Episode 5:権威の罠と、断絶の足音
「水薬」は効果があった。治療中の患者たちは次々と歩けるようになり、診療所はかつてない活気に包まれていた。志乃の笑顔も増え、功一郎は現代に戻る恐怖を忘れ、この時代での「生きがい」を噛みしめる。
しかし、その成功を快く思わない者がいた。
シーン1:密かなる暗雲
【場所:町医者・龍仙の豪華な邸宅】
龍仙は、玄庵の診療所が民衆の支持を集めることを快く思わない。龍仙は「古くからの正当な医術」を盾に、奉行所の役人を抱き込み、玄庵を潰そうと画策する。
龍仙は窓の外を見た。遠くに、玄庵の診療所から漏れる灯火が見える。
龍仙(独語)「……医術とは、何百年もかけて積み上げた叡智の体系だ。それをいとも簡単に覆すような者を放置すれば、何が起きるか。民は根拠もなく新奇なものに飛びつき、古い知恵を捨てる。私はその秩序を守っているのだ」
龍仙の門弟「先生、されどあの診療所では、実際に患者が……」
龍仙(鋭く遮って)「黙れ。結果がどうであれ、筋が通らぬことは筋が通らぬ。さあ、例の段取りを進めよ」
龍仙はゆっくりと灯火の方へ顔を向けた。その眼差しに、浮かぶのは怒りではなく――冷えた確信だった。
龍仙「……神仏も畏れぬ邪法か。ならば、その奇跡が『死』に終わる様を皆に見せつけてやろう」
シーン2:与力・神山
【場所:料亭「蔦屋」の別邸】
神山「……龍仙、久しいのう。先日は妻の癪を治してくれて助かっておる」
神山は手に持った猪口を口に運ぶ。その仕草には、長年の権力が染みついた、なんとも言えない鷹揚さがある。
龍仙「神山様、この度はご足労いただき痛み入ります。ご承知のとおり私ども医師は、病で苦しむ人々を少しでも減らしたいと常々考えております。ですが最近、身分の卑しい者が怪しげな薬で町を惑わし、江戸の秩序が乱れております。ご存じでしょうか」
神山「なに、怪しげな薬だとな。南蛮渡来、ご禁制の品ではあるまいな」
龍仙「あの玄庵なる男の診療所……あそこは、米の研ぎ汁だの、ぬか漬けだのといった、身分の卑しい者の食い物を用いた『邪法』を説いておるのです。それが今や、噂を聞きつけた町民で溢れかえっている。このままでは、古くから伝わる我が医術の秩序、ひいては江戸の良き風習が根底から覆されかねません。万が一あの水薬で人の命にかかわることでも起きれば、お奉行所の威厳にもかかわります」
神山「何か良い策でも考えているのか」
龍仙「気心の知れた者を患者として潜り込ませております。明日この者には、私の煎じたある薬を飲んで意識を失ってもらいます。治療の最中にその者が息を引き取れば……それが『殺人の証拠』であり、排除すべき『邪教の拠点』であるという決定的な大義になりましょう。そこをついて同心様たちを連れて現場へ踏み込んでいただきましょうか」
龍仙は、神山の膝の前に小判の包みをそっと置く。
神山の顔に、隠しきれない強欲な笑みが浮かんだ。扇子で静かに手元へと引き寄せる。
神山「ふむ……噂の『魔法の診療所』か。だが、龍仙殿。いくら邪法とはいえ、現に病人が治っておるという話ではないか。それを裁くには、相応の『大義』が必要よ」
龍仙は不敵に微笑み、さらにもう一つの包みを滑らせた。それは、神山が長年抱えている借金の額を軽く補填できるだけの量だ。
龍仙「大義ならば、私がご用意いたします。……死人さえ出れば、後はお奉行所の仕事でございましょう」
神山は小判の重みを確認するように懐へしまい、満足げに頷いた。
神山「なるほど。……いいだろう、龍仙殿。その『奇跡』が断末魔に変わる瞬間、わしが直々に踏み込み、不届きな輩を縄にかけてやろう」
シーン3:偽りの「死」
【場所:玄庵の自宅兼診療所】
玄庵「甚兵衛よ、また苦しくなったのか。さあ、いつもの薬を……」
甚兵衛は湯のみの水薬を一気に飲み干す。同時に、手に隠し持った丸薬をその場の誰にも気づかれずに流し込んだ。
服薬の直後、甚兵衛の体は痙攣を起こし、そのままピクリとも動かなくなる。
