続いた。
「……あの」
沈黙を破ったのは、少女の方だった。
「ん?」
彼女は怯えたように身を縮め、俺の顔を上目遣いで見つめてくる。
「あの……夜のお世話は……今から、でしょうか」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
少女は自分のローブの裾をぎゅっと握りしめている。
「私……初めてで、上手くできるか分かりませんが……」
声が震えていた。
「できれば……その……痛くしないで、いただけると……」
「ち、違う違う違う!」
思わず椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
少女の肩が跳ねる。
「ご、ごめん! 怒ってない! そうじゃなくて!」
俺は慌てて両手を振った。
無理もない。
大金を払って裏競売で買われた若い女の奴隷が、男の家へ連れてこられ、その男の部屋で寝ろと言われたのだ。
そう考える方が自然なのかもしれない。
でも――。
「俺はそんなことをするために君を連れてきたんじゃない」
できるだけ刺激しないよう、ゆっくりと腰を下ろす。
「夜伽なんてさせない。無理やり言うことを聞かせるつもりもない。絶対に手出しもしない。これは約束する」
「……え?」
少女はぽかんと口を開けた。
本当に理解できない、という顔だった。
「じゃあ……私は、何をすれば……」
「何もしなくていい」
「…………」
「少なくとも今日はな。飯を食って、寝る。それだけでいい」
少女はますます困惑した。
俺は近くにあった木の椅子を引き寄せ、彼女と視線の高さを合わせるように腰を下ろす。
「そういえば、まだ名前も聞いてなかったな」
少女が瞬きをする。
「俺はレイン。しがないFランクの……いや、最近Eランクになったばかりの鍛冶師だ」
自分で言って少しだけ笑う。
「君の名前は?」
少女はすぐには答えなかった。
名前を聞かれること自体が意外だったのかもしれない。
やがて、小さな唇が動いた。
「……リリア、です」
「リリア」
口に出してみる。
「いい名前だな。よろしく、リリア。俺のことはレインでいい」
「……それは、できません。レイン様」
「様はいらないって。俺たち、同じくらいの歳だろ?」
「いいえ」
リリアは小さく首を横に振った。
「レイン様は、私を買い取ってくださったご主人様です。それだけは……譲れません」
さっきまで怯えていたのに、そこだけは妙に頑固だった。
「……分かった。好きに呼んでくれ」
今すぐ全部を変えさせる必要もない。
そう思って、俺は苦笑した。
「これからよろしくな、リリア」
「…………はい」
返事までに、ほんの少し間があった。
◇
「どうして……私を買ったのですか?」
しばらくして、リリアが尋ねてきた。
「金貨六十枚なんて、信じられない大金です」
彼女の指が、ローブの裾を握る。
「私は……ただの、役立たずの魔法使いなのに」
その言葉が妙に引っかかった。
「役立たず?」
リリアは俯いたまま、小さく頷いた。
そして、少しずつ自分の過去を話し始めた。
遠く離れた小さな村で生まれたこと。
両親が小さな商店を営んでいたこと。
十二歳の時、流行り病で二人とも亡くなったこと。
治療のために作った借金だけが残ったこと。
「借金のカタとして、私は奴隷商人に引き取られました」
淡々とした声だった。
まるで他人の人生を話しているように。
「でも、私には魔法の適性があったんです。だから商人たちは喜びました。闘技場でも、討伐でも稼げる。高く売れるって」
そこでリリアの口元がわずかに歪んだ。
笑ったのだと気づくまで、一瞬かかった。
「でも……ダメでした」
ギルドの魔力判定。
十分な魔力は持っていた。
それなのに、初歩的な攻撃魔法すらまともに形にできなかった。
「今の私に使えるのは、武器や防具に魔力を定着させる付与魔法だけです」
「付与魔法……」
「はい。自分では敵を倒せません」
リリアが自嘲するように笑う。
「戦えない魔法使いなんて、欠陥品だって言われました」
胸の奥で、何かがざらついた。
前の持ち主だったあの男も、最初は珍しい魔法使いの奴隷としてリリアを買ったらしい。
だが、派手な攻撃魔法を使えないと分かると、扱いは一変した。
役に立たない。
金を損した。
欠陥品。
そんな言葉を浴びせられ、最後には日々の鬱憤を晴らす道具のように扱われた。
「だから……」
リリアの声が震えた。
「金貨六十枚の価値なんて、私にはありません」
膝の上へ、一滴の涙が落ちる。
「きっとレイン様も……いつか、失望します」
「欠陥品なんかじゃない」
