第93話 深淵のような黒
蓮の家を出たひなは、どこか清々しい気持ちで住宅街を歩く。しかしふと思い出した出来事に、ひなの表情がふっと暗くなる。
蓮に言いかけてやめた言葉。それを言った方がよかったのではないかという気持ちと、言わなくて正解だったという気持ちがないまぜになる。
(でも……なんて説明するの?)
ひなはあの日の出来事を思い出す。それはI'm a ☆のライブが始まる前日のことだった。
霊魂管理局の宿舎を歩いていたひなは、突然閻魔に声をかけられた。閻魔はずいぶん疲れた様子で、冥界の裁判の大変さを物語っている。
「いきなりごめんね。ちょっと黒木さんにお話があって……」
ひなは最初、麗奈を観察しているのがばれたのだと思った。しかしそれならば、どうして閻魔に呼ばれるのだろうと不思議に思う。さすがに課長も部長も飛ばして、局長が対応することではない。
不安はあるが断れる立場でもなく、ひなは閻魔と共に局長室に足を運ぶ。その重厚な扉をくぐるのは初めてのことで、ひなは緊張に脈打つ鼓動を感じながら部屋に足を踏み入れる。
閻魔に勧められ、ひなは金の刺繍が施されたソファに腰かける。閻魔はこれまた立派な急須で、自ら茶を淹れる。
「緑茶でよかった?」
「えっ、飲めるんですか?」
「幽霊は冥界の物なら口にできるよ。逆に生きてると、ここの物は食べられないんだけど。蓮きゅんなんかは特殊体質だから、彼岸も此岸も関係なく食べちゃうけどね」
(蓮きゅん……)
ひなは閻魔の外見こそ知っていたが、話したことはほとんどない。閻魔大王のイメージとかけ離れた言動に驚きつつ、目の前に置かれた湯呑みに目を向ける。
ひなは炎のような柄の湯呑みを持ち上げ、恐る恐る口をつける。口に入ってきた液体の感触に懐かしさを覚え、ひなはほっと息をつく。
(緑茶ってこんなに苦かったっけ……?)
一瞬そう思ったが、ひなは久しぶりに飲んだからそう感じるのだと解釈する。閻魔が茶を淹れるのが下手という可能性は考えなかった。
閻魔はひなの正面のソファに腰かけ、自身が淹れた緑茶をすする。
「にがっ!」
(あ、やっぱり苦いんだ……)
げほげほとせき込む閻魔に、ひなはふっと笑みをこぼす。局長に対して失礼だとは思うが、おかげで肩の力が抜けた。
閻魔は恥ずかしそうに咳払いをして、湯呑みを机に置きひなを見る。
「回収課になってから、そろそろ三年経つよね。御手洗くんとはうまくやってる? 困ってることとかない?」
「はい。不便なく回収できています」
ひなは呼ばれた理由を、定期面談みたいなものだと解釈して質問に答える。閻魔はひなを疑っている様子はなく、ひなは麗奈を追っていることはばれていないのだと安心する。
しばらく当たり障りのないやり取りをした後、閻魔は突然不思議なことを聞いてきた。
「もし黒木さんに、冥界以外の門を開ける力があったらどうする?」
「え?」
ひなは思わず素っ頓狂な声を上げる。閻魔は気にする様子もなく、ほとんど中身が減った湯呑みを手に取る。
「天野 夕樹くんのことは知ってる?」
「あまり……」
「黒木さんが入ったときは、もう失踪した後だったっけ。彼は冥界の門だけじゃなくて、天道への門を開く力も持ってたんだ。こんな感じで喋ってるときに見つけたんだけど……」
閻魔は緑茶を一口含み、机にことりと音を立てて置く。閻魔が顔を上げたとき、その瞳の黒さにひなはぞくりとする。深淵のような黒は、先ほどまでの穏やかさが嘘のように、不気味な光を放っている。
「黒木さんにも、似たような力があると思うんだよね。調べてみないと確かなことは言えないけど……。調べてみる?」
異様な雰囲気に、ひなは何も言えなくなる。悪寒が体を駆け抜け、膝に置いた拳が小さく震える。
「い、いえ……。大丈夫、です……」
発した声は、喉に引っ掛かったように歪な音をしている。作り笑顔は得意なはずなのに、ひなは笑えている自信がない。
ほんの一、二秒、しかしひなには永遠にも思える時間の後、閻魔は情けない笑顔で後頭部を掻いた。
「そ、そうだよね~。ごめんね、変なこと言って。急にそんなこと言われても困るよね。そんな力があったところで、使いどころもないし」
閻魔の様子が戻ったように見えるが、ひなはその言葉に肩を震わせる。
(やっぱり、あたしが麗奈に何をしようとしてるか気づいてるんじゃ……)
考えすぎかもしれないとひなは思う。しかし意図的に発した言葉にも思え、ひなの背中にないはずの汗が伝う。
閻魔はのんびりとした様子でソファから立ち上がる。
「特に問題ないならよかった。お話はこれだけだよ。時間くれてありがとう」
「い、いえ……。ありがとうございました」
ひなは何とか笑顔を浮かべて立ち上がる。閻魔は先導するように出入口に向かい、扉に手をかける。
「あ、そうだ」
扉を開けないまま、閻魔はにこにこと微笑み振り返る。
「これは抜き打ちの面談だから、みんなには言わないでね」
なんでもない穏やかな笑顔。だがその裏におどろおどろしい影を感じ、ひなの肩が再び震える。
「はい、わかりました」
そう言った自分の顔は、ちゃんと笑えていただろうか。ひなの体は、初めてステージに立った日より緊張している。
閻魔は笑みを浮かべたまま扉を開き、何事もなかったかのようにひなを送り出す。扉はゆっくりと、大きな音を立てて閉じられる。
ひなはまだ落ち着かず、監視されているような不気味さを感じながら部屋に戻る。麗奈に手を出すのをやめようかと思ったが、むしろ「やれ」と言われているようにも感じた。
その記憶にまた身震いし、ひなは蓮の家から帰る道で立ち止まる。
(今回厳重注意で済んだのは、あたしがあの事を誰にも話してないから、よね……)
影がまとわりつくような感覚に、ひなは胸を押さえてうつむく。もしひなが感じた恐ろしさが、気のせいではないとしたら。
「あたし、どうしたらいいの? 蓮……」
突然思い立って書き始めた3章も終わりました。もう少し短くなるはずだったのですが、想定通りにはいかないものですね。
2章まで書いた段階で、「この話、霊感ない人出てなくね……?」と思い、書き始めたのが3章でした。幽霊が見えない人と幽霊の絡みを入れたかったんですよね。
麗奈は目の前にいたら鬱陶しいと思いますが、書いている分には楽しかったですね。
次が最終章になります。彼らの行く末を見守っていただけると幸いです。




