第29話:商人の秘策
「わかった。状況がマッチするかわからないが、俺が若い頃から少し使っているテクニックを一つ紹介しよう」
商人はカウンターに置いた古い短剣を指先で軽く叩きながら、静かに語り始めた。
「競売というものは、読んで字のごとく『競う』場だ。互いに銀貨や金貨の額を告知し合い、より高値をつけた方が品物を買い取れるシステムだよな」
「あぁ、それは当然理解してる」
「基本的には、その品をほしいと思っている者同士が競り合う。だが、例えば金貨十枚、十五枚、二十枚、二十五枚……と、刻みながら小競り合いをしていくとどうなると思う? 人は心理的に『負けん気』が刺激されて、つい予算以上の額で入札してしまうんだ」
商人の言葉に、俺はハッとした。
確かにそうだ。
あの悪趣味な男も、周囲の入札に対して顔を真っ赤にしながら、ムキになって値を吊り上げていた。
「競りだから、当然そうなるだろうな」
「そこでだ。にいちゃん、今ここで俺と『仮想の競り』をしてみるか? ここにある何の変哲もない短剣。これを銀貨一枚から、競りスタートだ」
「わかった。では、銀貨二枚だ」
俺がそう宣言した直後だった。
商人は表情を一切変えず、冷たい声で言い放った。
「銀貨百枚」
「なっ……いきなり百!?」
俺は思わずカウンターに身を乗り出した。
目の前にあるのは、刃こぼれすらないが、どう見てもただの中古の短剣だ。新品でも銀貨五枚が関の山だろう。
「あぁ、そうだ。百だ。……にいちゃん、今どう思った?」
「どうって……こんな短剣に百枚の価値なんかあるのかって。それと同時に、こんな短剣に店主がいったいいくら出す気なんだって、底知れない不気味さを感じた」
「そうだろう。これが、一つのテクニックだ」
商人は満足げに頷き、短剣を引き寄せた。
「小競り合いをすると、じわじわと価格が上がり、相手の競争本能を掻き立ててしまう。だが、提示金額からいきなり乖離した異常な金額を突きつけるとどうなるか。相手からすれば『こいつはいくら出す気だ?』『どれだけ底知れぬ資金を持っているんだ?』と錯覚し、パニックになる。簡単に言えば、競り合う前に相手の『心を折る』ことができる場合があるんだ」
目から鱗が落ちる思いだった。
競売の盤面。
俺はあの男の資金力に真っ向から挑もうとしていた。
六十枚という限られた手持ちの中で、刻みながら競り合えば、間違いなく相手の闘争心に火をつけるだけだ。
だが、最初から「お前とは見えている次元が違う」と思わせるような、常軌を逸した一撃を叩き込めば。
「なるほど……これは、経験者ならではの恐ろしいテクニックだな」
「そうだな。正直、自分でもこれが毎回上手くいっているかはわからない。相手が本当に無限の金を持っていれば意味はないからな。ただ、逆の立場だと絶対にそう感じる心理を利用して、どうしても落としたい品がある時にたまにこの手法を使っている」
商人はふう、と息を吐き、片眼鏡の位置を直した。
「にいちゃんがどんな盤面で戦おうとしているかは聞かない。だが、もし相手の競争心を折る必要があるなら、中途半端な額で競り合うな。最初の一撃で、すべてを飲み込むつもりで額を提示しろ」
「……ありがとう、店主。今後の参考にさせてもらうよ」
「あぁ。こんなことしかできなくてすまんな。また何かあれば、いつでも店に寄ってくれ」
商人の力強い言葉に背中を押され、俺は店を後にした。
夕闇が迫る街の石畳を歩きながら、俺は自分の手持ちの札を再確認する。
俺が用意できる限界の額は、金貨六十枚。
対するあの男は、六十五枚までなら平気な顔で出せる財力を持っている。
だが、あの男の「予算の上限」が六十五枚なのかはわからない。
もし八十枚、百枚と出せるのなら、この心理テクニックを使っても負ける。
(いや、違う……)
あの時、男が「金貨三十枚だ!」と叫んだ時の顔。
あれは、周囲の有象無象を黙らせるための「渾身の一撃」だったはずだ。
だからこそ、俺が三十五枚と言い返した時、激しく動揺し、怒り狂った。
もし男に金貨百枚の余裕があったなら、俺の三十五枚など鼻で笑って五十枚、六十枚とポンポン刻んでいたはずだ。
六十五枚の提示も、顔に血管を浮かべてのギリギリの叫びだった。
つまり、あの男の限界値も、おそらく七十枚前後。
ならば、商人の教え通り、心を折るチャンスは十分にある。
俺は真っ直ぐに工房へと戻り、土間に刺さったままの鉄の楔の前に立った。
もう、迷いはなかった。
結晶を最高の純度で取り出すための、十七回のループ。
資金をかき集めるための、焦燥に駆られたループ。
そして、圧倒的な財力の前にねじ伏せられた絶望のループ。
すべては、次の一回の盤面を完全に支配するための布石だ。
「これで、終わらせる」
俺は両手で鉄の楔を力強く握りしめ、あの魔法使いの少女の運命を覆すため、過去への扉を自らの手で引き抜いた。




