第24話:路地裏の魔法少女
夜明け前。
青白い冷気が立ち込める工房の土間で、俺は深く息を吐き出した。
手にしたハンマーを大きく振り上げ、足元の固い土へ向けて迷いなく振り下ろす。
カンッ、カンッ、カンッ……!
硬質な金属音が薄暗い工房内に響き渡り、火花が散る。
長さ三十センチほどの分厚い鉄の楔が、地面にしっかりと食い込んだ。
これが俺の命綱であり、日常を守るための絶対の防衛線。
地獄のような試験を乗り越え、晴れてEランクになった今でも、この朝の儀式だけは絶対に欠かすわけにはいかない。
「ワンッ!」
足元で、真っ白な毛並みのコハクが元気よく尻尾を振って吠えた。
試験の重圧から解放された俺の穏やかな空気を察取したのか、いつもより機嫌が良さそうだ。
「おはよう、コハク。今日も留守番、頼むぞ」
俺はしゃがみ込んでコハクの頭をわしゃわしゃと撫でると、使い慣れた革鎧を着込み、手作りのワイヤーや鉄の杭を詰めたずっしりと重い袋を肩に担ぎ上げた。
外へ出ると、すでに動きやすい軽装の胸当てを身につけたセレナが、朝焼けの光を背にして待っていた。
「おはよう、レイ! 準備はバッチリ?」
「ああ、完璧だ。初めてのEランク依頼、気合入れていくぞ」
俺たちは並んで歩き出し、王都の門へと向かう。
その道中、スラム街に近い薄暗い路地裏を通りかかった時だった。
「さっさと立て、このグズが! 金貨二十枚も出して買ったってのに、本当に使えねぇな!」
下品な怒声と共に、鈍い打撃音が響いた。
思わず足を止め、路地の奥へ視線を向ける。
そこには、小太りの身なりが良い男が、地面にうずくまる小柄な少女を容赦なく蹴り飛ばしている姿があった。
少女の首には、鈍く光る鉄の輪。奴隷の証だ。
ボロボロのローブを身にまとい、その手には安っぽい木製の短い杖が握られている。
魔法使いのようだが、抵抗する力すら残っていないのか、彼女はただ頭を抱えて震えていた。
破れたローブの隙間から覗く白い肌には、無数の赤黒い痣や、古傷の痕が痛々しく刻まれている。
「やめなさいよ!」
俺の横で、セレナが顔を真っ赤にして路地裏へ飛び出そうとした。
だが、俺はとっさに彼女の腕を強く掴んで引き留める。
「離して、レイ! あの子、死んじゃう!」
「駄目だ、レナ。手を出せば、俺たちが犯罪者になる。奴隷の所有権は絶対だ」
「でも……っ!」
俺だって、今すぐあの男を殴り飛ばしてやりたい。
だが、今の俺たちにはあの子を合法的に買い取るだけの「金貨二十枚」なんて大金も、男を黙らせる「権力」もないのだ。
ここで感情に任せて動けば、せっかく手に入れたEランクの資格すら一発で剥奪され、二人とも路頭に迷うことになる。
「……ッ」
少女が、うつろな目でこちらを見た。
痛みに歪むその顔と、諦めきったような空虚な瞳が、俺の脳裏に深く焼き付く。
俺は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、セレナの手を強引に引いて背を向けた。
「行こう、レナ。……今は、前を向くしかないんだ」
◇
街から少し離れた、街道沿いの深い森の中。
初陣となるゴブリン討伐は、拍子抜けするほどあっけなく終わった。
「そっちに行ったぞ、レナ! 踏み込ませるな!」
「任せて!」
木々の間に張り巡らせた見えにくい細いワイヤー。
そこに足を引っ掛けて転んだゴブリンの首を、セレナの剣が淀みなく薙ぎ払う。
あのオークの暴力に比べれば、ゴブリンの動きなど止まって見えるほど遅く、単調だった。
事前の罠で敵の機動力を完全に削ぎ、確実に一体ずつ仕留める。
俺が構築した盤面の上で、セレナは一切の傷を負うことなく、十匹ほどの群れを難なく殲滅した。
時間を巻き戻す必要すらない、完璧な勝利。
何度も過去へ戻り、血反吐を吐きながら戦術を練り上げた俺たちにとって、この程度の魔物はもはや脅威ではなかった。
これが、幾度もの死線を越えて手に入れた、俺たちの確かな実力だった。
◇
その日の夕方。
討伐の証であるゴブリンの耳をギルドに納品し、銀貨五枚というかつてない大金を受け取った俺たちは、市場でたっぷりと食材を買い込み、足早に工房へと戻った。
「ばぁちゃん、ただいま! 見て、今日の夕飯は干し肉と、野菜がたっぷり入ったシチューだよ!」
セレナが嬉しそうに鍋の準備を始める。
揺り椅子に座ってまどろんでいたばぁちゃんが、シチューの良い匂いに目を細めた。
「おやまぁ、ずいぶんと豪勢だねぇ。初仕事は上手くいったのかい?」
俺はばぁちゃんの足元にしゃがみ込み、自分の胸元で鈍く光る新しい鉄級プレートをそっと差し出した。
「ばぁちゃん。俺たち、Eランクの昇格試験に受かったんだ。今日こなしてきたのも、Eランクの正規の依頼だよ」
「え……?」
ばぁちゃんはしわくちゃの手で、震えながらその冷たい鉄のプレートに触れた。
「それに、今日商業ギルドでこの工房の正式な店舗登録も済ませてきた。これからは、俺が打った武器を適正な値段で買い取ってもらえる。ギルドの依頼も、今日みたいにまともな報酬が出るんだ」
俺はばぁちゃんの細い手を、両手でしっかりと握りしめた。
「もう、寒い思いも、ひもじい思いもさせない。ばぁちゃんの身体に合う薬だって必要な時に買えるよ。俺たち、ようやく底辺から抜け出せたんだ」
俺の言葉を聞いて、ばぁちゃんの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そうかい……よく頑張ったねぇ、レイ。お前が立派な鍛冶師になってくれて、ばぁちゃんは……本当に、鼻が高いよ」
そのしわがれた、けれど力強い声に、俺の胸の奥が熱くなる。
十時間を繰り返す過酷なループ。
役に立たない仲間の死。
蹂躙される幼なじみ。
死に戻れない絶望。
そのすべてが、この温かい時間と、家族の涙を守るための対価だったのだ。
どんな地獄も、この瞬間のためなら何度でも耐えられると思えた。
「ワンッ!」
足元で、おこぼれの肉をもらって満足気なコハクが、嬉しそうに尻尾を振って吠える。
俺は立ち上がり、パチパチと爆ぜる暖炉の炎を見つめた。
温かい食卓。
ばぁちゃんの涙。
セレナの明るい声。
俺が守りたかったものが、確かにここにある。
だが、その美しい炎を見つめていると、どうしてもあの路地裏の光景がフラッシュバックしてしまう。
痛々しい青痣と、助けを求めるような、空虚な少女の瞳。
俺の手のひらには、まだ銀貨が五枚あるだけだ。金貨二十枚という莫大な額には、遠く及ばない。
(……もっとだ。もっと稼がなきゃいけない)
俺は誰にも気づかれないように、テーブルの下で静かに、けれど強く拳を握りしめた。