志乃「お父様! 脈が……脈がありません!」
功一郎「なんだと……? そんなはずはない、この男は何かのアレルギーでもあったのか」
功一郎が心臓マッサージを試みるが、体は冷たくなっていく。そこへ待っていたかのように、龍仙と神山率いる役人たちが診療所に雪崩れ込む。
龍仙「見たか! これが『新しい医術』の正体だ! 薬と称して毒を盛り、人を死に至らしめる外道よ!」
志乃「そんな……私たちは最善を尽くしました!」
玄庵「嘘だ! この者は死ぬはずがない!」
役人は玄庵と志乃を縛り上げ、功一郎を捕らえようとする。
功一郎「待て! この者は、単に眠っているだけだ。毒を盛ったのは……お前(龍仙)だな?」
功一郎は倒れている甚兵衛の人中(鼻と口の間のくぼみ)へ、拳の角で鋭く圧迫する。
甚兵衛の全身が痙攣し、目が開く。
しかし、龍仙は怯まない。
龍仙「妖術だ! やはり切支丹だ!」
神山「構わん、縛り上げよ!」
事態は収拾不能な混乱へ。
シーン4:断罪と逃走
「これなるは、人殺しの咎人である! 直ちに縛り上げよ!」
神山の号令が診療所に響き渡り、捕り方たちが一斉に十手を引き抜き、玄庵と志乃を取り囲む。
志乃「違います! 私たちは病人を救おうとしただけです!」
志乃が必死に叫ぶが、役人たちは耳も貸さない。
玄庵「龍仙……貴様、これが医者のすることか!」
玄庵はその冷酷な男たちの後ろで、勝ち誇ったように唇を歪める龍仙を真っ向から睨み据えた。
龍仙「ふん、医者とは権威を守る者だ。貴様のような免状も持たぬ異端を排除することこそが、この江戸の秩序を守る道よ。——おい、そこの男も捕らえよ」
龍仙の指差す先には、功一郎がいた。二人の役人が左右から功一郎の腕を掴み、背後に捻り上げる。
「うぐっ……!」
万事休す。誰もがそう思った瞬間、功一郎の目が、かつて自分が引きこもっていた厨房の隅——そこに置かれた、自作の「水薬の瓶」と「火打石の道具一式」を捉えた。
(……火すら熾せない、無能な男だと、誰もが思っているな?)
功一郎はわざと激しく暴れ、掴んでいた役人の一人の懐へ体当たりした。意表を突かれた役人がよろめいた隙に、功一郎は捻られた腕の痛みを堪え、床へ転がり込む。
目指すは、火口の入った箱と、アルコール代わりに使っていた度数の高い焼酎の瓶だ。
役人「何をする、大人しくしろ!」
役人が十手を振り下ろすより早く、功一郎は火打金と火打石を狂ったように打ち合わせた。
カチッ、カチカチッ!
かつて志乃に呆れられた、あの不器用な手つきではない。執念だけで火花を散らす。
飛び散った火花が、床にぶちまけた焼酎と火口に引火し、ボッと激しい炎と煙が爆発するように燃え上がった。
役人「うわあああっ!? 火事だ!」
役人「ひるむな、捕らえろ!」
突然の炎と白煙に、役人たちが一瞬だけ怯み、目を覆う。
功一郎はその隙を逃さなかった。煙の中を這うように進み、玄庵と志乃を縛ろうとしていた役人の足を強かに払う。体勢を崩した役人から十手を奪い取り、玄庵たちの縄をほどいた。
功一郎「走れ! 玄庵殿、志乃!」
煙を吸って激しく咳き込みながら、功一郎が叫ぶ。
しかし、志乃は逃げようとはせず、炎の向こうで役人に包囲されかけている功一郎の姿を見て、悲痛な声をあげた。
志乃「功一郎様……もう逃げ場はありません! 私たちさえいなければ、あなたは……っ!」
志乃の言葉は本気だった。
功一郎が作った「脚気の水薬」の製法と利権は、龍仙たち権力者にとって喉から手が出るほど欲しい富の源泉だ。今ここで玄庵と志乃を見捨てて龍仙に下れば、功一郎だけは「罪」を免れ、お抱え医師としての栄達すら約束される。それを志乃は分かっていた。自分たちが足手まといになり、彼の未来を潰してしまうことを恐れたのだ。
だが、功一郎は不敵に笑った。
功一郎「馬鹿を言うな! 俺の知恵は、お前たちと共にある!」
迫り来る役人の前に立ちはだかり、功一郎は十手を構え直す。
