Episode 4:秘薬の製法
薄暗い厨房に、しつこいほどの米糠の匂いが立ち込めていた。
功一郎は、竈の前に座り込み、必死になって火打金を火打石に打ち付けている。
カチッ、カチッ、と虚しい金属音が響く。
火花は散るものの、火口のモグサに一向に燃え移らない。焦るほどに手元が狂い、指先を石の角で擦りむいた。
「——貸しなされ」
背後から呆れたような声がした。振り返ると、志乃が袖をたすきで叩き上げ、呆れ顔で立っている。
志乃は功一郎の手から無造作に道具を奪い取ると、慣れた手つきで一度、鋭く火花を飛ばした。一瞬でモグサに赤黒い火種が宿る。彼女がふうふうと息を吹きかけると、細い薪へ、またたく間に炎が移っていった。
志乃「医者が火も熾せないとは、呆れたものですね」
功一郎「……余計なお世話だ。私は今、天下の奇薬を製しているのだからな」
功一郎はバツが悪そうに鼻頭をこすり、沸き立つ湯をじっと見つめた。
湯が十分に沸騰したところで火を引く。鍋にうつして汲み置いた水に浸し、冷えるのを待ってから、あらかじめ用意しておいた梅酢を慎重に注ぎ込んだ。ほんのりと酸っぱい香りが、糠の匂いと混ざり合う。
功一郎「これに、糠袋を浸す」
米糠をたっぷりと詰めた木綿の袋を、功一郎はその弱酸性の水溶液へと沈めた。
志乃「これは何を作っているのですか」
じわりと、糠に含まれる栄養——彼が「びたみんB1」と呼ぶ、江戸の人間には耳慣れない成分が、酸の力によって水へと溶け出していく。
功一郎「これを『水薬』と称して売る。江戸中で流行っている脚気の病み人に飲ませるのだ。この水さえあれば、寝たきりの者も数日で立ち上がる」
功一郎の目は、野心にぎらぎらと輝いていた。
功一郎「ただの米糠と梅酢だ。元手などかかりはしない。これを一服、大手の薬種問屋並みの値段で売れば、たちまちのうちに千両の富が転がり込んでくるぞ」
玄庵「——それを、本気で言っているのか、功一郎」
背後の暗がりから、冷徹な声が響いた。玄庵だった。
いつからそこに立っていたのか、腕を組み、凍りつくような眼差しで功一郎を見据えている。
功一郎「玄庵殿……」
玄庵「お前のその水薬が、脚気の特効薬であることは認めよう。だが、それを高く売りつけて己の懐を肥やすだと? ふざけるな」
玄庵が一歩、踏み出す。その気迫に、功一郎は思わず気圧された。
玄庵「今も江戸の町では、日に何十人もの庶民が脚気で命を落としている。なぜだ。彼らが貧しく、白い米ばかりを食べて、まともな薬を買えないからだ! お前がやるべきは、その水薬を売ることではない。梅酢の水に糠袋を浸せば、誰でも家で特効薬が作れるという『製法』を、広く世に知らしめることだ!」
功一郎「正論を吐くな!」
功一郎は、まだ温かい水薬の瓶をかばうように抱え、声を荒らげた。
功一郎「広く知らしめれば、誰一人として私から薬を買わなくなる! それでは私の知識は、私の技術は、一文の価値もなくなってしまうではないか! 私は、私のためにこの知恵を絞ったのだ!」
玄庵「医者の知恵は、病を絶つためにある。己を富ませるための道具ではない」
玄庵の言葉は静かだったが、それゆえに重かった。
二人の間に、救いようのない溝が刻まれた瞬間だった。志乃はただ、その確執の行く末を案じるように、消えかけの竈の火を見つめることしかできなかった。




