第75話 相棒なんだから
そのとき、突然夕樹のコートが強い力で引っ張られる。夕樹が驚きに目を開くと、コートの胸元を誰かの手が握っている。その手の主は夕樹を引っ張りながら、振り返ることなく上昇していく。水面に映る街灯の明かりが、彼の金髪を照らした。
「ぷはっ!」
夕樹が水面から顔を上げる。その瞬間、重かった体が重りを失ったように軽く感じる。水中にいたのに髪は乾いていて、夕樹はぼんやりと、走馬灯から戻ってきたのだと自覚する。
再び胸元を引かれ、夕樹はその先の人物に目を向ける。かつての相棒が、夕樹を引っ張りながら川岸に向かって泳いでいた。
岸にたどり着き、沙斗琉は簡単そうに川から上がる。川に落ちる前に持っていた大鎌は、いつの間にかなくなっている。
夕樹は沙斗琉に腕を引かれ、なんとか岸に這い上がる。それとほぼ同時に、上空から晴翔がゆっくりと下りて地面に着地する。
「二人とも大丈夫ー?」
「オレは大丈夫ー。下が水でよかったよ。地面だったら無事なイメージができなかった」
沙斗琉が手を振りながら緩いテンションで答える。晴翔は少し心配そうに、夕樹の元へ駆け寄ってくる。
「お兄ちゃんも大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫……」
「そっか! よかった」
晴翔の無邪気な笑顔に、夕樹は一気に肩の力が抜ける。しかし次の瞬間、左の頬に強い衝撃が走った。
よろけながら、夕樹は少し遅れて殴られたのだと認識する。あまり痛みは感じないが、条件反射で夕樹は頬に手を添える。
殴った人物がいる方へ目を向けると、拳を握ったまま息を吐く沙斗琉の姿がある。沙斗琉は睨むように、鋭い瞳で夕樹を見下ろす。
「やーっと殴れた。あー長かった」
「いや、これ暴行罪……」
「わかってるよ。その分の罰は受ける」
未だ獲物を見るような沙斗琉の視線に、夕樹は委縮する。長身の沙斗琉に見下ろされると、それだけで迫力がすごい。
沙斗琉は拳を下ろし、夕樹の真正面に立つ。少し怒りの引いた瞳には、今度は真剣な色が浮かんでいる。
「蓮と葵くんと話してたとき、『他の幽霊たちに協力を求めた』って言ってたよね」
「え? うん……」
「オレ求められてないんだけど」
沙斗琉の言葉に、夕樹はぱちぱちと瞬きをする。
「だって、沙斗琉は興味なさそうだったから……」
「興味ありそうなやつにだけ声かけて、誰も協力してくれないって嘆いてたの?」
「なっ……!」
沙斗琉の言い方に、夕樹は無意識に青筋を立てる。自分の必死な思いを嘲笑われたようで、夕樹はぎゅっと拳を握る。
「興味のない人に言ったって意味がないじゃないか! どうせ断られるのが目に見えてるのに……」
「それって思い込みじゃない? 就活で見込みのある企業にだけ応募して全落ちして、就職失敗したーって言ってるみたい」
「じゃあ沙斗琉は、言ったら協力してくれたの!?」
「当たり前でしょ。相棒なんだから」
迷いのない声に、夕樹はぽかんと口を開ける。沙斗琉は夕樹に真剣な目を向けたまま言葉を続ける。
「夕樹のやり方に賛同したかはわからない。でも、聞いた上で間違ってると思ったらそう言うし、他にいい方法を考えもする。興味がないって一蹴するほど薄情じゃないよ」
夕樹は、沙斗琉は自分に協力しないだろうと思い込んでいた。自分の死にすら無頓着な沙斗琉は、他人の死にも興味を示さないだろうと。
どうせ言っても意味がない。意味がないことは時間の無駄。そう思い、沙斗琉に相談するという選択肢は最初から排除していた。
夕樹は拳を緩め、うなだれるように足元に目を向ける。
「僕が、間違ってたの? 誰も助けてくれない。それなら一人でやらなきゃって思って、理不尽な判決から僕が救おうって……」
「やり方が合ってたとは思わないね。霊を天道に送っても、冥界に行くまでの時間の先延ばしにしかならないし。結局、理不尽な判決をされることには変わりない。まあでも、一石を投じることはできたんじゃない? 制度の見直しくらいはされるでしょ」
沙斗琉は夕樹に背を向け、駅の方角へすたすたと歩き出す。
「えっ、僕を連れて帰ったりしないの!?」
「できないよ。門の力持ってないし。そもそも殴りに来ただけだから」
沙斗琉は振り返ることなく、ひらひらと片手を振る。
「じゃあね。晴翔くんには、ちゃんと謝りなよ」
沙斗琉はモデルのように優雅な足取りで、迷いなく去っていく。夕樹は開いた口が塞がらないまま、小さくなる背中を眺める。
不意に、右の袖が引っ張られる。見下ろすと、今にも泣きそうに瞳を潤ませる晴翔がいた。
「ぼくも、相談された覚えないよ」
「……ごめん。巻き込んじゃいけないと思って」
「ぼく、そんなに頼りない?」
夕樹は膝を曲げ、晴翔と視線の高さを合わせる。晴翔のサラサラとした髪をなでると、晴翔は不安げな瞳を夕樹に向ける。
「そんなことないよ。僕が勝手に、晴翔を子供だと思ってたんだ。ごめんね」
夕樹は努めて優しく晴翔に微笑みかける。
「一緒に帰ろう。僕、懲りずに十王と交渉するつもりだけど……晴翔も手伝ってくれる?」
晴翔の表情がみるみる明るくなる。晴翔が目を細めると同時に、その大きな瞳から一筋の雫がこぼれる。
「うん! ぼく、がんばるね!」
晴翔が夕樹の手をぎゅっと握る。その笑顔に眩しさを感じながら、夕樹は晴翔の手をしっかりと握り返す。
幽霊は涙を流さない。肉体がないのだから当然水分もなく、血も汗も涙もあるはずがない。
では、晴翔が流したものは何だったのか。一見不思議なこの現象を、夕樹は不思議だとは思わなかった。
夕樹が空間に手を翳す。久しぶりに出現させる冥界の門は、天道の門よりよほど手に馴染んでいるように思える。
神々しくも禍々しい光を浴びながら、夕樹は晴翔と共に、すがすがしい気持ちで門をくぐった。