功一郎「行け! 俺が足止めをする!」
功一郎の必死の立ち回りで、志乃と玄庵は診療所の奥へと身を隠す。功一郎は役人の群れに包囲され、絶体絶命の危機に陥る。
刺股が四方から迫る。
功一郎(心の声)「……俺は何のために戻ってきた。検査の結果待ちの、余命宣告を怯えて待つ老人として、冷たい筒の中で消えていくはずだった。なのに今、俺は息をしている。若い体で、熱い江戸の夜の中で」
刺股の一本が、肩をかすめる。
功一郎(心の声)「……ふ。悪くない」
シーン5:閉ざされた未来
【場所:江戸・診療所の裏庭】
「カン……カン……」遠くで半鐘の音が聞こえてくる。
功一郎「また火事か。どうやら近いらしい」
「カン……カン……」
半鐘の音は徐々に近づいてくる。そして徐々に物理的な金属音へ。あの忌々しくも懐かしい音へと変質し始める。
功一郎「これは……」
音が加速し、視界が歪む。江戸の星空が現代の蛍光灯へと重なり合う。
功一郎「待ってくれ! 今はだめだ……!」
役人の刺股が功一郎の首元にからむ、その瞬間――。功一郎の脳内で、MRI室の白い光がフラッシュバックする。
役人の声が遠のき、江戸の街が歪み始める。龍仙の嘲笑う顔が、無機質な検査装置のモニターへと溶けていく。
功一郎「……違う、まだだ! まだ、志乃に伝えるべきことがある。龍仙を追い詰め、この診療所を救わねばならないのに!」
空気が振動し、壁が薄い霧のように揺れ始める。志乃の驚く顔、玄庵の叫び。それらがすべて、遠い夢のように遠ざかっていく。
功一郎「志乃! 必ず……必ず戻って……!」
半鐘の音が、暴力的なほどの「機械音(MRI)」へと切り替わる。功一郎の意識は、江戸の熱い夜から、冷たい検査装置の中へと強制送還されていく。
【場所:大学病院・MRI室】
「ピーーッ!」という終了音。筒がスライドし、無機質な看護師の宣告が響く。
看護師「検査は終了です。大丈夫ですか? かなり心拍数が乱れていましたが……」
功一郎は、虚空を掴むように指を動かし、荒い息をつく。現代の冷たい点滴の管。七十代の衰えた皮膚。功一郎は自分の掌を凝視したまま、激しく震える。
功一郎「……消えたのか。彼らをあそこに残したまま」
功一郎は震える手を見つめる。そこには何も触れるものはないはずなのに、焼けた柱を支えた時の熱さと、志乃の指先を握った時の温もりが、切り離されたはずの神経に鮮烈な痛みを伴って蘇る。あたかも、失ったはずの手足がそこにあるかのように、江戸での記憶が神経を刺激する――幻肢痛に似た感覚だった。
モニタールームのガラスが開き、息子が入ってくる。
息子「父さん、大丈夫? 心拍数がすごく乱れてたって」
功一郎「……ああ」
息子「先生が言うには、脳に少し影が。入院は長引きそうだそうです。父さん、病室へ行きましょう……」
車いすを押す息子の声を聞き流しながら、功一郎は別のことを考えていた。
功一郎(心の声)「入院。……俺が今、最もよく知っている言葉だ」
息子「ところで進めていた会社の買収の件だけど、『開かれた頭脳』社と『蟻の絵』社、最終的にどちらにいたしますか」
功一郎「そんな話……もうお前に任せた会社だ。お前の好きなようにしなさい」
息子は少し驚いたように、父の横顔を見た。
かつての功一郎ならば、買収案件を病床で握り続け、手放すことなど絶対になかったはずだ。
しかし功一郎は窓の外を見ていた。病院の蛍光灯が、夜の空に白く滲んでいる。その光の向こうに、煤にけぶる江戸の空が見えるような気がした。
エピローグ
深夜の病院。検査棟は人影が途絶え、廊下には消灯後の非常灯だけが、か細い光を落としている。
そのMRI室に、ひそかに忍び込もうとする人影があった。
病院の検査着のまま、点滴の管を引き抜いた痕を押さえながら、功一郎は冷たい筒の前に立つ。
功一郎(静かに)「志乃。……待っていてくれ」
MRIの奥から、再び微かな「半鐘の音」が聞こえる。
それは、次の世界への招待状だった。
(暗転)