気づけば、俺はそう言っていた。
リリアが顔を上げる。
俺は作業台の上に置いてあった、打ち直したばかりの鉄の短剣を手に取った。
「俺は鍛冶師だ」
短剣をランプの光へかざす。
「どれだけ腕のいい鍛冶師が打った剣だって、使う人間や使い方が合ってなきゃ力を発揮できない」
リリアは黙って俺を見ている。
「火の魔法が使えないなら、俺が火薬を使った罠を作る。氷が使えないなら、敵の動きを止めるワイヤーを張る」
短剣を作業台へ戻す。
「足りないところを補い合えばいいだろ」
「…………」
「それに、武具の力を底上げできる付与魔法なんて、鍛冶師の俺からしたら喉から手が出るほど欲しい力だ」
リリアの目が少しだけ大きくなった。
「魔法だって、これから勉強すればいい。工房にある本も好きに読めばいいし、もっとちゃんと学びたければ、いつか学校へ行く方法だって探せばいい」
そこまで言って、俺は少し迷った。
でも、言っておきたかった。
「俺はこれから、ファミリアを作ろうと思ってる」
「ファミリア……」
「あぁ」
「俺は鍛冶師だ。剣を打つ。罠を作る。作戦を考える。でも、一人じゃできないこともたくさんある」
俺はリリアを見る。
「だから……もしリリアが嫌じゃなければ、いつか俺に力を貸してほしい」
「私が……?」
「あぁ」
「私なんかが……レイン様の?」
「『私なんか』はやめろ」
少し強い声になってしまった。
リリアの肩が震えたのを見て、すぐに後悔する。
「……悪い。怒ったわけじゃない」
俺は頭を掻いた。
「ただ、俺は本当にリリアの力が役に立つと思ってる。それだけは信じてほしい」
リリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、その瞳から静かに涙が溢れた。
さっきまでのような、恐怖に耐える涙ではなかった。
けれど、喜んでいるようにも見えなかった。
戸惑っている。
そんな顔だった。
「……どうして」
「ん?」
「どうして……そんなことを言うんですか」
リリアの声が震える。
「私は奴隷です。役に立たなければ捨てられて……役に立っても、使われるだけで……」
両手が震えていた。
「なのに……家だとか、仲間だとか……必要だとか……」
ぽろぽろと涙が落ちていく。
「そんなことを言われたら……」
リリアは胸元を握りしめた。
「信じたくなってしまうじゃないですか……」
俺は答えられなかった。
ここで「信じろ」と言うのは簡単だ。
でも、そんな言葉一つで、この子が今まで受けてきた仕打ちを消せるとは思えなかった。
だから。
「今すぐ信じなくていいよ」
リリアが顔を上げた。
「……え?」
「俺がどんな人間なのか、リリアはまだ知らないだろ」
「でも……」
「時間をかければいい」
俺は笑った。
「明日でも、一ヶ月後でも、一年後でもいい。ここにいて、自分で見て、それから決めてくれ」
リリアは何も言わなかった。
ただ、涙を拭いながら小さく頷いた。
◇
「いきなり色々聞いて悪かったな。疲れただろ」
俺は立ち上がり、自分の部屋の扉を開けた。
「今日はもう休もう。続きはまた明日でいい」
部屋と言っても狭い。
ベッドと小さな棚。
それだけでほとんど埋まっている。
「このベッドを使ってくれ」
「……私が、ですか?」
「そう」
「でも、レイン様は……」
「俺は床で寝る。慣れてるから気にするな」
セレナが泊まりに来た時は、いつもそうしている。
「そんな……」
「今日くらい言うこと聞いてくれ」
少し冗談めかして言うと、リリアは困ったようにベッドを見つめた。
それから、恐る恐る毛布へ触れる。
「……柔らかい」
「普通のベッドだけどな」
俺には何でもないものが、彼女にはそうではないらしい。
「おやすみ、リリア」
「……おやすみなさいませ、レイン様」
俺はランプの火を少し落とし、床へ毛布を敷いた。
しばらくすると、部屋は静かになった。
けれど。
暗闇の中、いつまで経ってもベッドから寝息は聞こえてこなかった。
「……リリア?」
「…………はい」
やっぱり起きていた。
「眠れないか?」
少し間があった。
「……こんなに静かな夜は、久しぶりなので」
それだけだった。
俺はそれ以上聞かなかった。
「そっか」
目を閉じる。
「じゃあ、ゆっくり慣れていけばいい」
返事はなかった。
やがて俺も、一日の疲れに引かれるように眠りへ落ちていった。
――この時の俺はまだ知らなかった。
翌朝。
俺が目を覚ました時、ベッドの上にリリアの姿がないことを。
そして彼女が、部屋の隅の冷たい床で、小さく丸まって眠っていることを。




