第27話:届かない金貨
「……ふぅっ」
十八回目の作業台。
俺は息を詰め、鏨を持つ手に全神経を集中させた。
完全に暗記した内部構造の図面が、脳裏に鮮明に浮かび上がっている。
サビの隙間、ギアの噛み合わせ、ロック機構を支える極小のピン。そのすべてを、ピンポイントの角度と絶妙な力加減で叩いていく。
カキンッ、という澄んだ音が工房に響いた。
まるで硬い蕾がほころぶように、赤茶けた鉄箱が静かに二つに割れる。
途端に、仄暗い工房の空気を塗り替えるほどの、強烈で澄み切った青い光が溢れ出した。
手のひらほどの大きさの、純度を極めた古代の魔力結晶。
傷ひとつない完品……と言いたいところだが、底の縁のあたりに、目を凝らさなければわからない程度の極小の擦り傷が入ってしまっていた。
十数回の試行錯誤を経ても、俺のハンマーの精度ではこれが限界だったのだ。
「……今の俺には、この傷までが限界かな」
俺は額に浮かんだ汗を拭い、小さく息を吐いた。
だが、あの路地裏で商人が叩き割ったものに比べれば、雲泥の差だ。
これなら間違いなく、莫大な値がつく。
俺はすぐさま新しい鉄の楔を取り出し、作業台の足元へと勢いよく打ち込んだ。
カンッ、カンッ、カンッ!
床に深く食い込む楔。これで、この「結晶を取り出した直後」の時間が記録された。
俺は青く輝く結晶を布に包んで革袋に放り込み、工房を飛び出した。
◇
向かった先は、商業ギルドの奥に店を構える、街の中でも随一の凄腕鑑定買取商だ。
「……これは。凄まじい純度だ。古代遺跡の深層からでも出たのかね?」
片眼鏡をかけた初老の買取商は、ルーペ越しに青い光を見つめ、震える声で呟いた。
「底にわずかな擦れがあるが……それでも一級品には違いない。うちで買い取ろう。査定額は金貨七十枚だ」
「七十枚……っ」
俺は思わず拳を握りしめた。
あの悪趣味な男が提示した額は金貨三十枚。
それをダブルスコアで上回る大金だ。
これなら確実に競り勝てる。
「だが、少し問題があってな」
買取商が申し訳なさそうに眉を下げる。
「これほどの額の取引となると、今の店の手持ちの金貨だけでは足りんのだ。大半は手形か、あるいは明日以降の支払いになってしまうが、構わないかね?」
「駄目だ!」
俺は身を乗り出して叫んだ。
「今すぐ必要なんだ。一時間以内、いや、今この瞬間に金貨が要る。今すぐ出せる限界はいくらだ?」
俺の異常なまでの剣幕に、買取商は少しだけたじろぎながらも、奥の金庫を確認しに行った。
そして、重々しい皮袋をテーブルに置く。
「……店の運転資金もすべてかき集めて、即金で出せるのは『金貨六十枚』が限界だ。手形なしの現金一括なら、これ以上は一枚も出せん」
「それでいい。取引成立だ」
金貨十枚分損をすることになるが、背に腹は代えられない。
俺は金貨六十枚が詰まったずっしりと重い袋をひったくるように受け取ると、礼もそこそこに店を飛び出し、歓楽街の裏競売会場へと全力で走り出した。
◇
息を切らしながら、傭兵の立つ入り口を抜けて地下会場へと飛び込む。
すり鉢状の会場は、すでに異様な熱気に包まれていた。
「本日のメイン! 魔法使いの少女です! 開始価格は金貨五枚から!」
壇上には、首輪をつけられたあの少女が立たされている。
間に合った。
俺は息を整えながら、前方席を睨みつけた。
そこには、予想通りあの悪趣味な男が、興奮で顔をてかてかと光らせて座っている。
「金貨十枚!」
「十五枚だ!」
周囲の男たちが値を吊り上げていく中、悪趣味な男が立ち上がり、ヨダレを撒き散らしながら叫んだ。
「金貨三十枚だぁっ! ぐへへ……俺の、俺の好きにするんだ……っ!」
会場が静まり返る。
たかが奴隷一人に三十枚など、常識外れの金額だからだ。
オークショニアが木槌を振り上げる。
俺は大きく息を吸い込み、静寂を切り裂くように声を張り上げた。
「金貨三十五枚!」
会場中の視線が一斉に最後列の俺へと突き刺さる。
壇上の少女が、虚ろな瞳をわずかに見開いてこちらを見た。
「な、なんだと……っ! どこぞの小僧が……っ、金貨四十枚だ!」
男が血走った目で俺を睨みつけ、怒鳴り返してくる。
「四十五枚」
俺は表情を変えず、淡々と札を上げた。
手持ちは六十枚ある。
まだ余裕はあるはずだ。
「ふざけるな! 五十枚だ!」
「五十五枚」
「くそがぁっ! なら六十五枚だ!どうだ小僧、これ以上出せるか!!」
男の顔から余裕が消え、怒りで血管が浮き出ている。
だが、その異常なまでの執念は、俺の想定を遥かに超えていた。
会場がどよめきに包まれる。
六十五枚。
その数字を聞いた瞬間、俺の全身からスッと血の気が引いていくのがわかった。
(……駄目だ)
俺の手持ちは、即金でかき集めた六十枚しかない。
ここで見栄を張って六十六枚と言ったところで、後で支払えなければ俺自身が詐欺罪で奴隷落ちになるだけだ。
そうなれば、ばぁちゃんもセレナも路頭に迷う。
盤面が、ひっくり返された。
あの男の、異常なまでの財力と歪んだ欲望の前に。
「き、金貨六十五枚! 他におりませんか!? ……落札です!」
無情な木槌の音が会場に響き渡った。
男は狂ったように笑い声を上げ、壇上の少女は再び絶望の底へと突き落とされたように俯いた。
「……ッ!」
俺は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、踵を返して会場を飛び出した。
急がなければ。
あの男が少女を引き取る前に、時間を巻き戻さなければならない。
◇
薄暗い裏通りを狂ったように走り抜け、工房へ転がり込む。
作業台の足元には、先ほど打ち込んだばかりの鉄の楔が刺さっていた。
俺は躊躇うことなくその楔を両手で掴み、全身の力を込めて引き抜いた。
視界が反転し、世界が過去へと収束していく。
「……くそっ、どうしたら……金貨が足りないッ」
気がつけば、俺は作業台の前に立っていた。
手の中には、先ほど取り出したばかりの、青く輝く魔力結晶が握られている。
金貨六十枚では足りなかった。
あの男に競り勝つには、少なくとも七十枚、いや、念を入れて八十枚以上の「即金」が必要になる。
だが、手元にあるのは最大でも七十枚の価値しかない結晶一つ。
時間を巻き戻したところで、この結晶の価値が上がるわけではない。
「どうする……どうすれば、即金で大金を作れる……?」
俺は青い結晶を強く握りしめ、血のにじむ手で頭を抱えた。
考えるんだ。
何か方法があるはずだ。
この街で、この手持ちの札で、あの男の財力を凌駕するための盤面を構築する方法が。
俺は思考をフル回転させながら、再び鑑定買取商の店へと向けて駆け出した。




