第92話 肌寒い部屋の温かさ
I'm a ☆のライブは無事に終わった。少なくともネットではトラブルの噂はなく、蓮より詳しいと思われる葵も、特にそれらしい話題はしていない。
蓮はいつも通り、パソコンに向かい自分の会社の仕事をする。そのとき、ふとベランダに幽霊の気配を感じる。
「蓮、入っていい?」
聞こえた声はいつも通りで、蓮は安心しつつ椅子から立ち上がる。ベランダの窓を開けると、そこにはずいぶん吹っ切れた顔のひなが立っていた。
「顔色よさそうだな」
「もう死んでるのに、顔色とかある? 悪いよりはいいけど」
ひなは慣れた様子で蓮の家の敷居をまたぐ。蓮は窓を閉め、再びパソコンの前の椅子に腰かける。一連の動作を右手だけで行っていることに気づいたのか、ひなは少し気まずそうに眉尻を下げる。
「腕、本当にごめんね。謝って済むことじゃないけど……」
「別に。今はそこまで痛くない」
「ちゃんと病院行った?」
「全員同じこと聞くな……。行った。強めの打撲だと。二週間もしたら痣も消える」
「そっか……。蓮って自分のことには無頓着だから、心配になっちゃうんだよね」
「子供じゃねぇんだから……。お前は大丈夫だったのか? 規約違反だろ」
霊魂管理局において、生者に怪我を負わせることは重罪だ。蓮は怪我の報告を行っていないが、全てを見通す鏡がある以上、見つからずに逃げ切ることはできない。
ひなは少し寂しそうな、複雑な表情で笑う。
「うん、まあ……。今回は厳重注意で済んだよ」
「そうか。よかったな」
その表情に違和感を覚えつつ、蓮はそれ以上何も聞かない。聞いてほしいなら、そのうち自分から言うだろう。
ひなは少しもじもじとして、垂れた横髪を耳にかける。
「蓮、あの……ありがとね」
突然の言葉に驚き、蓮はひなの顔を見る。照れているのか、少し頬が赤い。
「……どうした急に。気持ち悪ぃ」
「ちょっ……! せっかく人が感謝してるのに!」
ぷりぷりと怒るひなに、蓮は少し安心する。あまりにもしおらしい様子に、本当は別人が化けているのではと疑っていたのだ。
ひなは頬を膨らませながらも、再びうっすらと頬を染める。
「あたし、ずっと麗奈のことが許せなかった。正直今も許してないし、毎日箪笥の角に小指をぶつけたらいいのにと思う。でも」
ひなは目を伏せ、寂しげな微笑みを浮かべる。
「ステージに立つ麗奈は本物だった」
ひなの表情は複雑で、嬉しいとも悲しいとも、悔しいとも取れる。蓮は何も言わず、ひなの言葉に耳を傾ける。
「舞台上の麗奈は、誰よりもアイドルだった。どの角度から見ても可愛くて、ファンの期待以上のパフォーマンスをして、その空間の誰よりも輝いてた。そこにいつもの麗奈はいない、完璧な“偶像”だった」
ひなは複雑な表情のまま、ゆっくりとベッドに腰かける。
「回収課に入るとき、拒否権なんてなかったけど、あたしはこれをチャンスだと思ったの。あたしが死んだ後、グループがどうなっていくのか見届けられるから。自分が死んだのはもちろん悔しいけど、それよりも、アイスタのことが大事だった」
ひなは落ち着いた様子で、蓮に笑みを向ける。
「蓮は麗奈だけじゃなくて、ライブを楽しみにするみんなのことも、その日のために働いてきた人たちのことも、あたしの心も守ってくれた。だから、ありがとう」
「……おう」
蓮は少し恥ずかしくなり、ひなから目を逸らす。蓮にそこまでの意図はなかったが、結果的に多くを守れたのならよかったと思う。
蓮は椅子を回し、パソコンに体を向けようとする。
「そういえば、蓮はなんで霊魂管理局にいるの?」
「はぁ?」
ひなの突然の質問に、蓮は再びひなを見て眉根を寄せる。
「なんだ急に」
「なんか、急に不思議に思った」
「理由ねぇのかよ」
「うん。蓮は閻魔様の子とはいえ、霊魂管理局に従わなきゃいけないわけじゃないでしょ? 扉の力を悪用したわけでもないし」
「まあな……」
蓮はうっすらと、あの日の感情を思い出す。しかしすぐに蓋をして、椅子を回してひなに背を向ける。
「別に、大した理由じゃない」
「そっか。じゃあいいや」
あっさりとしたひなの言葉に、蓮は拍子抜けする。ひじ掛けに置いた手がずるりと落ちそうになった。
「自分で聞いといて、あっさり引き下がるんだな……」
「蓮がそうやって言うときは、隠したいことがあるときだから」
完全に思考回路を読まれていることに、蓮は少し気まずくなる。ひなはすくっと立ち上がり、ベランダの窓の前に立つ。
「じゃあ、あたしもう行くね」
「おー」
ひなは窓の鍵に手をかける。しかしその手を止め、ひなは勢いよく蓮に顔を向ける。
「蓮、あのね――」
そこまで言って、ひなは口を噤む。蓮は不思議に思い、椅子を回してひなを見る。
「なんだ?」
「……ううん。やっぱりなんでもない」
ひなは笑みを浮かべ、蓮に向かいひらひらと手を振る。
「話聞いてくれてありがと! またね!」
ひなは窓を開けて部屋を出ると、丁寧な仕草で窓を閉める。弾むように飛んだひなは、風船でもついているようにふわりと地面に着地する。
椅子から立ち上がった蓮は、その様子を見届け、窓の鍵をかける。外気が吹き込んだ部屋は肌寒くなったはずなのに、蓮は不思議と温かさを感じていた。




