第30話:ハッタリ
視界が激しく反転し、俺は再び仄暗い工房の作業台の前に立っていた。
手の中には、先ほど取り出したばかりの青く輝く魔力結晶が握られている。
(……行くぞ)
俺は結晶を革袋に放り込み、工房を飛び出した。
街の石畳を、心臓が早鐘を打つのを感じながら全力で駆け抜ける。鑑定買取商の店に飛び込み、驚く店主の前に無言で結晶を叩きつけた。
「素晴らしい純度だ……査定額は金貨七十枚だが、即金なら――」
「六十枚だな。手形は要らない、今すぐ現金で頼む!」
俺の迷いのない言葉に、店主は一瞬目を見開いたが、すぐに奥からずっしりと重い金貨の袋を持ち出してきた。
それを受け取ると、俺は再び歓楽街の裏競売会場へと向けて走り出した。
無我夢中で足を回し、傭兵の立つ入り口を強引にすり抜ける。
◇
すり鉢状の地下会場は、異様な熱気に包まれていた。
「本日のメイン! 魔法使いの少女です! 開始価格は金貨五枚から!」
壇上には、首輪をつけられたあの少女が立たされている。
その虚ろな瞳は、何の希望も映していない。
間に合った。
俺は乱れた息を整え、最後列の席から静かに盤面を見下ろした。
前方席には、あの悪趣味な男がてかてかと顔を光らせて座っている。
「金貨十枚!」
「十五枚だ!」
周囲の男たちが値を吊り上げていく中、悪趣味な男が立ち上がり、ヨダレを撒き散らしながら叫んだ。
「金貨三十枚だぁっ! ぐへへ……俺の、俺の好きにするんだ……っ!」
会場が水を打ったように静まり返る。
たかが奴隷一人に三十枚。
それは常軌を逸した金額だ。
オークショニアが木槌を振り上げる。
「き、金貨三十枚! 他におりませんか!?」
今だ。
刻むな。
相手に考える隙を与えるな。
自分が持っている全財産を、最初の一撃にすべて乗せろ。
「金貨六十枚」
俺の静かな、だがはっきりと通る声が、静寂の会場に響き渡った。
壇上の少女がわずかに顔を上げる。
会場中の視線が一斉に俺へと突き刺さり、前方席の男が信じられないものを見るような顔で振り返った。
「な……ろ、六十枚だと!?」
男の声が裏返っていた。
その顔から先ほどの余裕と卑しい笑みが完全に消え失せている。
「ふ、ふざけるな! どこぞの小僧が……こんなボロボロの奴隷に六十枚!? 貴様、正気か!」
男が血走った目で俺を睨みつける。
俺は表情を一切変えず、ただ冷たく見下ろした。
懐にはもう一枚の銅貨すら残っていない。
だが、俺が醸し出す『底知れぬ余裕』が、男の脳内に勝手な幻想を作り上げていく。
(こいつは……いったいいくら出す気だ? もし俺が六十五枚を出したら、こいつは平気な顔で百枚を出すんじゃないか?)
商人の言った通りだ。
常識外れの金額の飛躍は、相手の競争本能を完全に麻痺させる。
男の顔に浮かんだのは、怒りではなく、得体の知れない相手への『恐怖』と『困惑』だった。
「……チッ、狂ってやがる! 勝手にしろ!」
男は忌々しそうに吐き捨てると、ドカッと椅子に座り込んだ。
完全に、心を折ったのだ。
「き、金貨六十枚! 他におりませんか!? ……落札です!!」
甲高い木槌の音が鳴り響いた。
俺は小さく息を吐き出し、張り詰めていた全身の力を抜いた。
勝った。あの男の資金力を、知略とハッタリで完全に打ち破ったのだ。
◇
競売が終わり、裏口の薄暗い通路。
落札の手続きを済ませた俺の手には、重たい鉄の鍵が握られていた。
壁際にうずくまり、震えている少女の前に静かにしゃがみ込む。
俺はその鍵を、彼女の細い首に巻かれた鉄の輪に差し込んだ。
カチャリ、という冷たい音と共に、重々しい奴隷の証が地面に転がり落ちる。
首の輪を外したあと、足首の輪も外した。
少女は信じられないといった様子で自分の首元に触れ、それから恐る恐る俺の顔を見上げた。
その瞳にはまだ怯えが色濃く残っている。
だが、俺は優しく、できるだけ穏やかな声で告げた。
「もう誰も、お前を蹴ったりしない。……帰ろう、俺たちの工房に」
その瞬間、少女の空虚だった大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。




